ぺルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(4)

 

 中性的セクシュアリティにおいて、哲学過剰と性的過剰とは、互いに互いから養分を汲み上げている。哲学的冒険は、言葉の語源学的意味において、少なくとも現実の(realeの語源はres,すなわちモノである)次元に立ち入る可能性がなければ、味気なくかすんだものになるように思われる。その一方で性的冒険は、哲学的思考に属する究極的な結果の追求という決断がなければ、瑣末で無気力なままである。哲学とセクシュアリティとのこうした連帯は、西洋の経験においてはつねに暗黙のうちに滞在してきたが、今日では、炸裂するような浸食によって拡大している=互いの襞を広げあっている。というのも、近寄りがたいものとして対立していたものを、双方がみずからのうちに吸収するに至るからである。それとはつまり、無機的なるものの、モノの、生けるものでも機能するものでもないものの様態のことである。(p25)