ペルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(5)

感覚の帝国、すなわちつねに新しい性的感覚の際限なき探求が示しているのは、セクシュアリティには独力で自己の過剰に到達する能力が欠けているということである。……それはあたかも、みずからの純粋さへと投げ出され、他の何ものによっても支えられることのないセクシュアリティは、オルガスムや死において、自己滅却と自己排除の使命を帯びているかのようだ。さて、同意した主体に行使されるサディズムが、犯罪的なサディズムと質的に異なるのは間違いない。しかしながら、いずれのサディズムも、感覚するモノという中性的セクシュアリティからは遠く離れたところにとどまっている。……この転回を可能にするのは哲学のみである。なぜなら哲学は余分なものや異質なものへ向かう疾走を遮り、宙吊りにするからであり、また、セクシュアリティを生気論やサディズムから解放することで、われわれを感覚するモノという中性的で非人称的な経験へと導き入れるからである。哲学的セクシュアリティという過剰は、感覚と状況とが徐々に増大することで到達するかのような何ものかではない。そうではなく、たった一撃で与えられているのである。(p44-p45)