臼杵陽『大川周明』

大川周明 イスラームと天皇のはざまで

大川周明 イスラームと天皇のはざまで

先日の報告準備をしていたときに、この本は取り上げたいなと思っていたので、雑駁な読後感にしかなりませんが、この場を借りて紹介を致します。

本書を読んで、逆に竹内好の「射程の広さ」に驚かされました。本書は大川周明における思想的構造を、とりわけイスラーム研究の側面から深く分析し、いままでの「オリエンタリスト」として語られてきた大川周明という人物像を読み直している点は、興味深いものでした。

臼杵さんは、本書のなかで、次のように言及しています。

 

すでにサイードのオリエンタリズム批判に対して、是々非々の立場からポスト・サイード論が展開されている現状を踏まえると、当然のことながら大川のイスラーム論も再評価されてしかるべきなのである。むしろ現在のわれわれに必要なことは、日本のイスラーム研究の黎明期を担った大川周明を改めて当時のオリエンタリスト的な研究蓄積の中で正当に位置づけると同時に、一九世紀から二〇世紀初頭にかけて活躍したが、オリエンタリズム論争の泥沼化でかえって顧みられなくなったヨーロッパのイスラーム研究者を改めて読み直すことであろう。その作業を通じて、大川周明イスラーム研究が日本という場から解放されると同時に、新たな大川周明像の構築につながることにもなると考えている。(pp175)

 

このような臼杵さんによる問題提起は、大川周明像に関わる問題だけでなく、いままでの日本の中で、イスラームという存在が、「ジハード」や「イスラーム原理主義」という文脈のなかでしか言及されてこなかったという知的状況に対しての警鐘であるとも言えると感じました。その意味において、戦前日本から戦後日本にかけてのイスラーム研究における「断絶」の深さについて言及した箇所は、僕としても考えさせられた論点でした。

 

これまでこの国において中東やイスラームへの対応は、九・一一事件後もまた再び同じことを繰り返されているというのが率直な感想である。要するにイスラームや中東への関心が一過性の現象だったことの深刻さが現れている。どういうことかというと、中東・イスラームに対する日本の関心が、常に日本が直接間接に深くかかわった戦争の勃発とともに高まったにもかかわらず、丸山眞男の指摘を俟つまでもなく、のど元過ぎれば何事もなかったかのように忘れてしまい、それまでの知の蓄積が継承されず振り出しに戻ってしまうのである。この国は危機に対して場当たり的にしか対応しないことが常態になってしまっている。過去を振りかえってみると、古くは戦前の一九三七年からの日中戦争のときであり、戦後は一九七三年の第四次中東戦争、一九九〇―九一年の湾岸危機から湾岸戦争に至る時期、そして二〇〇一年の九・一一事件から二〇〇三年のイラク戦争にかけて、いずれも日本の進むべき道を変更することを余儀なくされた重大な事態に直面したときに現れている。それぞれの時期にはそれなりに中東イスラーム研究の重要性とその緊急性が叫ばれた。しかしながら、結局、そのような危機感は一過性の表面的な現象として通り過ぎてゆき、インテリジェンスの基礎である知の集積がなされないままだった。(pp35)

 

臼杵さんの言及を敷衍すれば、猪瀬発言や、現在進行しているトルコをめぐる状況に対する一連のイメージ先行型のメディア報道にも当てはまるでしょう。

本書はイスラーム研究者としての大川周明をめぐる思想的な意義を、竹内好が提示した問いとも重ね合わせながら読解していますが、単に大川周明論というよりも、現代日本のイスラーム認識を考えるうえでも良質な議論を展開しています。僕のような素人でも相当読み応えのある研究書なので、読んでみて損はないと思います。

また、報告準備の際には、筆を立ち止まるたびに、本書を読み返していました。臼杵陽さんの議論の半分すら消化できないようなレジュメしか作れませんでしたが、この場を借りて、臼杵陽さんに御礼を申し上げる次第です。本当にありがとうございました。