平野嘉彦『ツェラーンもしくは狂気のフローラ』(3)

ツェラーンの詩論には、つねにある二項対立が措定されているように思われる。すなわち、通常の用語法において「詩」であることの、しかし、実は「詩」などではない、ツェラーンの用語法における「芸術」と、それから、「私的」であるがゆえに、もともと「詩ではない」ものと。いずれにしても「詩ではない」、この二項がある地点においてたがいに交叉する、そのときに、一瞬、現象してくるものが、ツェラーンのいうところの「詩」にほかならない。「詩」は「言葉」ではない、「言葉の現象形態」である、とするツェラーンの発言は、そうした文脈において理解することができる。「詩」は、毀傷としてのみ、テクスト上において作用する。「狼豆」と題する「詩」が「詩ではない」のは、その意味では当然のことだった。そこでは、後者の「私的」であるがゆえに「詩ではない」ものが、それ自身、実体と化してしまっていて、前者の「詩」ではない「詩」が、すなわち「芸術」がはじめから欠落してしまっていたのだから。(p188)