〈とらえそこないの惧れ〉と思想史の〈外部〉―子安思想史への省察として―

  
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1.はじめに

本報告で求められていることは、実に単純である。端的に言えば、子安思想史が投げかけた一連の問いを、私なりに引き受けて書くことに尽きる。ただ子安思想史は、なおも現在進行形のため、簡単に総括するのは困難である。それを言語化できるほどの力量は私にはない。ないが、それでもなお、子安思想史がなしてきた作業を検証することは、やはり必要だと思われる。そのことは子安思想史の是非を問うことではない。〈物語〉や〈言説〉という学術用語自体は、なにも子安思想史を介さなくても、ポスト冷戦という歴史的経験を経るなかで、どの人文学の分野でも、すでに受容されていたし、しかるべき有効なタームであったことは違いないからだ。いま、子安思想史を検証することの意味をあえていうならば、子安思想史がなしてきた作業を跡付けることで、ふたたび思想史における理論的作業とは何かを再考するものとして書かれるべきであろう。もちろん、その困難性を自ら引き受けたうえで。

子安宣邦(1933−)が、『宣長と篤胤の世界』(1977)を世に上梓し、思想史家としての出発したあと、「ときおり宣長に触れることがあっても私は宣長に正面することはなかった」*1 と本人が述懐しているように、1980年代は、『伊藤仁斎―人倫的世界の思想』(1982)を上梓しただけである。しかし、冷戦構造の崩壊に伴う世界構造の地政学的変動と歴史修正主義の台頭を感じながら、子安自らが「言説論的転回」*2 と呼称する一連の著作、つまり『「事件」としての徂徠学』(1990)・『本居宣長』(1992)・『「宣長問題」とは何か』(1995)を相次いで世に問うことにより、子安宣邦が、一連の思想史的作業を介しながら提起した議論は、いまや思想史という範疇を超えて、人文学に膾炙しているといえる。

子安思想史の〈方法〉は、どんなに〈政治的〉と揶揄されようとも、現在的な介入を試みる。その試みこそが、子安思想史の〈方法〉の核であるといえる。最も顕著な例は、いうまでもなく、劉暁波事件を介しての活動であることは間違いない。ここでは、子安宣邦が、いま自ら為してきた思想史的方法論をどう引き受けているのかを確認をしておきたいからである。子安は次のようにいう。

彼らは死者たちを恐れている。死者たちを背負い続ける生者を恐れている。だからもしわれわれが希望を未来に見出しうるとするならば、歴史から抹消さる、忘却されようとする死者たちをわれわれが背負い続けようとすることによってである。……私は劉暁波についていいながら、この日本での死者たちを背負った私の闘いのあり方を考えている。……アジアの其処と此処における死者たちを背負ったものの闘いだけが、アジアのわれわれの間に希望の共同体を築いていくだろう 。*3

子安思想史は〈忘却された死者たち〉の傍らにいるというべきなのだろうか。あるいは自らの闘いとは、つまり〈死者たち〉を忘却の彼方へ追いやらないための闘いである。

国家によって殺され、国家によっては決して祀られない死者たちが、そんな国家の連続を願うことはない。二〇世紀とはこうした無数の死者たちによって国家が問い返された、あるいは問い返されねばならなかった時代である。死者の数は無意味に積み重なっているのではない。……国家が祀るとは何なのか、その死者たちは問うているのである。*4

序論では、子安思想史がいまいる現在地点を確認した。そのうえで私なりに子安思想史への省察を試みたいと考えている。本報告でテーマとなるのは、〈方法としての江戸〉論である。今後の検討として様々な課題が必要となると思うが、いまもっとも広範な影響をもっている、この問題を深めるだけでも価値があるように思われる。

2.〈とらえそこないの惧れ〉から〈宣長問題〉へ

ここでは、子安思想史が1990年代に提示した〈方法としての江戸〉論を題材に考察を試みたい。それが提起した方法については、主に日本思想史の研究に従事する人たちにとって、つねに頭の傍らでよぎるものだからである。子安は冷戦崩壊から一連の〈方法としての江戸〉論という形で織り成された作業は、ある意味で歴史的要請に応じた、子安なりの提示として打ち出されたものである。その転機について、子安は次のように述べる。

宣長と篤胤の世界』(中央公論社、一九七七)を書いて以来、ときおり宣長に触れることがあっても私は正面することはなかった。この〈「宣長問題」とは何か〉を問うて以来、宣長はあらためて私の正面せねばならなかった対象として登場してきた。しかしそれはかつてとは異なる視角においてである。近代以後をいわれる現在の日本にあって〈「宣長問題」〉という視角を通じて宣長は、あらためて再考せねばならない対象として私の眼前に再浮上してきたのである。「宣長問題」とは、あえて簡潔にいってしまえば、ほかならぬ近代日本において自己(日本)言及的言説として強力に、たえず再生する宣長の国学的言説の問題である。*5

しかし、「ときおり宣長に触れるがあっても私は宣長に正面することはなかった」という述懐を素直に受け止めてもいいのだろうか。たしかに80年代の子安宣邦の作業は、ひたすらに天理図書館の古義堂文庫に通いつめ、伊藤仁斎の自筆稿本を読んでいた。その作業は『伊藤仁斎』(1982)に結実している。ある意味で、いまの子安思想史とは真逆の態度ではあるように思われるむきがあるかもしれない。だがそれは対象と向き合い、はりつめた緊張関係からの真摯な〈読み〉の作業を通じて、ふたたび自分自身が問われていることを、子安自身がよく知っていたからに他ならない。自分とテクストとのはりつめた緊張関係を持ちながら読むこと。子安思想史の出発点ともいえる『宣長と篤胤の世界』(1977)には、テクストの対象と向き合うことがいかなる行為なのか、ということをすでに明示している。後に付け加え、「対象への戸惑いと恐れをもちながら進められた私における国学認識の始まり」*6 として、書かれた序論においてである。子安は次のようにいう。

本居宣長について語ろうとする場合、おそらくだれもが体験することだろうが、叙述しつつあるその行間から、いつも、自分がいま描きつつある彼の顔とは異なった顔がこちらをのぞいているように思われるのである。対象についてのとらえそこないの惧れを、宣長について語る場合にことに私は強くもつのである。*7

その序論で示された子安思想史の出発点は、対象に戸惑いながらも近づこうとし、宣長という存在はなんとか把握しようとする試みだといえる。だが、何かの過ちを犯してしまったら、また再び宣長という存在が見えなくなる。ここでいう〈とらえそこないの惧れ〉とは、宣長を読むという行為は、何かでその思想を規定してしまい、それで事足れりとしてしまうことで、その存在自体を何も捉えることが出来なくなってしまうような、〈惧れ〉であろう。

子安自身は、自らの思想史的方法が転換したことについて、何度も繰り返して述べている。子安思想史は初期の和辻倫理学に寄り添うかたちで、倫理学に依拠した学術用語を駆使しながら、宣長における〈情〉や〈事〉、〈道〉の概念を跡付けている。しかし、倫理学の手法と用語をもちいたとしても、あの〈宣長問題〉を契機として全てが変わってしまったと言えるのだろうか。その答えは〈戸惑い〉ながら、対象をとりこぼしてはならないという不安に駆られながら、〈とらえそこなう惧れ〉という子安独特の表現にこそ、すでに凝縮されていると、考えられるからである。それが困難を伴う作業であることも知りつつ。

たしかに、宣長について語ろうとする際に私がいだく危惧は、一般に他者理解ということにともなわれるような困難に由来するものだといいうるかもしれない。しかも宣長のような大きな精神的作業の結果を有する対象の理解ということであれば、その困難はより深い次元におけるものとなるであろう。私もそのことを否定するつもりはない。しかし、宣長理解にあたって事柄はもうひとつ複雑だと思うのである。というのは、宣長が私たちに提出している問題は、〈理解する〉ということそのことを問い直すような意味合いを、大きくその底に含むような問題だと私は考えているからである。……したがって、宣長について論ずる場合、対象を理解しようとする私たちの作業が、理解される宣長によってたえず問い返されるおもむきを、他の場合以上に私たちはあじわうことになるのである。*8

宣長が私たちに提出している問題は、〈理解する〉ということそのことを問い直すような意味合いを、大きくその底に含むような問題だと私は考えているからである」*9 と述べていることは、後に〈宣長問題〉で提示された自己言及的な近代知の機制とも関わってくるものであろう。さらに続けて、「宣長について論ずる場合、対象を理解しようとする私たちの作業が、理解される宣長によってたえず問い返されるおもむきを、他の場合以上に私たちはあじわうことになるのである」*10 と述べるように、対象自体を問うこととは、そもそも自己自身を問い返すことであるということを言葉は違えども、〈宣長問題〉における最大のテーマではなかったか。〈方法としての江戸〉とは、そもそも自己規定する対象を〈とらえそこなう惧れ〉を何も持たず、その対象を語ることの意味そのものを俎上にあげる方法論ではなかったか。

「方法としての江戸」という視座は、すでに信淵をめぐってのべたことからも知られるように、複合的な思想史作業を要請している。その複合性とは視座「江戸」の設定が既存の江戸像を構成している近代の読み直しを提示し、またそれを可能にし、そして近代の読み直しが今度は江戸の新たな読み直しを課題として提示してくるという思想史的作業の複合性である。そしてこの視座からする思想史的作業が、対象テクストの内的読解を通じて対象をただ再構成的に意味付けていく思想史とは異質なものとして、既存の思想史的方法への批判を含意した作業であるとすれば、その意味でもこの作業は複合的たらざるをえない。*11

西洋近代を追走しながら、その対抗として自己形成した日本の近代史を読み直し、とらえかえすための批判的な視座、それが「方法としての江戸」である。だが、「江戸」をいっても、それは決して近代への対抗としての「実体としての江戸」すなわち徳川日本の主張ではない。……「方法としての江戸」とは近代日本への対抗的な江戸の主張ではない。それは日本の近代史の外部に構成される、歴史批判のための方法的視座の主張である。*12

しかし、『宣長と篤胤の世界』で提示した世界を、いま子安思想史を学んだものでも振り返るものは少ないだろう。対象への〈戸惑い〉と〈とらえそこなう惧れ〉を不安に感じながら、その繊細な読みによって提示された世界は古めかしくも感じられる。しかしそれは後に〈宣長問題〉へと向かう方法論そのものを、既に孕んでいたというべきだろう。その意味で子安思想史は、すでに思想史という規定では、対象を捉えられないことを予見していたと言えないだろうか。

後世の宣長研究者は、「道てふことなけれど、道ありしなり」と宣長がいうような〈道〉の実質を規定しようとして、自然主義といい、素朴主義といい、あるいは彼の歌論との連関から主情主義といい、また人間主義ともいう。そうした規定のこちたさをしりぞける宣長の顔が、向う側からのぞいていることを人はみないだろうか。……宣長の思想の実体はなにかとまず規定してかかる理解の道によっては、彼の思想の世界はただそのかたわらをよぎられるにすぎないということになるのではないか。*13

子安自身が転換をなしたことを自ら言っているし、確かにそれは「ハイデガー」問題という具体的な状況のなかで、知識人とホロコーストという殺戮の歴史を繰り返してきた20世紀も黄昏をむかえようとする頃に、改めて宣長が問わなければならない時期が訪れたことへの、思想史家としての時代的応答という形でなされた作業といえる。

それを踏まえて、私なりに先週のゼミで出された宿題に答えるならば、子安思想史の方法論は、「宣長の実体とはなにかを規定してかかる理解」からでは、やはり宣長という存在を〈とらえそこなう惧れ〉があるということを既に予見していたのだと言える。子安思想史における対象への向き合う方法として、〈外部〉という言葉がある。しかしその概念について、子安は〈宣長問題〉以前に、言及していた。それは「江戸思想の世界性」と題された、柄谷行人子安宣邦との対談である。次はこの対談を検討することで、子安思想史における〈外部〉という方法について考えてみたい。

3.思想史の〈外部〉と世界の〈読み換え〉―対談:柄谷行人×子安宣邦「江戸思想の世界性」―

対談「江戸思想の世界性」は、『現代思想』1986年臨時増刊10月号の「総特集:江戸学のすすめ」のなかで行われた。その対談を通して思想史の〈外部〉の方法論が提示されており、また〈方法としての江戸〉を子安宣邦が後に語る意味を予感させているものとしても、興味深い。ここではその対談を軸にし、また〈方法としての江戸〉論と交差させる形で論を進めたい。

柄谷行人は、対談の切り口を示すために、丸山思想史を引き合いに出し、「エフェクト」という関係からではない思想史のあり方を述べる。

ぼくは、江戸の思想史についての本はだいぶ読んだけれど、丸山真男さんの本が代表的ですが、結局は「エフェクト」から書かれていると思うんですね。ところが子安さんの本はそのなかで例外的なもののひとつであって、仁斎なら仁斎、宣長なら宣長の思想自体をつかまえよう、という視点がある。ぼくは江戸のシステムとか江戸の時代思潮とかにはあまり興味はないのです。そうではなく江戸の思想家に“精神”をみつけたい。*14

柄谷行人は注釈学が現象学的地平を有しているが、『宣長と篤胤の世界』は現象学に通ずるようなものを持っているとも述べる。柄谷行人の発言を追ってみたい。

子安さんの本を読んでいて感心したのは、それはあまり目立たないように書いてあるけれども、非常に現象学的なんですね。つまり、フッサールが超越論的ということを述べているけれども、心、意識を問題するときに、それ自体ではなく、それについて問うということが超越論的だと思います。*15

ここで、柄谷行人の見解は措くとしても、影響関係という規定から丸山思想史は抜け切れてないのではないか、という提示は、子安も呼応するように述べている。しかし、子安はさらに思想史ではもう思想家の思想は捉えられないというところまで言及する。

しかし、宣長と向かい合っているうちに、思想史という方法ではどうしても宣長は読めない、つまり、思想史で読んでいくかぎり常に読み残されるのではないかと思いはじめたのです。*16

思想史という方法で宣長を考えていくと、宣長古事記注釈という仕事を理解する道はないといっていいのです。おそらく宣長の学問を構成するかなり決定的な部分が、思想史的な研究ではおちてしまうわけです。このことに余儀なく気づかざるをえなかったわけです。*17

この対談上で、子安はつねに思想史の〈エフェクト〉から捉えようとする視点の限界について述べている。子安思想史の〈方法としての江戸〉とは、この見方をさらに深化させているのだが、子安は、宣長の思想とはそもそも空無であり、実体などそもそもないとまで言っている。

宣長の『古事記伝』はいってみれば方法論に終始することで、その実体、ある何ものかというのは空無のままに残しているという気がするんですね。その空無のままに残しているところを、いろんなかたちで人が埋めているわけであって、それを「やまとごころ」といってみたりして埋めているだけです。その方法論的な古代研究を実体化していくのが、それ以後の国学イデオロギーだという気がするんです。*18

〈方法としての江戸〉論とは、周知のように〈空無のままに残しているところを、いろんなかたちで人が埋めている〉ことで、何らかの〈実体〉を再現しようとする批判的方法であった。もう一つこのことに関わるのが、〈外部〉という視座である。

もし近代以後をいわれる現在における己れの言説的展開に自覚的であるとすれば、人は「日本」という内部をたえず再生産し、「日本国家」という壁の上塗りをひたすらにするような近代の言説的な機制の外部に己れの視座を設定することに真剣でなければならないだろう。*19

この対談でも、〈外部〉のことが話題にあげられる。ここでの〈外部〉とはわれわれの思考そのものを懐疑的に問うことである。柄谷行人は次のように述べる。

たとえばデカルトは『方法叙説』のなかで、自分はあちこち旅行して思うに、各国の人々はそれぞれ、自分の共同体の慣習のなかで真理というものを考えている、ということがわかったんですね。そうすると、人間が考えているということは自由意志でも何でもなくて、システムのなかで考えているだけのことである。だから思考も機械にすぎない。システムにすぎないという認識があると思うんです。思考は精神ではない、ということなんです。思考も機械である。いままでは「思考」対「身体」だったわけですが、身体も思考も含めて、それは一つのシステムにすぎないんだと。そういうことを見る外部性が“精神”であるわけです。*20

もちろん、それは柄谷的な〈外部〉の見方であるが、子安も伊藤仁斎を例にして、次のように述べる。

仁斎の体験というのは、内から外まで朱子学というか宋学的言語に支配されているという経験ですね。若いときに非常に熱心に宋学の勉強をする。その勉強というのが、宋学的言語の支配をある面ではいっそう強めるかたちでなされるわけですね。そして行きついたところが、かなり長期にわたる心身の病気ということであった。仁斎の宋学的言語の解体ということと、孔子の「言葉」を見出すということとは同時的になされていく。その仁斎による宋学的言語の解体の作業を、ぼくは自分の本(『伊藤仁斎』)のなかで、「読みかえ」といったのは、仁斎の作業というのが、宋学的概念を使いながらそれを換骨奪胎するような作業だからです。ただ「読みかえ」ということで、支配的言語を別の支配的言語へと読みかえていくと解されたら、それはまったくちがう。「理一元論」を「気一元論」に読みかえるということは、仁斎とは無縁のことですね。むしろ一元的に支配しうる言語を解体しようとしているわけですから。*21

子安が〈方法としての江戸〉で、〈外部〉からの視座というので、念頭に置いていたのは、仁斎の思想は、心身の病気を罹患するほどの朱子学体験から、朱子学という一元的言語に対して、宋学的概念を保持しながらも、その世界の〈読みかえ〉を行ったということである。この子安の発言を敷衍していうのであれば、子安思想史における〈外部〉的視座とは、既存に概念の〈読みかえ〉を行う視座といえるのではないか。それは単に〈外部〉から〈内部〉を見るという視点ではない、ということが理解できよう。私も子安思想史における〈外部〉というものに対して、なぜそれが言わなければならないのか、なぜ〈外部〉なのか、ということに関しては、〈方法としての江戸〉という子安思想史がなした一定の水準からみてしまっていたところが否めない。しかし、〈外部〉という視座が子安思想史のなかで、なぜ言われる必要があるのか、ということもおそらく論証できたのではないだろうか。

4.おわりに

補論にしては、いささか分量をオーバーしてしまったようである。子安思想史には、ある独特な晦渋さがあり、それゆえ決してクリアに説明できて、とっつきやすいものではない。私もそのしんどさから子安思想史を「もう私は学びきったし、もう多くのことを教わった」という気持ちで、また子安自身が〈近代〉に軸を置いてしまっているので、多数の著作が公刊されても、重苦しくなるだけで、食指がいっこうにのびなかった。

これを機に改めて読み返してみると、子安自身が「転換した」ということをその都度述べている。そのことに対する先週のゼミへの問いには、最低限答えられたのではないかと考えている。だが、はじめから見通しがあったわけでもない。私は不意に目に飛び込んだ〈とらえそこなう惧れ〉という言葉で書かれている内容が、〈方法としての江戸〉を子安自らが語ったことを、用語が違うだけでやはり予見されていたことへの驚きであった。だから、私は〈江戸〉を問うことで〈近代〉もまた問われるという、子安思想史の方法は、転換したのではないと考えるに至ったのである。子安自ら時代的な応答として状況的介入を行うがゆえに、子安思想史の関心はいま〈近代〉に専ら注がれている。子安における〈江戸〉に関する発言は、市民を囲う場ではなされても、書物として出会うことはいまのところない。

しかし、〈江戸〉の発言をしなくなったからといって、子安思想史に安直な批判をしていいものだろうか。文献に帰れとでもいうのだろうか。子安思想史は、そのような自らとテクストとの緊張関係を決して疎かにせず、その課題を見出したのである。むしろ、私を含めた江戸思想の研究者がいまやれることは、子安思想史が提示した問題を新たに〈読みかえ〉ることで、また異なった課題を提示することによってであろう。本報告の省察をしめくくる言葉として、ふさわしいかどうか分からないが、ひとまずここで筆を擱く次第である。

【参考文献】
子安宣邦『「宣長問題」とは何か』、ちくま学芸文庫、2000年。
―――『「事件」としての徂徠学』、ちくま学芸文庫、2000年。
―――『方法としての江戸』、ぺりかん社、2000年。
―――『平田篤胤の世界』、ぺりかん社、2001年
―――『本居宣長』、岩波現代文庫、2001年。
―――『江戸思想史講義』、岩波現代文庫、2010年。
―――『国家と祭祀』、青土社、2004年
子安宣邦・劉燕子編『天安門事件から「08憲章」へ』藤原書店、2009年。
柄谷行人×子安宣邦「対話:江戸思想の世界性」、『現代思想』1986年臨時増刊10月号。

※著作は多数あるため、引用した文献のみに留めた。

文責:岩根卓史

※この文章は、2011年10月24日のゼミにて報告したものである。この場を借りて読者諸賢の意見を請う次第である。

*1:子安宣邦『「宣長問題」とは何か」』、ちくま学芸文庫、p13

*2:子安宣邦本居宣長』、岩波現代文庫、2001年、p223

*3:子安宣邦・劉燕子編『天安門事件から「08憲章」へ』藤原書店、2009年。p7

*4:子安宣邦『国家と祭祀』、青土社、2004年、p189-p190

*5:子安前掲書『「宣長問題」とは何か」』、ちくま学芸文庫、p13。

*6:子安宣邦平田篤胤の世界』、ぺりかん社、2001年、p17。初版『宣長と篤胤の世界』中央公論社、1977年。

*7:同。

*8:同、p18

*9:同前。

*10:同前。

*11:子安宣邦『江戸思想史講義』、岩波現代文庫、2010年、p5

*12:子安宣邦『方法としての江戸』、ぺりかん社、2000年、p13

*13:子安前掲『平田篤胤の世界』、ぺりかん社、2001年、p21

*14:柄谷行人×子安宣邦「対話:江戸思想の世界性」、『現代思想』1986年臨時増刊10月号。

*15:同前。

*16:同。

*17:同。

*18: 同。

*19:子安前掲『「宣長問題」とは何か』、p16。

*20:同。

*21:同。