竹内好「大川周明のアジア研究」を読む

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《目次》         

1.はじめに

2.竹内好における大川周明

3.竹内好と回教圏研究所

4.大川周明における儒教について

5.おわりに

 

1.はじめに

 本報告は、竹内好(1910-77)が、1969年にアジア経済研究所で行った講演である「大川周明のアジア研究」(底本:丸川哲史・鈴木将久編『竹内好セレクションⅡアジアへの/からのまなざし』所収、日本経済評論社、2006年。pp341-pp365。)をめぐる考察を試みるものである。本来ならば、本講演の主旨をあらかじめ要約したうえで、考察をするべきかもしれないが、講演という形でなされているため、論旨そのものを順序立てて追うことは難しいと思われる。本報告は、この講演において重要だと思われる論旨を抽出するかたちで報告を構成する。竹内は、本講演における結論として、大川周明(1886-1957)を次のように総括している。

 

大川が日本型ファシストの一典型である、ということは承認されてよいと思います。同時にかれが独立した思想家であることも認めねばなりません。つまり、体制としてのファシズムに便乗して言論を弄んだのではないということです。その証明は、かれのイスラムへの傾倒からでも十分に与えられるでしょう。精神すなわち内的価値の最高表現形態としての宗教と、それを社会的に実現する手段である力すなわち政治との結合という一点においてイスラムをとらえる。それが大川にとって理想の形態であるから、かれはその探求のために全生命力を注ぎ込んだ。たとい現実のイスラム世界がどんなに汚濁にみちていようとも、そんなことはかれの学問は関知しない。かれは政策とは無縁の場所に立っているのだから。政治家、あるいは革命家としてはかれは失敗者であるが、かれの学問業績が今日なお生命があり、継承する意味があるのは、この学者としての節操がかかっているからであります[1]

 

 このような、竹内好の発言をいかに考えるべきなのか。周知のように、大川周明は、東京裁判において唯一民間人としてA級戦犯の指名を受け、「大東亜共栄圏構想」のイデオローグとして、法廷のなかで裁かれる立場にいた人物である。この講演がなされた、1969年という時期を考えても、出来事としても人々の記憶のなかに鮮明だったはずである(大川周明は、「精神鑑定」により免訴されているが)。しかしながら、竹内は大川について、「体制としてのファシズムに便乗して言論を弄んだわけでは」なく、また「政策とは無縁の場所に立っていた」と語る。本報告では、かかる竹内における言説をめぐって、同時代的に把捉するために、竹内が戦時下における言論活動も視野に入れながら、大川周明を思想的に考察するための手がかりについて検討を試みるものである。

 

2.竹内好における大川周明

 竹内は、この講演の冒頭において、次のように語っている。

 

  大川周明というのは、かなり重要な人物だと思うのです。いわゆる右翼運動家と一括されるなかでも、ちょっと特異な場所を占めていて、十分に研究の必要があると思うんですが、どうも大川は人気がないんですね。一時は大川と並び称された北一輝のほうは、戦後もかなり人気があって、たくさん研究家が出ましたけれども、それにひきかえ大川のほうは、さっぱり研究者がおりません。どなたかやってくださるといいんですがね[2]

 

 現在の大川周明をめぐる研究状況は、かかる竹内による発言とは、様相を異にしていることは、付言しておく必要があろう。例えば、松本健一[3]は、大川の「アジア主義」の思想的可能性について言及しており、また、大川における思想と行動をめぐる歴史的意義を再評価する動向は、研究者によって多方面にわたる検討がなされている[4]。この中でも、臼杵陽氏が、「竹内という知識人の問いかけを通して大川を問題化することは、二一世紀を生きるわれわれの想像力が試されることでもあるからである」[5]と言及しているように、この意味においても、竹内における大川周明論とは、いまだに屹立している大きな壁のような存在のようなものだと言えるだろう。竹内は、本講演において、一貫して「右翼運動家」ではなく、「学者」としての大川周明という存在について、「黙殺」するべきではないことを語っている。

 

  大川が右翼運動家であり、東亜経済調査局が侵略機関であったという理由、この理由も吟味を要すると思いますが、かりにその理由を認めたにせよ、それによって一切の業績を抹殺してしまう風潮は、真理追求の学問の立場からしてよろしくないと思います[6]

 

  たとえばイスラム研究だけをとってみても、大川の業績は無視できないはずです。かれの『回教概論』は、純粋の学術論文であって、日本のイスラム研究の最高水準だと思います。日本帝国主義のアジア侵略と直接には関係がありません。……否定なら否定でよろしいんですが、少なくとも先人の業績としては認めてだけはほしいんですがね[7]

 

竹内がこのように、「学者」としての大川の思想を擁護し、「アジア侵略と直接には関係がありません」とまで言い切っている。また、竹内は「学者」としての大川について、次のように述べている。

 

  大川は宗教者にはなれない性格だが、宗教学者としては一流ではないかと思います。なにしろ自分で理性的に方針をきめて、その方針でまっしぐらに勉強したのですから、しかも自分流の整理の方法をはやくに体得しているのですから、古今東西の学説が自家籠中に収められている。概説書として、じつにわかりよい。少なくとも私などにはわかりよいのです。というのは、多くの概説書とはちがって、大川のは受け売りでなくて整理されているからです[8]

 

 このように、竹内は「学者」としての大川の思想を一貫として擁護するが、かかる竹内の大川をめぐる人物評価は、たしかに「大川という人は、文章もそうだし、実物から受ける印象も、非常に理性の勝った冷い感じの人」[9]という、竹内自身が大川と出会ったときの印象も起因しているかもしれない。しかしそれでは説明不十分であろう。むしろ着目すべきなのは、竹内が、このように大川の思想と行動を、戦時も戦後も変化しない、「論理的一貫性」を見出し、大川を「黙殺」するのではなく、ふたたび、議論の俎上に置いた意味である。このことを読み解く鍵を探すために、次節では、竹内の戦時期における言論活動について考察していく。

 

3.竹内好と回教圏研究所

 竹内は、大川との出会いを次のように語っている。

 

  最初に、私的な回想にわたりますが、戦争中にどういう因縁で大川を知るようになったか、その事情を申し上げます。といっても直接会ったのは、会合の席で一回だけなんですが、すでにその前から著書には親しんでおりましたので、顔をみたのは一回だけですが、それ以上の親近感が私のほうにはありました。そのころ私は回教圏研究所というところにいたのです[10]

 

 竹内における学者としてのキャリアは、竹内の回想にもあるように、回教圏研究所に入所したことから始まっている。回教圏研究所は、1937年に日中戦争が開始されたことを契機とすることにより、中国における「回教徒」の存在が、大日本帝国の戦争遂行を続けるうえで、いわば国策的課題として浮上していくような、時代的状況と呼応する形で、1938年に誕生した研究機関である。研究所が設立された経緯について、回教圏研究所の所員として当時所属していた、野原四郎(1903-81)は、次のように回想している。

 

つぎに、われわれの研究との関係で、当時の日本政府の回教政策の意図について触れてみましょう。……日本軍は、満洲事変以後、満洲から華北へ向かって南下侵略しましたが、その過程で三三年、熱河に入ってからは、今の内蒙古自治区を通って西北中国に進み、さらに新疆の方面へ向かおうとする動きもみせました。この方向は、だいたいトゥンガン(東干)が住んでいる地域であり、また新疆へかけてトルコ系ウィグルが住んでいる地域であります。これらの回教徒を漢族から分裂させ、カイライ国家を西北中国に設立しようとすることは、満洲国建設についで当時日本軍がもくろんでいたことでありましょう。トゥンガンやウィグルの回教徒を対象として、そのとき三つの相異なった政策がしのぎをけずっていました。第一が日本の回教政策、第二が国民党の大漢族政策、第三が中共の少数民族政策でありました[11]

 

 このような野原の回想からもわかるように、日中戦争が激化していく時局のなかで、中国では、中国国民党中国共産党が「国共合作」を成立させており、いわば「対日統一戦線」の旗色を明確にしていく。対して、大日本帝国は、国民党と共産党とのあいだに「分断工作」を行う必要性を感じており、中国の「回教徒」を分断工作員として戦略的に利用していくようになる。この意味において、戦前日本におけるイスラーム研究は、時局的な国策的課題を契機として、整備されていった「学知」の性格を有していたことは間違いない[12]。近年では、「学知」をめぐる側面だけではなく、戦時下日本における対中国イスラーム工作をめぐる歴史的研究もいくつか提示されている。しかし、戦時下における中国イスラームをめぐる問題は、報告者の力量もあり、整理できる課題ではないため、詳細を触れることはできないことをあらかじめお断りしておく[13]。竹内は大川論において、回教圏研究所時代に、竹内が「回教」をめぐる問題を考えていたときに、「学者」としての大川周明と出会ったことを次のように回想している。

 

  ですから私は大川について完全に無智のままイスラム研究にとび込んだわけであります。やってみますと、どうしても大川にぶつかるわけです。いろんな人が本を書いたり、論文を発表したりしているが、どれも思想的に低調であって、心の琴線にふれてこない。そのもどかしさの中で大川を発見したのであります[14]

 

竹内は、回教圏研究所所員として、1940年から1945年の敗戦による研究所の解散まで所属しており、1942年に、回教圏研究所から出張として中国に派遣されている。竹内における「回教」をめぐる論考は、戦後に書かれた大川論を除けば、すべてこの時期に書かれている。ここでは、竹内の「回教」関係の論考についていくつか検討したい。そのなかでも注目すべきなのは、竹内は、歴史学者の顧頡剛(1893-1980)との出会いから、「回教徒問題」を、「民族問題」として捉えていく視点であろう。

 

顧頡剛の意見の中で私が最も興味を感じた点は、彼が回教徒問題を何よりも、また純粋に民族問題として捉えていることである。彼によれば、回教徒と非回教徒は、単に宗教の一点で異なるだけで、民族としては単一である、等しく手を携えて中華民族文化の建設のために努力しなければならないので、その間に対立相剋する要素は何もない、というのである。彼は種属まで同一であると云っているが、この点は多少独断的であり、少なくとも明瞭ではない。しかし兎も角、民族国家結成を妨げるものは何もないか、あっても排除し得るものだというのが彼の意見である。宗教としての回教は、支那が信仰自由の国であるから問題ない。しかし回教が規定している社会生活上のさまざまな制約は、非回教徒との共同生活に当ってかなり摩擦を起し易いものだが、それはお互の理解によって除き得る、と彼は見ている。漢人文化と回教徒文化とは、お互の偏見を排除して強力な国民文化を結成しなければならず、またそれは必然的に可能だ、というのである[15]

 

  民族、あるいは民族文化をこのように観念すること、従って回教徒の問題を本質的には単なる宗教の相違に過ぎないと考える仕方は、一般に今日のような意味の民族意識が発生したのは極く最近のことである。……その場合に中核となった民族の意識は、直接には孫文三民主義に基くものであり、従ってその領域は観念的には清朝帝国の旧版図をそのまま継承したものである。実際上は今日、支那の辺彊の多くは諸外国の勢力下に委ねられてしまったが、それにも拘らず、一般の支那人民族意識の中にあっては、依然として単一の文化圏を構成する一つの共同体が観念され、それが実際の民族運動を指導してきたのである[16]

 

 このように、竹内が「民族文化」として「回教」を捉えていく視点は、別の論考でも見られる。

 

このような人口を擁する東アジアの回教であるが、これを回教という宗教一色に塗りつぶして見ることは危険である。実際は決してそのような単純なものではない。……回教は極めて寛容性に富んだ宗教であるから、信仰の根本に触れない限り行事にはさまざまな除外例を認めている。この寛容性が、逆に云えば布教の拡大に与って力あったわけである。こうした自然条件のほかにそれぞれの民族の固有の生活様式や、社会機構や、文化的伝統といったものが、回教を民族宗教化する槓杆となっている。回教は土着の民族文化に順応することによって、しっかり民族の心を把えたわけである[17]

 

 竹内による「回教」をめぐる観察は、「民族問題」として捉える視点が介在していた。しかし重要なのは、かかる竹内の視点は、そもそも「大東亜共栄圏」における政治的な複雑性について、包括的に説明する概念として、「民族」の問題が、「回教」を介在することで、竹内のなかで前景化していく契機ともなっていることである。「大東亜共栄圏」における政治的複雑性について、次のように竹内は語る。

 

  大東亜共栄圏の建設が現実的に進行するにつれて、さまざまな角度から将来の理想の構想が論議されていることは、まことに喜ばしいことである。われわれは歴史を作りつつあるという自覚に立っている。真の大東亜の建設は容易なことではないが、いつかそれを実現するという希望は、決して見失うことがない。そういう希望の下に、将来の新しい世界を建設する足場となるべき現在の大東亜共栄圏内の諸地域を眺めてみると、あらゆる点に於いて、その雑多な様態に驚くのである。民族、言語、政治組織、社会機構、すべてがあまりに複雑で、目を奪われるほどである。建設の容易ならざることが感ぜられる。……新しい文化の創造のためには、それらの有るがままの様態が、まず究明されなければならないだろう。とくに回教については、最も要請が強いのである[18]

 そもそも時局的要請にもとづいた発言ではあるが、「支那の辺彊の多くは諸外国の勢力下に委ねられてしまったが、それにも拘らず、一般の支那人民族意識の中にあっては、依然として単一の文化圏を構成する一つの共同体が観念され、それが実際の民族運動を指導してきたのである」[19]と述べるように、竹内は民国期中国におけるナショナリズム運動を高く評価している。この意味で、「大東亜戦争」という時局のなかでも、道義的主体として、日本が中国における「ナショナリズム運動」に参加する行為そのものは、竹内のなかで否定はされていない。むしろ、これは戦後にかけても継続していく竹内自身の視点といえよう。このことは、竹内における大川に対する評価にも繋がっていると考えられる。

 

  われらは支那を愛し、支那とともに歩むものである。われらは召されて兵士たるとき、勇敢に敵と戦うであろう。だが常住坐臥、われらの責務は支那に措いて無い、今日われらは、かつて否定した自己を、東亜解放の戦の決意によって再び否定され直したのである。われらは正しく置きかえられた。われらは自信を回復した。東亜を新しい秩序の世界へ開放するため、今日以後、われらはわれらの職分において微力を尽す。われらは支那を研究し、支那の正しき解放者と協力し、わが日本国民に真個の支那を知らしめる。われらは似て非なる支那通、支那学者、および節操なき支那放浪者を駆逐し、日支両国万年の共栄のため献身する。もって久しきに亙るわれら自身の腑甲斐ない混迷を償い、光栄ある国民の責務を果たしたい[20]

 

  日中戦争がはじまり、それが一路拡大していくゆくとき、大川は非常に悩みました。大川の図式では、中国の民族復興と、そこにおける日本の道義主体としての参加とは一体でなければならないのに、事実は原理的な対立になった。ということは大川理論は破綻したわけです。その破綻を大川は暗黙に認めていると私は思います。かれは学者として、思想家として、それだけの良心はありました。たとえば、日中戦争が太平洋戦争に拡大したあとでも、日中問題の解決と日米問題の解決とは論理的に区別しなければならぬという主張を変えていません。私が大川を買う点はこの点なのです[21]

 

 続けて竹内は、「思想家としてはせめて論理の一貫性だけは失ってはならない。それだけは最低必要条件ですが、その条件を大川は満たしていると思います」[22]と言及しているが、それは竹内にも合致するものであろう。つまり、竹内は大川に言及することで、戦後における竹内自身のアジア認識を再確認していたとも考えられるだろう。次節では、竹内が大川における「思想的限界」として指摘した、儒学をめぐる問題について大川論に即しながら考察を試みる。

 

4.大川周明における儒教について

 本講演のなかで、竹内は大川周明の「思想的限界」として、大川の素地にあった「宋代儒学」をめぐる問題について、取り上げている。

 

  大川の教養の根幹にあるものは、漢学、とくに宋代儒学だと私は思います。教養の根幹ばかりでなく、思想の核、あるいは思想のワクがそれで作られている感じです。ということは経世済民と、形而上学への志向との合体ということであって、この両極分解が絶えずかれの内部にはたらいていたと推定されます。そのワク組みの上に西洋思想が肉づけされている。そのため、比喩的に申しますと、プラトンアリストテレスが相互に抑止力となっているような感じがします。これが大川の思想構造の特徴ではないか[23]

 

 竹内によれば、大川の思想的な素地になっている「宋代儒学」こそ、大川における「思想的限界」でもあると指摘する。続けて竹内は言う。

 

  大川は該博な知識の持ち主であり、私はまるきりその反対の性格ですから、あるいはこの理解は的はずれかもしれませんが、どうも私の直観ではそうなんです。この二重性に大川の秘密があるような感じがします。同時に、思想家としての大川の魅力のなさ、たしかに北一輝などとくらべますと魅力に乏しいのですが、その理由も一種の折衷性にかかっているように思うのです。あまりに漢学的素養によって浸透され過ぎている。そのため損をしているような気がします[24]

 

 竹内は、このように大川の「思想家としての魅力のなさ」を看取するが、大川が著した『中庸新注』(1927年)では、「儒教」の定義について、大川は次のように述べている。

 

儒教の志すところは、疑もなく「道」の闡明に在る。而して道とは人格的生活の原則に外ならざるが故に、儒教は人間が如何にして正善なる生活を営むべきかを究尽せんとするものである。然るに正善なる生活とは、吾等がまさしく「我」と呼び得るものと、我に非ざる「非我」との間に、正しき関係を実現し行く生活である。儒教に於ては、此の「非我」の世界を、天地人の三才に分類する。故に儒教の道とは天地人の道である。一層詳しく言へば、天地人に対する正しい関係を実現する原則である[25]

 

 大川は「儒教」を「道」という根本原理を明らかにする宗教として定義しているが、大川によれば、「儒教」は政治と宗教が渾然一体となった性格を有していることを言及している。このような「儒教」における渾然一体性について、次のように大川は説明している。

 

  是の如くして、儒教は、宗教、道徳、政治の三者を包容する一個の教系である。そは人生を宗教、道徳、政治の三方面に分化せしむることなく、飽くまでも之を渾然たる一体として把握し、其等の三者を倶有する人生全体の規範としての「道」を闡明せんと努める。こゝに儒教の免れ難き外面的混沌がある。……さり乍ら儒教は、少くとも欧羅巴概念における宗教に非ず、また倫理学にも非ず、尚更政治学でもない。儒教は其等の一つに非ず、実に其等の総てである。そは当初の外面的混沌を存しながら、濃かに内面的統整を与へられたる一個の道統なる点に於て、比類なき特徴を有するものである[26]

 

 このような大川の著作でも、政治と宗教のあいだとの連続性を捉える視点は、確認することができるが、それは儒教観であると同時に、大川の宗教観でもあることを、竹内は次のように言及している。

 

  したがって大川の宗教観では、宗教は人間精神の発現の最高形態だといいながらも、かなり道徳と接近したとらえ方になります。むしろ道徳の究極にあるもの、したがって連続したもの、という匂いが強いのです。宗教が道徳と背馳するという考え方は排除されているように見えます。宗教を知的に把握しようとすれば、どうしてもこうなるものなのかどうか、その辺のことは私にはよくわかりませんが、ともかく宗教と道徳との間に断絶を認めたがらない、いいかえると人と神との間に断絶を認めたがらない傾向はあります[27]

 

 大川は、自らの「精神的自伝」ともいえる、『安楽の門』において、「私が宗教と政治とに間一髪を容れるマホメットの信仰に心惹かれた」[28]と述べていることからも、竹内の指摘は当を得ていると思われる。竹内はこのような大川における宗教観の根幹を、「宋代儒学」を引き合いに出しながら、次のように言及している。

 

  これは大川の天性にもよるし、同時にかれの教養の根幹となっている漢学、とくに宋学の一種の合理主義とも関係すると思います。……修身斉家治国平天下という成語がありますね。これは政治論であるし、道徳論でもあるが、同時に認識の順序を述べたものとも解釈できるのではないでしょうか。近くから遠きに及ぼすということです。少なくとも大川周明の思想形成の過程なり、到達点を見るには、そういう解釈が有利なようです。宋学は一切のものを現世化すると同時に、諸価値を相互連関のもとに秩序づけているわけですが、大川の作業がまさにそうなのです。近くから遠くへです[29]

 

 竹内は、大川における「宋代儒学」という思想的素地があるからこそ、大川のアジア認識が、「理想型に対する偏差として現実を見る」というあり方に帰結することを次のように述べている。

 

インドにおけると同様、中国についても大川は、理想化された中国、ということは儒教倫理、とくに宋学によって代表されるそれを指すわけでありますが、その観点から演繹して現実批判をおこなう傾向が強いのであります。理想型に対する偏差として現実を見る。そうしますと当然、一切の現実は混沌たる、汚濁にみちたものにならざるをえない。そうしてそれを改革すること、大川流にいうと本然の性にたちもどることがアジアの復興にただちにつながることになります。まことに現実遊離といえば、そのとおりですが、これを大川だけの罪に帰するわけにはいきません。反対側の左翼の中国観だって、コミンテルンの教条をうのみにしている時代ですから、大川だけが現実遊離とは申せません[30]

 

 このように竹内は、大川のアジア認識をめぐる限界を、「理想型に対する偏差として現実を見る」という方法にあったことを指摘しているが、しかしながら、この発言にもあるように、竹内は「理想型に対する偏差として現実を見る」という方法への可能性も同時に提示しており、それは竹内による大川の「救済」へと繋がっていることである。そうであれば、竹内が結論として提示した、大川に見られる時局に便乗しない「論理的一貫性」とは、このような「理想型に対する偏差として現実を見る」という方法に対する、竹内自身における賭金であったとも考えれるのではなかろうか。そうであるならば、本講演の「挑発的」な帰結も理解できるのではなかろうか。

 

大川が日本型ファシストの一典型である、ということは承認されてよいと思います。同時にかれが独立した思想家であることも認めねばなりません。つまり、体制としてのファシズムに便乗して言論を弄んだのではないということです[31]

 

5.おわりに

 本報告では、竹内における大川周明論に即しながら、考察を試みた。大川におけるイスラーム認識などは詳しく論じることはできなかった。竹内好という思想家へのアプローチを模索するための一助になれば、幸いであり、本報告はその意味で雑駁な考察の域を出ない。参加者のご意見を請う次第である。

 

【参考文献】

《引用史料》

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  (2013年6月13日日本思想史研究会例会報告 文責:岩根卓史)


[1]竹内好大川周明のアジア研究」(以下「アジア研究」と略す)、丸川哲史・鈴木将久編『竹内好セレクションⅡアジアへの/からのまなざし』所収、日本経済評論社、2006年。p364-p365。

[2]前掲、p341。

[3]松本健一大川周明』、岩波現代文庫、2004年。初出1986年。

[4]大塚健洋『大川周明―ある復古主義者の思想』、講談社学術文庫、2009年。初出1995年。臼杵陽『大川周明イスラームと天皇のはざまで』、青土社、2010年。同「竹内好のイスラム観―戦前と戦後のあいだで」、安丸良夫・喜安朗編『戦後知の可能性―歴史・宗教・民衆』、山川出版社、2010年。pp97-pp131。三沢伸生「大川周明と日本のイスラーム研究」、『東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究年報』第37号、2002年。嶋本隆光「大川周明の宗教研究―イスラーム研究への道」、『大阪大学日本語・日本文化』第34号、2008年。同「大川周明と波斯(ペルシア)―続:イスラーム研究への道」、『大阪大学日本語・日本文化』第36号、2010年。などを参照。

[5]臼杵前掲書、p27。

[6]竹内「アジア研究」。p348。

[7]同前。

[8]前掲「アジア研究」。p353。

[9]前掲「アジア研究」。p352。

[10]竹内「アジア研究」。p342。

[11]野原四郎「回教圏研究所の思い出」、野原四郎『アジアの歴史と思想』所収、弘文堂、1966年。p227-p228。

[12]回教圏研究所については、臼杵陽「戦前日本の『回教徒問題』研究―回教圏研究所を中心として」、岸本美緒編『岩波講座「帝国」日本の学知第3巻 東洋学の磁場』所収、2006年。pp215-pp251。大澤広嗣「昭和前期におけるイスラーム研究―回教圏研究所と大久保幸次」、『宗教研究』第341号、2004年。片岡一忠「日本における中国イスラーム研究小史」、『大阪教育大学紀要Ⅱ社会科学・生活科学』第29巻1号、1980年。川村光郎「戦前日本のイスラム・中東研究小史」、『日本中東学会年報』第2号、1987年。田村愛理「回教圏研究所をめぐって―その人と時代」、『学習院史学』第25号、1987年。などを参照。

[13]安藤潤一郎「『回族』アイデンティティと中国国家―1932年における『教案』の事例から」、『史学雑誌』105編第12号、1996年。同「中華民国期における『中国イスラーム新文化運動』の思想と構造」、『アジア遊学』129号、2009年。坂本勉「戦時日本の対イスラーム政策」、坂本勉編『日中戦争イスラーム―満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』所収、慶應義塾大学出版会、2008年。ppⅰ-ppⅸ。「アブデュルレシト・イブラヒムの再来日と蒙彊政権下のイスラーム政策」、坂本勉編『日中戦争イスラーム―満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』所収、慶應義塾大学出版会、2008年。pp1-pp81。重親知左子「宗教団体法をめぐる回教公認問題の背景」、『大阪大学言語文化学』第14号、2005年。白岩一彦「南満洲鉄道株式会社の諜報ネットワークと情報伝達システム-一九三〇年代後半のイスラーム関係満鉄文書をめぐって」、坂本勉編『日中戦争イスラーム―満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』所収、慶應義塾大学出版会、2008年。pp83-pp134。新保敦子「日中戦争時期における日本と中国イスラム教徒―中国回教総聯合会を中心として」、『アジア教育史研究』第7号、1998年。松本ますみ「中国イスラーム新文化運動とナショナル・アイデンティティ」、西村成雄編『現代中国の構造変動3 ナショナリズム―歴史からの接近』所収、東京大学出版会、2000年。pp99-pp125。同「佐久間貞次郎の対中国イスラーム工作と上海ムスリム―あるアジア主義者をめぐる考察」、『上智アジア学』第27号、2009年。などを参照。

[14]竹内「アジア研究」。p344。

[15]竹内好「顧頡剛と回教徒問題」、『竹内好全集』第十四巻、p218-p219。

[16]同前。p219-p220。

[17]竹内好「東亜共栄圏と回教」、『竹内好全集』第十四巻、p349-p350

[18]同前。p347。

[19]前掲「顧頡剛と回教徒問題」、p220

[20]竹内好大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」、『竹内好全集』第十四巻、p297。

[21]竹内「アジア研究」。p362。

[22]同前。p362。

[23]同前。p350

[24]同前。p350-p351。

[25]大川周明「中庸新注」、大川周明全集刊行会編『大川周明全集』第三巻、p4。

[26]同前。p5-p6。

[27]竹内「アジア研究」。p354。

[28]大川周明「安楽の門」、『大川周明全集』第一巻、p789。

[29]竹内「アジア研究」。p354。

[30]竹内「アジア研究」。p361。

[31]注1と同じ。