町田三郎『明治の漢学者たち』―『漢文大系』について・『漢籍国字解全書』について・井上哲次郎と漢学三部作―

明治の漢学者たち

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【要約】

◎ 『漢文大系』について
『漢文大系』とは?
→1909(明治42)年から1916(大正5)年にかけて刊行され、本書によれば、「本来中国の古典を系統的に知るための基本図書を、権威ある原注とともに刊行することを目的とした」(p185)シリーズ本。
→発案:坂本嘉治馬。命名:芳賀矢一。編集:服部宇之吉。服部宇之吉を責任編集者とする。服部宇之吉による編集方針は、「系統的に中国古典の代表的なもの、常識的なものを精審な原注で紹介」し、「幕末から明治にかけての邦儒の秀れた研究業績を組み入れて世間に知らしめること」(p190)。以下、三章にわたり同時期における「漢学」の動向について考察。
→本書が、『漢文大系』に所収されている注釈として、評価するのは、安井息軒の注釈。本書によれば、安井の四書注釈は、「公正平易な注解」(p191)であり、「新古の注を折衷」(p194)しながら、自説を展開する安井息軒の学問的姿勢は、「目前の学術のすべてを同質的同時的なものとみて平面的に捉え、その良善なるものを選択的に取ろうとする立場」(p196)が見て取れると指摘。
→『漢文大系』が刊行された時期は、近代日本における帝国主義的膨張が本格化する時期と重なり、同時に中国語教本の改良など、中国・アジアへの関心が高まる。また学界の動向をみれば、内藤湖南白鳥庫吉などが、「漢学離れ」を提唱。かかる状況において、『漢文大系』は原注主義を貫き、バランスのとれた中国古典の総体を紹介しようとした、意欲的な事業として総括。

◎ 『漢籍国字解全書』について
漢籍国字解全書』は、早稲田大学出版部が、1909(明治42)年から1917(大正6)年にかけて出版したもの。
→「国字解」とは、漢籍を平易な俗語で注釈したもの。「国字解」を儒者が著す理由について、本書では、「著者の内的欲求、社会への積極的な関与」(p213)があり、そこに注釈者としての「燃ゆる如き信念」と個性が見て取れるとし、「注釈そのものが一つの精神史であり時代史」(p219)として描き得る可能性について論述。
→『漢籍国字解全書』の刊行は、初学者向けの需要とともに、明治・大正期における学術としての時代史を考察するための資料としての価値を本書は認める。

井上哲次郎と漢学三部作

井上哲次郎の学問的出自。明治政府の学制施行により、東京帝国大学の一期生として、ドイツに留学。留学後の井上に求められたものは、「西洋の学術文化を身につけた新視点から東洋の学術文化」(p234)を見直し、「新しい東洋の学問を構築すること」(p234)。
→井上による「漢学三部作」の執筆動機は、『勅語衍義』の序文で示した、「孝悌忠信」と「共同愛国」の精神を、江戸時代はどのように実践していたか、を解明することにあると指摘。
→『日本陽明学派之哲学』。井上のねらいは、「現今の道徳の壊敗」をみて、往時のわが国民の道徳」を陽明学から探り、「道徳のモデルの呈示」(p236)にあったと本書は論述。
→『日本古学派之哲学』。本書では、井上による仁斎研究が、基礎文献の渉猟によって、仁斎の学問を通観したことを評価。徂徠に関しては、井上は功利主義的な傾向を見出していたことを指摘。
→『日本朱子学派之哲学』。本書によれば、井上は朱子学における実行と学問を両立させる態度を評価していたことを述べたうえで、井上は、朱子学を「国民道徳」を養成するためには、再評価していたことを挙げる。
→本書は、井上哲次郎の「漢学三部作」について、「徳川思想史を体系的に著した儒学的研究」(p243)として高く評価し、資料調査の徹底性・整然とした論述・文章の平易さなどを特徴として挙げ、「徳川思想史をきわめて科学的客観的に描き出した」著作として、評価しなければならないことを述べて、本章を閉じる。

【論点と疑問点】
◎ 論点
三章にわたり、近代学術としての「漢学」が成立する背景について、『漢文大系』・『漢籍国字解全書』・「漢学三部作」から考察。

◎ 疑問点
個別の論文は、顕彰調であり、歴史的背景に関する具体的な分析は乏しい。例えば、なぜ「漢学隆盛の機運」(p227)が起こるのか、という説明に関しては「当時の事情」という点に終始され、「時流」(p205)や、「時宜に適った」(p229)という説明しかしていない点は疑問。ゆえに「時代的な雰囲気」という前提のもとで、論述が展開されている。

【考察】

◎江戸儒学三部作を考えるために
上記では、担当箇所を概観。本報告では、井上哲次郎(1856−1944)に着目して考察。本報告では、江戸儒学三部作を考えるためには、どういう見方が有効なのかを提示し、そのうえで、井上哲次郎における〈徳教〉という概念に注目する。

→江戸儒学三部作については、内容要約の部分で既に紹介し、重複するので割愛。井上哲次郎という存在のわからなさ。三部作を合わせて二千頁超にのぼるが、その記述をいかに読解すればいいのか。井上哲次郎が留学中に法律学者であるスタインと交わした会話。

スタイン氏を訪ふ。氏曰く東洋哲学には論法なく西洋哲学には尽く論理的に発達せりと。余曰く。是れ亦誤謬の甚だしきものなり。第一東洋に論法なしとは何の証拠ありて言はるゝや。(井上哲次郎「維納府に於て島尾中将と共にスタイン氏を訪ひ東西哲学の異同を論ず」、『東洋大家論説』第2集、1888年)

→井上はスタインに反論しながら、上記のように述べる。井上による〈東洋〉をめぐる仮構が、江戸儒学三部作であることは、先行研究でも言及されているとおり。【桂島1999・磯前2002・中村2009など】西洋との対比から照射された〈江戸儒学〉であることは贅言を要さない。

朱子学派の道徳主義は今の所謂自我実現説と仮令ひ其形式を異にするも、其精神に於ては、殆ど同一轍に出づるものにて……グリーン、ミュルヘッド諸氏(引用ママ―報告者注)の言ふ所と往々符節するが如し。(井上哲次郎『日本朱子学派之哲学』、「序文」、富山房、1905年、p5)

古学は文学復興(即ちルネッサンス)の結果として起れる研究にて……蓋し文学復興によりて、我邦の学者が一時に後世の学問の妄謬を看破せるに本づく。……是れ我邦思想発展の順序に於ては、確かに一歩を進めたるものなり。此の如き復古の学を総称して古学といふと雖も或る意味にては新規の学なり。(井上哲次郎『日本古学派之哲学』、「結論」、1902年、p705)

→また、井上は〈儒学の日本化〉論を試みる。この意味においても江戸儒学三部作は、〈国民精神〉の淵源を探る試みだといえる。

凡そ国民的道徳心は、発達進歩するものにて、又発達進歩せしむべきものなるは、言ふまでもなきも、亦決して一代の産物にあらず、其由りて来たる所極めて遠く、実に千世万世の遺伝なり。匹夫にして之れを覆さんこと思ひも寄らざるなり。若し我邦に於ける国民道徳心のいかんを知らんと欲せば、其国民の心性を溶鋳陶治し来たれる徳教の精神を領悟するを要す。即ち此書叙述する所の日本陽明学派の哲学の如き、豈に此に資する所なしとせんや。(井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』、「序文」、富山房、1900年、p2)

→井上は、陽明学>古学>朱子学という井上自身の価値判断を含んだ序列を生み出す。井上における〈儒学の日本化〉論は、朱子学を〈静寂主義〉、古学を〈活動主義〉、陽明学を〈実行主義〉と規定しながら、中国とは違った特殊性を主張するものであった。

朱子学派は当初より最後まで大波乱なく、大抑揚なく、曽て軌道を離れざる常識的文章の如き形述を描出し、尽く其徒を同一模型に入れて之を溶鋳陶治し、復た個人をして一種異彩を放つの自由を有せざりしむるものなり。乃ち教育上に於ける画一主義の結果いかんは、我邦に於ける朱子学派の歴史、之を証明して余りあるといふべきなり。(井上哲次郎『日本朱子学派之哲学』、「結論」、富山房、1905年、p600)

陽明学は其本を言へば、明の陽明に出づと雖も、一たび日本に入りてより忽ち日本化し、自ら日本的の性質を帯ぶるに至れり。……陽明学が日本化せるは疑ふばからざる事実なり。……日本人は性単純を喜ぶ。然るに学としては、陽明学より単純なるはなし。……日本人の陽明学に接するや、其性、其物と適合し、此れを以て彼れを迎へ、彼れを以て此れに容れ、相互融合して一となり、炎々たる活気を内に蓄へ事あるに当りては発して電光の如く、衆目を眩ずるに足るものあるなり。……日本の陽明派は実に活発なる事跡を成し、颯爽たる跡述を留め、支那の陽明派に優ること遠しとなす。(井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』、「結論」、富山房、1900年、p627)

古学派は素行といはず、仁斎といわず、徂徠といわず、皆均しく活動主義を主張して、宋儒の静寂主義に反抗せり。是れ蓋し日本人特有の精神にして、此点に於ては、今日と雖も、寸耄も異なる所あるにあらざるなり。(井上哲次郎『日本古学派之哲学』、「叙論」、1902年、p3)

→それらの指摘は、これまでの研究では数多く言及されてきたし、本報告も先行研究に依拠している。江戸儒学三部作は、〈近代知〉という地平からでは、その端緒であり、また後世の儒学史の叙述を定位するものであったことは確かであろう。しかし、井上哲次郎が、なぜ儒教に着目したのか、ということは、単に〈国民化〉論だけでは説明できないのではないか。井上は儒教を〈徳教〉として規定する。それこそ、既成の宗教とは性格を異にする儒教の姿だと主張するからである。以下ではそのことを確認。

◎〈徳教〉としての儒教
「東洋哲学の歴史的価値」(1917)ににおいて、井上は「儒教とは宗教ではない」ということを述べている。井上は儒教を宗教とは峻別された〈徳教〉として語られる。

支那哲学は儒教と道教との流れである。……儒教は宗教とはならなかったが、道教は後世に至って遂ひに一つの宗教となって居る。道教は日本には割合に入らなかったが、儒教は朝鮮、日本を初め東洋諸国に徳教として影響を及ぼして居る事は非常なものである。是又大いに研究を要する次第である。(井上哲次郎「東洋哲学の歴史的価値」、『東洋哲学』第24巻10号、1917年)

→先述した江戸儒学三部作でも、「若し我邦に於ける国民道徳心のいかんを知らんと欲せば、其国民の心性を溶鋳陶治し来たれる徳教の精神を領悟するを要す」(『日本陽明学派之哲学』)と述べているように、〈徳教〉としての儒学の歴史的意義を強調するが、井上においては、仏教やキリスト教などの既成宗教とも違う位置にあるものとして、儒教の意味を付与している。「儒教の長所短所」(1908)では、既成宗教と峻別しながら、〈徳教〉としての儒教論を展開している。以下では、この論文を中心に検討を加える。

此儒教といふものは宗教とどう云ふ工合に違って居るか、大体の處を先づ述べて置きたい。……茲に宗教といふのは私は重もに仏教と基督教とを意味して言ふのであります。宗教と違う点は第一に宗教的儀式が無い。色々な寺院会堂の如きものが無い。又た祈祷をすると云ふことも無い。……セレモニーといふものが殆ど無い。第二に現世を超越した未来世界といふものを信じて居らぬ。さう云ふことは丸るで問はない。……未来世界といふものは宗教に取って非常に重大なものでありまするが、儒教ではさう云ふことは頓着しないのであります。さう云ふことが違ひます。それでありますから儒教は寧ろ宗教といふよりは徳教と言ふべきものであらう。固より宗教といふ意味を是まで普通に用ゐられた意味より広くする時には徳教も宗教と言って差支ないけれ共今日世間で仏教基督教秤を指して宗教といふやうな意味では言へないのであります。(井上哲次郎「儒教の長所短所」、『哲学雑誌』第23号262号、1908年)

→井上は、「儒教は寧ろ宗教といふよりは徳教と言ふべきものであらう」というように、儒教が既成宗教では持ち得ないような性質があるものとして規定していく。また、続く文言では、「徳教も宗教と言って差支ないけれ共今日世間で仏教基督教秤を指して宗教といふやうな意味では言へないのであります」と述べている。このように、井上は儒教を、宗教という範疇では収まらないような思想的意義を見出していく。

仏教だの基督教だのといふ宗教は皆無数の迷信を伴って居ります。それで科学と撞着して屡々面倒が起って来るのであります。さうしてその迷信がそれら宗教の大事なところになって居るところが儒教ではさう云ふことは少しも無い。……此の点は確かに儒教の顕著なる長所であると考へます。(同、『哲学雑誌』第23号263号、1908年)

次に儒教と云ふものは教育と相伴ふことが出来るのであります。是が一番儒教の長所であろうと思ひます。……その訳は是孔子の人格が非常に偉大であるからである。……孔子のやうな人格は実に人間の歴史に於て稀なる場合であります。仏陀や基督やソクラーテスに比較するやうな偉大な人格であって滅多に世の中に出る人格で無い。さう云ふ偉大なる人格が東洋に於て純粋な徳教を開いたのである。(同)

→「儒教といふものは、畢竟共産物、徳教として孔子を始め支那の智者の唱へた共産物であります」(同)と、井上は述べるのだが、そもそも〈徳教〉という用語は、明治初年期の知識人が、まだ〈宗教〉や〈道徳〉などの概念が定着していない時期において頻繁に使われた用語である。しかしあえて井上は、〈徳教〉という渾然一体したような用語を持ち出すのである。その背景には、井上に自身の〈理想教〉構想と無関係ではないと思われる。ドイツ留学直後に井上は次のように述べている。

又日本で或は哲学とか、宗教とか云ふ様なものが段々必要になってくるのでありませう。即ち今日の学術に依って組織されたる所の哲学と撞着しない所の宗教が、今日の教育を受けたる所のものに必要となって来るのでありませう、併しそれ等の方針は矢張り此東洋の古来の哲学、宗教と云ふものを研究して来なければ、決して十分の効を奏すると云ふことは到底覚束ないであります。(井上哲次郎「東洋の哲学思想に就て」、『日本大家論集』第6巻4号、1894年)

→井上は、「今日の学術に依って組織されたる所の哲学と撞着しない所の宗教」の必要性を語るのであり、姉崎正治(1873−1949)や渋沢栄一(1840−1931)らが、1912(明治45)年に設立した「帰一協会」における活動を通じて、井上自身による〈理想教〉構想は、「完全なる宗教」の実現を目指そうとするものであった。井上は次のように回想している。

そこで、自分の学者としての立場を一言することが必要である。自分はキリスト教徒が国体に反するやうなことをしたり言ったりするのは、良くないと考へて攻撃して来たが、キリスト教の総てが悪いとは云へない。殊にその道徳の教にはなかなかよいこともある。それで、総ての宗教は人間の本性の要求より起こったのであるが、それがいろいろ違って来たのは、その発生した境遇事情などの違ひに基くものである。既成的の宗教は、それぞれ特色がある。良いところもあれば、悪いところもある。これは独りキリスト教ばかりではない。完全なる宗教は将来に於いて実現さるべきである。これを理想的宗教と名づけ、又簡単に理想教とも云った。(井上哲次郎『懐旧録』、春秋社、1943年、p133)

→井上が〈徳教〉としての儒教論を主張するのは、「完全なる宗教」という、〈理想教〉構想の実現を「帰一協会」の活動を通して行おうとした時期とほぼ重なることは興味深い。このようにみていけば、井上による〈徳教〉とは、道徳とも宗教とも違う形で組みなおしながらも、そのベースを儒教に見出し、井上自身の〈理想教〉を実現させようとした試みであり、江戸儒学三部作もまた、かかる作業の一環だったといえるのではなかろうか。

儒教は支那民族の共産的徳教でありますから、そこで後の人が更にそれを発展さして行かなければならぬ。……今日我々は儒教に対してどう考へるかといふと儒教といふものは幾多の欠点を免れないものであるからして今日は儒教の教丈ぢやいかれぬ。足らぬ。足らぬならば何を以て補うかといふと、西洋の学問、即ち倫理学だの哲学の考を採って来て補はなければならぬ。さうしてもそれが少しも儒教に戻らぬ。儒教は何時迄も儒教として継続せなければならぬといふことは少しも無い。我々は是非共儒教の内容を存続して行かなければならぬといふことは責任は有っておらぬ。儒教が潰れれば潰れても宜い。……儒教といふ名はどうでも宜い。一体儒教といふ名はモウ必要ない。今日の日本の立場からいふと倫理学や哲学の考で今日の世の中に要すべき徳教を組み立てゝ来さえばそれで宜い。(井上哲次郎「儒教の長所短所」、『哲学雑誌』第23号263号、1908年)

【残された課題】
井上哲次郎を取り巻く哲学をめぐる同時代的動向。晩年の回想より引用。

ハイデルベルヒ大学(引用ママ―報告者注)に入学して、当時有名であった哲学史家のクーノー・フィッシェル氏(Kuno Fischer)の講義を聴くことになった。(引用ママ―報告者注)……氏の最も得意とする所は近世哲学史であったが、その中でも特にカント哲学を講ずることに於いて絶大の技量を発揮したのである。(井上哲次郎『懐旧録』春秋社、1943年、p297-p298)

→ドイツ留学中に書かれた『懐中雑記』では、井上哲次郎の留学中の生活に触れられることができる。しかし、手記の内容は、留学中に受けた講義や、学者との交流も記されているが、人名だけが淡々と触れられているだけで、具体的なことまではわからない。しかし、フィッシャー、グリーン、ミュアヘッドという人物は、『懐旧録』や三部作で触れられているものの、彼らの思想との相関関係は明らかになっておらず、近代日本の思想界全体が彼らをどのように解釈したのか、という課題は残されているのではないか。井上哲次郎だけでなく、近代日本の〈哲学〉という問題にも連なる課題だろう。

◎江戸儒学三部作自体における課題
→江戸儒学三部作の目次を見ると、江戸時代だけでなく、井上哲次郎としては直近にあたるような思想家も取上げられている。中村正直元田永孚西郷隆盛など。井上哲次郎の見方では、江戸から明治までを思想的連続体と捉えたうえで、その儒学史叙述もまた、同時代における現代的問題と関わっていたと考えられる。その意味で単に〈哲学史〉の成立という視点だけには収まらないものを含意しているのではないか。このことに関しては再度考察する余地があると思われる。

【まとめ】
本報告では、論点を絞って考察した。本報告では、江戸儒学三部作について、井上における〈理想教〉構想の一環に位置づけられるものとして考察してみた。報告者による事実誤認もあるかもしれない。雑駁な印象は免れないが、参加者の意見を請う次第である。

【参考文献】
〈テクスト〉
井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』(1900)富山房。
―――『日本古学派之哲学』(1902)富山房。
―――『日本朱子学派之哲学』(1906)富山房。
―――『懐旧録』(1943)春秋社。
―――「維納府に於て島尾中将と共にスタイン氏を訪ひ東西哲学の異同を論ず」(1888)『東洋大家論説』第2集。
―――「東洋の哲学思想に就て」(1894)『日本大家論集』第6巻4号。
―――「儒教の長所短所」(1908)『哲学雑誌』第23巻262・263号。
―――「東洋哲学の歴史的価値」(1917)『東洋哲学』第24巻10号。

〈研究文献〉
浅沼薫奈「井上哲次郎と大東文化学院紛擾」(2009)『東京大学史紀要』27号。
磯前順一「井上哲次郎の「比較宗教及東洋哲学」講義―明治20年代の宗教と哲学」(2002)『思想』942号。
―――『近代日本の宗教言説とその系譜』(2003)岩波書店
井ノ口哲也「井上哲次郎の江戸儒学三部作について」(2009)『東京学芸大学紀要:人文科学?』60号。
大島晃「井上哲次郎の『東洋哲学史』研究と『日本陽明学派之哲学』」(1997)『陽明学』9号。
荻生茂博『近代・アジア・陽明学』(2008)ぺりかん社
桂島宣弘「一国思想史学の成立」(1999)西川長夫・渡辺公三編『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』所収。柏書房。
見城悌治「井上哲次郎による『国民道徳概略』改訂作業とその意味」(2008)『千葉大学人文研究』37号。
関口すみ子『国民道徳とジェンダー』(2007)東京大学出版会。
中村春作「近代の『知』としての哲学史」(2009)『日本の哲学』8号。
―――『江戸儒教と近代の「知」』(2002)ぺりかん社
平井法「井上哲次郎」(1980)『近代文学研究叢書 54巻』所収。昭和女子大学近代文化研究所。

(7月2日ゼミ報告 文責:岩根卓史)