テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス』(6)

(一九五六年-注) 五月十八日、離日の一週間前、ウィリアム・ミシェルとヴジェーヌ・ド・ウェックは東京から空路福岡へ行き、そこから汽車で長崎へ、さらに先の小さな大村の港町まで出かけた。ここで入国者収容所を視察し、強制送還を待って抑留されている朝鮮人と直接話をした。東京でも井上益太郎から、在日朝鮮人の劣悪な生活条件について、写真も使った長い説明をうけた。しかし、赤十字国際委員会の特別使節は日本国内の朝鮮人居住区のどこにも訪れていない。もし、訪れていたら、その一九五六年五月にはある話題でもちきりだったのを知っていたことだろう。厚生省がその二月に突如として、在日朝鮮人による「生活保護の過度な申請」の問題解消を目的に、全国一斉に大規模な作戦に着手したのである。これは警察との合同作戦だった。警察が大挙して朝鮮人居住区を急襲し、各戸をしらみつぶしにまわって、生活保護受給資格を証明する書類の提示を要求し、財産の秘匿や違法な闇商売がないかと、家のなかや裏庭を捜索した。……厚生省のこの作戦は秘密でもなんでもなく、むしろ、日本のあらゆるメディアに広くとりあげられた。あまたの報道からひとつの例を挙げれば、一九五六年四月二十六日付の朝日新聞。「朝鮮人の生活保護 十倍以上」という見出しの記事で、本文にはまず、生活保護をうけている朝鮮人のなかには、「日本人の場合に比べ、ゼイタクな暮しをしている者がいるというので問題になっている」とある。つづけて、警察筋から報道関係に提供された事例が挙げられている。ピカピカする茶ダンス、高価な飼い犬、三面鏡や洋ダンス――これらの所有物が、生活保護を受給しながらの豊かな生活を暴露している……。……日本の社会福祉の不確実性と不備は帰国の物語のなかにくり返し登場する。そして、いうまでもないが、一九五〇年代に決定された福祉政策は在日朝鮮人に――北朝鮮に行くことを選んだ人たちにも、日本に留まることを選んだ人たちにも――その後何十年にもわたる影響を及ぼした。(p163-p167)