テツオ・ナジタ『Doing思想史』(2)

確かに、安藤昌益の文章は、いくら日本語に堪能でも、なかなか読めるものではない。それは漢文としては独特の漢文であり、概念も全く独自の把握によるものだった。(奈良本辰也「ノーマンと安藤昌益」)


けれども、昌益の言葉の用い方は彼の批判哲学の中心部をなしているのです。たぶん昌益は、禅が持っていた言葉に対する懐疑論を保持していました。禅においては道教と同様に、言葉は「作為的」なものであって、せいぜい機能的な必要性しかないものでした。論理的に構成されたコミュニケーションの様式であったとしても、いずれもそうしたものは人を欺くものであり、情念、欲望、苦痛などと結びついたものです。言葉とは、人間の、今、ここにある野望を仲介してしまうものです。言葉は、「悟り」のほんとうの意味を説明することができませんでした。歴史的に長期にわたって、言葉を作為的で欺きやすいという観点で問題とするさまざまな議論が行われてきましたが、昌益は、そうした議論のいちばん外側の縁のところに立っている政治的過激派とみていいと思います。(pp40-pp41)