ハラウェイ.D『猿と女とサイボーグ』(8)

流動的な位置の選び方や情熱的な脱離に関わっていく以上、よく見るという目的で被隷属の立場から見るための戦略として、無垢な「アイデンティティ」ポリティクスや認識論に依拠することは不可能となる。誰しも、細胞あるいは分子で「いる」ことや、女性、植民地支配下の人間、あるいは労働者といった存在で「いる」ことは、――もし見ることを希求し、それも、こうした複数の位置から批判的に見ることを希求するならば、――できない。「何かでいること」とは、もっともっと多くの問題をはらんだ、偶発的な事態である。付け加えるなら、誰であっても、どこに移動するにしても、その移動先への移動について説明できない状態のままに移動を行うことはできない。視覚/見え方は、常に、見る力/権力に関わる問題であり、ひょっとすると、我々の視覚/映像化の実践に暗に内在する暴力の問題なのかもしれない。いったい誰の血をもってして、私の目は創出されたのか?こうした論点は、「自己」という位置からの宣誓にもあてはまる。我々は、我々の内部で、ただちに存在しているわけではない。自己について知る作業は、さまざまな意味とさまざまな身体とを結びつける記号-物質のテクノロジーを要する。自己というアイデンティティは、悪しき視覚/映像体系である。融合は、位置を選ぶうえでの悪しき戦略である。……西欧の目は、根本のところでは、さまよう目、流浪するレンズであった。こうした彷徨・流浪は、往々にして暴力的で、自己を征服する過程で鏡にこだわることが多かったものの、常にそうであったというわけでもない。西欧のフェミニストたちも、マスターたちのものの見方に対して地球変容的な挑戦を行う際、逆さ向きになった世界を視覚化/映像化しなおす作業に参画する過程で、何がしかの技能を受け継いでいる。何もかも、ゼロからスタートせねばならないというわけではない。(p368-p369)