井上泰至・田中康二『江戸の文学史と思想史』

江戸の文学史と思想史

江戸の文学史と思想史

本書は「文学研究側からの思想史学への果たし状」(p259)という趣旨のもとで、「儒学」・「国学」・「老荘」・「史学・軍学」の各論から、江戸文学と江戸思想をいかに架橋するかを考えるための糸口として拝読しました。

この話題は雑考として本ブログでも書きました。

http://n-shikata.hatenablog.com/entry/20120912/p1

この話題を自分なりに深める意味で拝読したのですが、本書は、現在の思想史研究において何が欠けているか、ということも示唆していると思います。

また、私の関心としては、「儒学」(池澤一郎)・「国学」(田中康二)の論考が重なるので、そのあたりを拾って考えてみたいと思います。

池澤論文では、漢詩文に焦点を当てたうえで、「漢詩を思想の器たりうると見なして、丁寧に分析せんとする思想史研究者」が現れないことの意味を問うています、続けて、「漢詩リテラシーの停滞こそが、思想史の研究対象から漢詩が外されている真の理由ではないか」(p23-p24)と指摘しています。

田中論文では、「国学者は必ず和歌を詠む。和歌を詠むことは国学者であるための必要条件なのである」(p114)という前提に立ったうえで、思想として和歌を読解することの意義を考察した論考だと受け止めました。

どちらも近年の江戸文学研究で、盛んに議論されている「リテラシー論」とも繋がっている問題だと思います。

これは、先日の記事でも参考にしていただいたmyongsooさんも、思想史学としての「リテラシー」について指摘しています。

http://myungsoo.blog106.fc2.com/blog-entry-128.htm

私としては、高山氏のご指摘に勉強させていただいたことはあるのですが、それはそれとして、忘却散人氏が指摘された技術(リテラシー)的な問題について どのように考えられているのか、ということに興味がありました。それについて応答が無かったのは残念です しかしこのようなやりとりは、近世文学、近世思想史、近世史間でもっと盛んに行われてもよいのではないか、と感じました。さて、愚見ですが、この論争には近代文学にも通じる問題が潜んでいると考えます。つまりは、日本思想史や近代文学を学ぶ全ての人が身に付けなければならない共通基盤とは何か、という問題です。

リテラシー」の問題に関しては、思想史学の場合は、研究者がどのような学問的手法を身に着けたかによって色合いが変わるのですけど、文学研究者側から見れば、思想史研究における「リテラシー」の欠如が目に付くのは、わからないわけではありません。思想史以外を研究している歴史学者からも、その点はよく言われることは、先日の記事でも書きました。

しかし、本書における思想史に対する批判は間違いはなく、むしろ「原本から構成できるテクスト読解力」は、思想史でも必要な訓練であり、またこの点は僕も最近になり痛切に感じています。

その上で、本書の率直な感想を述べますと、江戸文学研究者側からの、「将来の江戸思想史研究に求めるもの」を一方的に語っているようにも感じられました。むしろ、「江戸文学研究のなかで思想史をどう生かすか」ということも個人的には聞きたかったところですが、それが各論で空中分解してしまったような印象も拭えません。

逆に言えば、いままで江戸思想史研究が江戸文学研究をあまり重視してこなかった歴史的経緯や姿勢を本書は証左するもので、その点に関しては真摯に受け止めなければならないと思います。互いに「学問手法が違う」というレベルで敬遠するのではなくて、「現在の両領域で組み替えなければならない課題はなにか」ということを本書は突きつけていると思います。

界隈でおきた議論に引き付けて言うならば、思想史側が江戸文学研究への反応が鈍い背景については、先日の雑考にて触れたとおりです。しかし、あまりにも鈍すぎることへの違和感はありましたので、本書の限られた紹介を通して、私なりの応答とさせていただきます。