中村春作他編『「訓読」論』(3)

同。

徂徠は、和訓顛倒の〈訓読〉を否定して、十分にこなれた「訳」を作ることを主張した。そのためには、中国語(唐話)の基礎的な素養が不可欠であるとするが、中国人がそれを味わうように読めなければならないと考えない。ポイントは、徹底した「看書」にこそあると考えて、その成果が「訳」という形式で表現(再現)されるとした。繰り返すが、理想は中国語、二次的には訳という枠組みではないし、その訳の表現も、今日イメージするような原文から独立した翻訳ではない。さらに明代の古文辞学と出会うことで徂徠の洞察は深まり、言語それ自身の歴史的断絶に思いが致される。こうして礼楽を身に得た君子の言葉としての「辞」が発見された。(p257)