ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(4)

結局のところ、現働的な被造物の産出は、創造が存在するということの、一つの原理的な相である。被造物はそれ自体、その偽造ないし劣化というよりはむしろ、超克されるべきより劣った現実であるよりはむしろ、創造の一つの相である。内包[強度]的差異は外延システムの中で単純に消去されるのではなく、「みずからを展開することによってこのシステムを創造する」ものでもある。強度それ自体が、展開される現働性の中で差異の外にひっぱり出すシステムを創造(たとえ差異が、まさしくこの差異の展開が己の中に「内包された」ままであることを可能にするがゆえに、同時にその潜在的、強度[内包]的、差異的形式を通して存続するとしても(DR,228)。(p129)

 ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(5)

『アンチ・オイディプス』では、国家は、国家が規範化と調整を幇助する社会的行為の領域を監視し続ける一種の集合的超自我として描かれる。国家に管理された主体は、今や労働の疎外に、すなわち、つねにあるべきところにない[という地位を与えられた]去勢された欲望の対象の終わりなき追求によって動機化された労働と結びつくようになる。労働の資本制的組織化、国家の超越的組織化、社会野を横断する家族の役割の隠喩的配分、精神分析による欲望の解釈、これら全てがここで、現実を抑圧的に媒介するための同じ一つの機構の諸相として現れる。オイディプスは、それを通してこれら様々な超越性の形式が、単一にして重層的に決定された「捕獲装置」として結集する装置である。オイディプスとは、心理学的内在性を外在的な社会的権威に結びつけるものである。欲望の去勢と国家の超越的な超コード化を通して、個体は二重に主体化される。(p153-p154)

 ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(6)

資本主義のアナーキー的商品化と解毒作用、すなわちあらゆる価値の抽象化に直面したオイディプスは、御し難い政治的または「公的」脱現働化の危険を、ある甚だしく御しやすい、現働的またはモル的なものの「私的」最安定化に移そうとする。オイディプスは搾取または剰余価値の採取という政治的作業を、(家族という隠喩的媒介を経由して)意識と自己同一性のまさしく布置の中で内化することによって再強化する。搾取と保全の政治は、「〈資本〉氏と〈大地〉夫人、およびその子どもである〈労働者〉」(AO,264)が棲みつく一つの世界の中で演じられる。最初のそして最も原理的な剰余価値採取の近代的形式は、単純に、それ自体としての主体、従順な労働者にして息子である、御しやすい労働者としての主体の複製[再生産]である。(p154-p155)

 ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(1)

ドゥルーズと創造の哲学 この世界を抜け出て

ドゥルーズと創造の哲学 この世界を抜け出て

Out of This World: Deleuze And the Philosophy of Creation

Out of This World: Deleuze And the Philosophy of Creation

存在と創造の等置という、ドゥルーズ存在論の第一にして最も広範な含意は、存在する全てのものが同じ意味または仕方で存在するということである。もしも全てが創造だとすれば、このことはまず、そして主に、存在の仕方は一つしかないということを意味する。「〈存在〉は一義的であるという、たった一つの存在論命題しか、存在したためしはなかった」という断定と共にドゥルーズの仕事は始まる。存在は両義的または多義的であるよりはむしろ一義的である。全ての存在は己の存在を単一の声で「表現する」と一義的存在論は宣言する。そしてドゥルーズに拠れば、「パルメニデスからハイデガーまで、取り上げられてきたのは同じ声である[…]幾千もの多声の全体に対して単一の同じ声が、全ての水滴に対して単一の同じ〈海〉が全存在に対する単一の〈喧騒〉が(DR,35,304)。諸々の思考と諸事物、諸有機体と諸観念、諸機械と無数の感覚――これらは全て、この言葉の一つの意味で、存在する。個体化した全ての存在は、存在の一つの同じ活動と分節化に寄与する。(p27)

 ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(2)

今や一義性はいかなる意味においても画一性を含意しない。逆に一義性は、一次的で無制約的な差異化のための基礎にして媒体として、肯定される。何かが十全に存在するには、それが一つの過程に巻き込まれ、したがって消耗されることが必要であり、この過程によってそれは別のまたは新たな何かとなる。「存在とは変質である」(DI,25)。一切が創造であるという断定の第三の含意はしたがって、この創造性がそれ自体として持つ、固有に原理的な地位である。ドゥルーズの存在論は存在の甦生または再活性化を意図しており、それによって存在に原初的で還元不可能な力動を授けようとする。一九八八年にドゥルーズが断言した通り、「私が書いたものは全て生気論的です、少なくともそうであることを望んでいます」。存在は生きている、それは生体だからである。存在は創発的である、それは創発だからである。存在は刷新的である、それは刷新するからである。存在は差異化されている、それは差異化するからである。存在することと差異化することは一つの同じことである。(p36)

 ホルワード.P『ドゥルーズと創造の哲学』(3)

潜在的なものというドゥルーズ自身による概念構想への多様な影響の全てのうち、純粋過去(すなわち純粋記憶におけるその連続的保存)というベルクソンの観念はひとえに最も重要な意味を持つ……過去とはわれわれが後悔したり取り逃したりする何かではない。時間は創造ないし生産の次元であって、不在や郷愁ではない。言いかえれば、この純粋な過去は通常の意味での「過去」では全くない。むしろ時間それ自体の非時間的な存在、すなわちその生成変化ないし展開における存在である。純粋な「過去はかつて存在した何かをではなく、単純に、存在するまた現在としてのみずからと共存する何かを表象する。過去は己を何かにおいて保存する必要はなく、みずからにおいて保存する。過去はそれ自身において存在し、それ自身においてみずからを生き延べさせ、保存するからである」。だからわれわれが真に何かを思い出すとき、われわれはかつて現在にあった、そして今やかつてあったもののたんなる心的痕跡ないし表象としてのみ存在する一つの瞬間を挽回したり再活性化したりするのではない。むしろ「われわれはみずからを直接的に過去それ自体の中に置く」(PS,58)。われわれは過去を思い出すというよりはむしろ思考する、すなわちわれわれの中で過去に思考させる。(p81-p82)