バウマン.Z『アイデンティティ』(1)

アイデンティティ

アイデンティティ

Identity: Coversations With Benedetto Vecchi (Themes for the 21st Century Series)

Identity: Coversations With Benedetto Vecchi (Themes for the 21st Century Series)

アイデンティティ」、とりわけ「ナショナル・アイデンティティ」という発想は、人間の経験の中で「自然に」胚胎し、孵化したわけではなく、また、その経験から自明な「事実」として生じたわけでもありません。この発想は近代の男女の生活世界に無理やり挿入され、フィクションとして到来したものです。それは、それが一つのフィクションであり、その発想が意味し、遠まわしに語り、促したものと、原状(つまり、人間の介入に先立つ状況や、人間の介入を経験していない状況)との間に広がった苦痛に満ちた亀裂のために、「事実」や「所与」のものとなったのです。「アイデンティティ」という発想は、帰属の危機から生じたものであり、「当為」と「存在」の間のずれを埋め、その発想によって現実を設定された基準に引き上げようとする、現実をこの発想に合わせて作り直そうとする努力の中から生まれたのです。(p47-p48)

バウマン.Z『アイデンティティ』(2)

アイデンティティは、一つの作業として、いまだ完遂されていない未完の作業として、声高な呼びかけ、義務や行動に駆り立てるものとして、はじめて、生活世界に組み入れられたのです。そして、発生期の近代国家は、その領土主権の範囲内のすべての人々に対して、そうした義務を課しました。フィクションとして生まれたアイデンティティが、現実の中に(もっと正確には、思考可能な唯一の現実の中に)根付き、定着するためには、多くの強制的で説得力のあるものを必要としました。その結果、近代国家の誕生と成熟をめぐる物語が氾濫することになったのです。(p48)

バウマン.Z『アイデンティティ』(3)

自らの労働・資本集約的作業の大半をグローバル市場に委ねてしまった国家は、愛国的な熱情の備蓄を必要としなくなっています。近代国民国家の資産をぬかりなく監視していた愛国的な感情ですら、市場の力に譲歩せざるをえず、スポーツ興行主、ショービジネス、記念日の祝祭、記念品産業の利益を増大させるために、市場によって配置転換させられています。……もはや独占を求める体制によって監視されることも保護されることも、刺激されることも激励されることもなくなり、逆に、競合する諸集団の自由競争にさらされている、アイデンティティのヒエラルヒーや序列、とりわけ堅固で強固なヒエラルヒーや序列は、構築を求められることもなければ、容易には構築できないものとなっています。アイデンティティが厳格に定義され、明確にされ(国家の領土主権と同じくらい、厳格に定義され、明白にされ)、時間を超えて、同じ認知可能な形態が保持されなければならない主な理由はなくなっているか、その強制的な権限の大半を失っているのです。アイデンティティは自由に飛びまわっている状態にあり、機転を利かしたり、道具を使ったりして、飛んでいるそれを捕まえる役割は、今や個々人にまかされています。(p58-p60)

バウマン.Z『アイデンティティ』(4)

全体的に見ても、工場の集会所や構内はもはや、根本的な社会変化の望みを託すのに十分な在庫を確保してくれそうにありません。以前にも増して脆弱で不安定な資本主義的事業構造と雇用労働のルーティンが、その内部で、多様な社会的剥奪と不公正を(結びつけるのはもちろんのこと)融合させ、まとめあげ、変化に向けたプログラムに結実させる共通の枠組みを提示しているとは思えませんし、そうした場が、差し迫った戦闘のための部隊を編成し、訓練をほどこす訓練場としてふさわしいとも思えません。社会的な不満が共有される場など存在しないのです。プロレタリア主導の革命という幻想が後退し、霧散するにつれて、社会的な不満は引き取り手のない孤児となっています。それは、共通の目的について交渉することができて、共通の戦略が導き出された共通の場を失ってしまったのです。それぞれのハンデを背負った部門は、今や互いに孤立してしまって、個々人の資源や才覚にゆだねられてしまっています。(p67)

バウマン.Z『アイデンティティ』(5)

「社会」はもはや、人間の試練や過ちに対する、厳格で妥協のない、ときには厳しくて無慈悲であっても、公正で信念を持った審判であるとはみなされていません。それは、たとえチャンスを与えられても、可能な場合にはルールを鼻であしらう、とりわけ、人生というゲームの、如才なく、こずるく、一筋縄では行かない、ポーカーフェースのプレイヤー、ようするに、通常、すべてのあるいはほとんどの準備なしのその他のプレイヤーをとらえる、秘密のトリックの達人を彷彿とさせるものなのです。その権力はもはやあからさまな強制に基づいてはいません。つまり、社会は個人の生き方については何の命令も下さず、たとえ、命令を下したとしても、その命令が守られているのかどうか、ほとんど気に留めません。「社会」は、人々がゲームにとどまり、ゲームが続けられているテーブルの上に十分な代用貨幣が残されていることしか望んでいないのです。(p88)

バウマン.Z『アイデンティティ』(6)

もっとも広範にまた熱烈に望まれている目標が、領土、もしくはカテゴリー上の地域の「内部」と「外部」の間に、深くて通行不能な溝を掘ることです。外部とはつまり、嵐やハリケーン、冷たい突風、道端での奇襲、いたるところに溢れる危険のことであり、内部とは、心地よさや温かみ、我が家、警備、安全のことです。私たちは、地球全体を安全にする(その結果、もはや居住に適さない「外部」から自分たちを隔てる必要がない)ための適切な手段や材料を欠いているために(あるいは少なくとも、欠いていると信じ込んでいるために)、その中では自分こそ唯一の争う余地のない主人であると感じられる区面を切り開いて囲い込み、他の人々との違いを明確にしようとするのです。国家はもはや、その領土と住民を守るのに十分な力を主張することはできません。したがって、国家によって放棄された作業が地上に放置され、誰かがそれを拾い上げるのを待ちわびています。広範に広まっている見解とは逆に、次に続くものは、ナショナリズムの復活や死後の復讐などですらありません。それは、国家が運営する既存の機関に対して、この問題で支援を求めることができない状況下での、グローバルに生み出された諸問題へのオルタナティヴでローカルな解決策に対する絶望的で空しい探求なのです。(p97-p98)

バウマン.Z『アイデンティティ』(7)

人間の条件には、一回限りの形で与えられるものもなければ、要求や改善の権利を与えられていないものもないという考え方――最初に「作られる」必要があるものはすべて、いったん作られた後でも絶えず変更できるという考え方――は、近代の初めから生まれていました。事実、たゆまぬ変化(「近代化」、「進歩」、「改良」、「発達」、「更新」などさまざまな呼ばれ方をしました)こそ、近代のあり方の核心です。いったん「近代化すること」を止め、自分の手を下ろして、自分がおかれた状態や、自分の周りの世界をいじくり回すのを止めたら、「近代的」であることを止めることになります。(p129)

バウマン.Z『アイデンティティ』(8)

近代の歴史は、人間が思いのままに変更し、人間のニーズや欲望にあったものに「改良」できるものの限界をさらに押し広げる、持続的な取り組みの歴史でした(そしてそれは今日も変わりません)。それは、無効にされ、完全に放棄されるまでの究極の限界に挑むツールやノウハウを求め続ける歴史でもありました。私たちは、最近まで人間が従わねばならない不変のシンボルであった、人間の遺伝子構造の操作という希望さえ叶えるにいたっています。身体の大きさや形態や性がアイデンティティのもっとも頑強な側面であっても、いつまでも、すべてを包含しようとする近代の流れに抵抗する例外にとどまっていたなら、それこそ不可解なことでしょう。(p1299-p130)