近世儒家言語論と国学言語論における〈音義〉分析の位相

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1. はじめに

皆川淇園富士谷成章富士谷御杖
→従来の研究を振り返ると、竹岡正夫(1963)・戸川芳郎(1980)・櫻井進(1982・1983)・野口武彦(1993)・浜田秀(2000・2002)・肱岡泰典(1996)などにより、皆川淇園の言語論(「開物学」)をめぐる方法へのアプローチがなされてきた。

皆川淇園における「開物学」は難解ではあるが、荻生徂徠の「古文辞学」を批判的視座として見据えつつ、〈文〉・〈字〉・〈声〉への根源的解釈を切り拓く。

皆川淇園の「開物学」は、富士谷成章富士谷御杖父子も、多大な影響を受けていることを、多くの諸氏が述べている。

→もちろん、「影響」という観点からいえば、かかる指摘は間違いないであろう。しかし問題は、どのようなパースペクティヴで考察すればよいかということ。

→本報告では、間テクスト的分析を主眼に置く。それは単純に親戚関係だからという理由ではなく、皆川淇園富士谷成章、そして富士谷御杖が抱えていた、〈言語〉をめぐる問題には、〈差異〉があるはずであり、対峙していた「現実」も違っていたはずだからである。

→江戸時代における〈言語論〉は、確かに分厚い先行研究があり、報告者も咀嚼できてない面は多々ある。しかし、その端緒として考察を試みる。

2.皆川淇園の「開物学」―〈物を開く〉という試み

蓋し余少きより、易を学び、年三十近きに及びて、易は開物の道に有ることを悟る。而して其の道の文字聲音に由り要とす。乃ち入る得べし。(「磨光韻鏡余論序」、『淇園詩文集』、p143)

先生、嘗て文を以て一老儒に示すに、その人為に数字を竄改す。就きてその義を叩けば、即ち、「かくの如くすれば較や優れりと覚ゆ」といふのみにして、その故を弁へず。先生、私に謂らく、「字義を知らざれば、文固より作るべからず、また解すること能はず、経の不明なるは、職ら是による」と。これより専ら字書に潜む。而るに、字書の訓詁、往々にして仮借し、その真を得ず。すなわち古人の用字の例を類集し、深くその理を思い、疑竇やや通ず。また、これに象形に取り、これを聲音に求めて、すなはち始めて口の言ふ能ざることを得。ここにおいて、名・物の義、聲・象に本づくことを悟り、曰く「名は聲より生じ、聲は物より生ず。物は天地・陰陽・四時の常ある者より生じ、道徳に統べ、性情に貫き、聲気に発して、民言に著はる」と。故に『易』の「説卦伝」に曰く、「神なるものは、妙にして、万物に言を為す者なり」と。凡そ聖人の道は、弁名を要と為す。名明らかなれば、即ち物察らかに、物察らかなれば、則ち文義は正当なり。『易』の「繋辞伝」に曰く、「それ『易』は何をする者ぞ。開物成務(物を開きて務を成す)なり」と。また曰く、「開而当名、弁物正言(開きて名を当て、物を弁へ言を正す)なり」と。(皆川淇園墓誌銘。門人前平戸城壱岐守源清撰)

→淇園の「開物学」の出発点。「開物」とは、『易経』を参照にしながら、「文字聲音」を明らかにする学問であることが語られる。淇園における「物を開く」という言語論的パースペクティヴは、「名物」の意味を微細に読解する方法。問題は淇園が言う「名物」とは何か?淇園の前に屹立していた、荻生徂徠の言説を検討。

生民より以来、物あれば名あり。名は故より常人の名づくる者あり。これ物の形ある者に名づくるのみ。物の形なき者に至りては、すなはち常人の睹ること能はざる所の者にして、聖人これを立ててこれに名づく。然るのち常人といへども見てこれを名教と謂ふ。故に名なる者は教への存する所にして、君子これを慎む。(「弁名」、『大系』、p40)

物なる者は、教への条件なり。古の人は学びて、以て徳を己に成さんことを求む。故に人を教ふる者は教ふるに条件を以てす。学ぶ者もまた条件を以てこれを守る。(「弁名」物一則、『大系』p179)

→徂徠の「名」と「物」との関係性。徂徠によれば、「名」とは、先王による制作/命名によって、人間社会を規定するものであり、また「物」を「教への条件」と定義することで、先王によって制作/命名された道を学ぶための、具体的な諸条件。重要なのは、「古言」の絶対性を述べる徂徠における言辞。

また大象伝に「言に物ありて、行ひに恒あり」と曰ひ、緇衣に「言に物ありて、行ひに格あるなり」と曰ふごときは、けだし古の君子は、 先王の法言に非ずんば敢へて道はざるなり。……見るべし古人詩を学べば、その爾雅なることかくのごときを。これみないはゆる「言に物あり」なり。その臆に任せて肆言せず、必ず古言を誦して、以てその意を見せしことを言ふのみ。古言相伝りて、宇宙の間に存す。人、古言を記憶して、その胸中に在ること、なほ物あるがごとく然り。故にこれを物と謂ふ。(同、p180〜p181)

→徂徠は、先王が制作した「古言」に絶対的価値を付与し、〈言語〉と「物」との関係性を規定する。それに対する淇園の「物」をめぐる解釈。

凡そ文を学ぶは、先づ当に大本を立つべし。大本立たずんば末何に由りて生ぜん。それ聖人の道は己を脩むるに始まりて、人を安んずるに終ふ。(「問学挙要」立本、『大系』、p76)

字義はこれ精弁せずんばあるべからざるなり。蓋し一字、義を失へば、累、全章に及ぶ。譬へばなほ碁、一著を失へば、則ち全碁倶に敗るるがごとし。文を為る者も亦然り。一字当らざれば則ち全言皆渋す。(「問学挙要」備資、p81)

文理は字義に因りて成る。……余嘗て云ふ、「字義を知らずして書を解するは、譬へばなほ昏夜に遠樹を弁ずるがごとし」と。……且つ学の名物を重んずるや尚し。名は字なり。物は字義なり。(同、p83)

文なる者は、以て物を章かにする所の者なり。この故に、その物を言ふに、別有るを貴ぶ。別といふ者は、各その分部界域に依りて、紊れざるなり。これを譬へば、なほ五色の、章有りて、以て錦繍黼黻の美を成し、八音の、節有りて、以て律呂鏗鏘の和を成すごときなり。故に皆相混じて言ふことを得ず。しかしてこの法は、唯古文のこれに由るのみならず、後世の文といへども、この法に由らざれば、則ち条理を成すべからず。(「問学挙要」晰文理、p107)

→淇園は、〈文〉を学ぶことにより、「道」がなされると解釈し、「物」とは、「字義」のことを指す。さらに徹底して一字・一句を腑分けすることにより、テクストに内在化されている意味を見出す作業を行う。それが〈物を開く〉ということ。

→また淇園が徂徠と決定的に違うのは、「古言」によって〈言語〉は絶対的な規定は不可能という解釈。徂徠と淇園は、〈言語〉と〈時間〉の関係性をめぐる解釈においても対峙しているのである。

古今、言に殊なる、人皆これを知る。然れども、秦漢以前を以て、概してこれを古へと称し、混同して別なき者に至るは、則ち疎なり。(「問学挙要」弁宗、p103)

夫れ古今殊る。何を以てか其の殊るを見るや。唯だ其れ物なり。物は世を以て殊り、世は物を以て殊る。蓋し秦漢よりして後、聖人有ること莫きも、然も亦各々建つる所有り。祇だ其の知、物に周からず、聖人無き所以なり。然りとえども、業に已に物有り。必ず諸を志に微して、而して其の殊るを見る。殊るを以て相ひ映じて、而して後ち、以て其の世を論ずるに足る。(「学則」四、『全集』、p77)

凡そ文辞の変、千言万語、都て擬議の二法を出でず。然るに明の李于鱗より、古言を知ること能はずして、直ちに擬議を以て、模傚剽竊の謂と為す。しかして近時の学者頻るまた多く口にす。殊に知らず、この大謬妄のその義を失する者なるを。(「問学挙要」晰文理、p120)

→淇園による「古文辞」批判。徂徠は、〈古〉と〈今〉の「時間的差異」に留意し、「古今殊なる」ことの根拠として、「物」や〈言語〉の変化を語る。しかし淇園は、〈古〉と〈今〉の「時間的差異」を語る古文辞学に対し、〈古〉と〈今〉は、「精神」において「時間的差異」はないとするのである。

凡そ書中の篇章・字句は、乃ち皆古人の言語なり。即ち古人の精神意思、尽してその中に存せり。然して吾が精神意思は、即ち亦古人の精神意思と、以て異なることなし。(「問学挙要」審思、p121)

→淇園によれば、〈言語〉には人間が普遍的に有している「精神」が宿っていることを語る。古人の「精神意思」は、テクストの内在的解釈(「物」=「字義」)を通すことで理解される。その意味において〈古〉と〈今〉には「時間的差異」はない。淇園による「精神」の言説は、とりわけ漢詩論で展開されている。

夫れ詩に体裁あり、格調あり、精神あり、而して精神は三物の総要たり。(「淇園詩話」、『日本詩話叢書』五巻、p181)

蓋冥想〓惚の間、天地位し、万物備る、感に随て現し、念に随て変ず。此感念を主る者、即謂はゆる精神なり。(同)

詩を学ぶには須く先づ多く詩家熟用の文字を知るべし。当に須く毎字、古人の用例を蒐集して、以て其義を精弁すべし。字義已に熟して、 而して後に以て広く古人の詩を解す。(同、p193)

精神は譬へば偃師が木偶なり。文字は譬へば偃師が木偶の機糸機輪なり。(同、p196)

→〈物を開く〉方法としての「開物学」は、古文辞学批判を含意しながら、「物」と「名」の関係性や、〈言語〉と〈時間〉をめぐる問題を組み換えることを試みたものと言える。淇園はさらに踏み込み、富士谷学を示唆するようなことも言っている。

凡ソ言語ノ道ニハ、本邦ノ人ノ平常言語ノ間トイヘドモ、ヤハリケ様ナル妙ナル道理ヲモチアルモノナリ(『助字詳解』勉誠社文庫、 p12)

3.〈音義〉と〈公私〉―富士谷学における〈歌学〉

→『あゆひ抄』における「言霊」論。

師曰名をもて物をことわり、装をもて事を定め、挿頭脚結をもて言葉を助く。この四の位は初め一つの言霊なり。(「あゆひ抄」おおむね、『富士谷成章全集』上、p527)

聲音ノ妙用ハ。其神気ノスブルトコロニ属セルモノニテ。其象自然ノ勢ニヨリテ。神気ヨリフレニ感応シ。其分々ニ応スルノ聲ヲ出セリ」(『助字詳解』、p15)

→「神気」という概念。先行研究が明らかにしているように、「言霊」論に影響を与えている。成章にしても御杖にしても、〈音義〉を分析することにより、「聲音ノ妙用」を明らかにしようと試みる。とりわけ御杖は、「予は自然の聲によりて義をしる也」(「経緯略弁」、『富士谷御杖全集』第七巻、p721)と述べる。具体的な事例をあげると、以下のように。


あ 私にくみあはすものが公にくみあふ

い 現にくみあはすものが過にくみあふ

え 現にくみあふものを来にくみあはす

お 公にくみあふものを私にくみあはす

(「五十音各義」、『富士谷御杖全集』第七巻、p309)

→御杖による〈音義〉分析の内容を細かく検討することは時間上避けるが、ここで問題となるのは、「聲音ノ妙用」としての〈歌〉の存立条件。御杖においては、人倫世界における〈公私〉と〈歌〉の関係性がクローズアップされる。

身は公なり。公身私心のやむことをえぬ所よりいで来る歌なれば。これを真言とはいふなり(「真言弁」上、『富士谷御杖全集』第四巻、 p715)

→「時宜」を破ろうとする「一向心」を鎮める手段としての「詠歌」が説かれることは有名。

時をやぶりなむとする一向心のかたちを歌に見る時は鬱結せるいきおいくじけて、時宜をも全うせらるべきなり。(同、p711)

→御杖における〈歌〉とは、〈公私〉という人倫世界における社会的関係を破壊しないためには必要不可欠なものであり、「聲音ノ妙用」としての〈歌〉の効用を認めるのである。

歌おほよそ前後をもかへり見ず、おのが貪欲のすぢをのみ、すゞろにいひいでたるもののやうに見ゆるより、真言たるべき道つひにうしなはれたるにて候。……表の公私にはよらず。歌とうたへば。私心はせめてなぐさみ。身はからうじて公に処置せらるヽこと。歌のいさをにしあれば。歌の表にのみ目をとゞめて。其歌ぬしの身にいるヽことなければ。此道の規矩準縄すべてたがひゆきて、たゞいたづらなるもてなやみぐさに落申すべきにて候。(同前、p717〜p718)

4.今後の課題

本報告では皆川淇園の「開物学」と富士谷歌学を中心に考察した。しかしながら、積み残された課題は多いと言わざるをえない。皆川淇園の言語論的テクストを考察する場合、膨大な著書と向き合うことは避けられない。本報告では接しやすいテクストを中心に構成したが、今後はより一層の精査が求められるだろう。また、皆川淇園だけでなく、例えば中井竹山の『非微』などに代表される古文辞学批判とも突き合せる必要があったように思われる。さらに富士谷歌学をめぐる先行研究は膨大である。本報告では、事細かなテクスト批判を行うことが出来なかった。〈音義〉に関する問題については、報告者が関心を払っていながらも、未だに模索している段階である。本報告をひとつの糧とし、参加者の意見を伺う次第である。

【参考文献】

竹岡正夫「言語観とその源流―皆川淇園の漢学との関係」、『富士谷成章全集』下巻所収。風間書房、1963年。

戸川芳郎「『虚字詳解』解題」、『漢語文典叢書』第四巻所収。汲古書院、1980年。

櫻井進・中村春作『皆川淇園・太田錦城』。明徳出版社、1986年。

櫻井進「解釈の成立―皆川淇園の開物学について」、『日本思想史学』14号、1982年。

同「皆川淇園の文学論」、『待兼山論叢』17号、1983年。

野口武彦『江戸思想史の地形』、ぺりかん社、1993年。

肱岡泰典「皆川淇園の開物学」、『中国研究集刊』18号、1996年。

浜田秀「皆川淇園論(一)」、『山辺道』44号、2000年。

同「皆川淇園論(二)」、『山辺道』46号、2002年。

三宅清『富士谷御杖』、三省堂、1942年。

多田淳典『異色の国学者富士谷御杖の生涯』、思文閣出版社、1990年。

川村湊『言霊と他界』、講談社学術文庫、2000年。

(東北大学日本思想史研究会報告。 2010年7月17日)

文責:岩根卓史