イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(3)

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【担当範囲】

3章「東京語」の表象と成立

4章 柳田国男と「国語」の思想・

13章 多言語主義と言語的民主主義

◎ 「東京語」の表象と成立

J・Cヘボンは……「首府であり、天皇や文化人の住む京都のことば」が、もっとも権威ある標準語として考えられているが、方言どうしのちがいがはなはだしく、地方訛りと野卑なことばが満ちあふれている」と。……第二版でヘボンは京都語が「標準語」であると述べているが、それは「正しいことば」「美しいことば」がどこにあるかという意識にもとづくものであって、今日の意味での「標準語」ではなかった。ある地域のことばが「正しいことば」だと見なされることと、住民の現実の言語使用に影響する規範となることとは別のことである。(p65-p66)

柳田は「方言の成立」という論文のなかでこういっている。「京都には素より偉大なる感化力があって、是に追随することが国語の改良の主たるものであったことは、昔も今日と異なる所は無いのだが、以前はたゞその土地毎の能不能」に、著しい差等があったのである」。「もしも地方が勝手次第に、自分限りの用語を変化させて居たのだったら、今見る一致だけでも保たれて居る筈がないのである。京師を文化の師表と仰ぐ心持は、言語の上にもかはりはない。と言はうよりも寧ろこれが主であった。」(p68)

上田のいう「厳格なる意味にていふ国語」とは、話し聞くときも、つねに「同一の性質」をもち、談話にも文章にもひとしく使用することのできる言語、つまり「言文一途の精神を維持し居る国語」のことであった。(p74)

◎ 柳田国男と「国語」の思想

ナショナリズムは、国際的な基準にもとづく社会の均質化、平準化の傾向に抵抗して、それぞれの民族や国民における独自性や固有性を追求する動きであるといえる。しかし、だからといってナショナリズムが近代に反する思想であるとはいえない。なるほど、ナショナリズムは、思想内容として反近代や近代批判という要素をもちうる。けれども、それが近代的普遍性に対する反作用として生じるかぎりで、ナショナリズムもやはり「近代」の思想であることに変わりはないのである。(p78)

柳田の民俗学を成り立たせていたのは、近代批判という軸であると同時に、ナショナリズムという軸であった。柳田にとって、日本人と日本社会の一体性はけっして否定できない前提であった。柳田が近代日本を批判したのは、民衆のなかで受け継がれてきた「日本の伝統」を近代日本が破壊しようとしたからであった。(p82)

それぞれの地方に一個の全体としての「方言」があり、それらの方言のまとまりから「一つの言語」というすがたを抽象したときに「国語」があらわれるのではない。しかし、その逆に、「国語」という全体をそれぞれの地方に分割したときに「方言」があらわれるのでもない。……柳田は、日本に複数の言語状態があるという事実――それが「標準語」であれ「方言」であれ――を絶対に認めようとはしなかった。「国語」は空間的に分割できず、「日本」という空間に密着したかたちで不可分の統一体として存在していること、これが柳田の思想の底に横たわっている隠れた言語認識なのである。(p102-p103)

柳田のいう言語変化は、今日の用語を用いるなら、言語の「威信」をたえず確認し、再構成していくものにほかならなかった。それはたんなる変化にとどまらず、人に対する優位を獲得するための手段でさえあった。中央と地方の関係は、このようにして成り立っていた。中央の言語が言語変化において先んじていることと、地方に対して威信をはたらきかけることは、不可分の現象なのである。そして、柳田は京都のことばが変化の中心であるとともに、威信の中心であることを堅く信じていた。……つまり、日本語は京都という中心によって支えられたひとつの同質的な全体をなしているのである。もちろん、それは変化の中心であるとともに、威信の中心でもある。(p106-p107)

◎ 多言語主義と言語的民主主義

大づかみにいうと、近代国家の時代になってはじめて、言語というものが国家の根幹にかかわる重要な問題として浮上してきた。……ところが、近代国家が「国民」の原理のうえに組織されるようになると、国民をつくりあげる重要な要素のひとつとして、どうしても言語の問題に対処せざるをえなくなってきた。こうして、国家は言語の世界にも一定の政策をあてがうようになった。いわゆる「言語政策」というものは、このようにして生まれたのである。(p264)

日本の多くの学術用語がそうであるように、「多言語主義」もヨーロッパ語からの翻訳である。原語は“multilingualism”である。しかし、この“ism”というのは、はたして「主義」であろうか。……バイリンガリズム(bilingualism)」は「ニ言語使用」ではあっても主義主張としての「二言語主義」ではない。造語法からみれば、“multilingualism”とは、“-bi”が単純に“multi‐”へと拡大した状態でしかない。(p267-p268)

【総括】

短いながらもまとめていうのであれば、特に興味深いのは、「東京語」と「京都語」をめぐる言語認識の問題であろう。言語的なヘゲモニーは、歴史的に「京都語」にあったという柳田国男の指摘は、彼の「常民」概念を考える際に、再考を促す余地が十分にあるように思われる。また「多言語主義」とは、「言語政策」と密接に関っているものであり、「言語」が国家の根幹になるのは、「近代国家」成立期になるという指摘は、殊に「国民国家」論が終焉を迎えるなかで、新たな理論的枠組みを構築する必要性を痛感した。参加者の意見を聞く次第である。

(「外地」文学研究会報告。2010年3月12日)

文責:岩根卓史