ハラウェイ.D『猿と女とサイボーグ』(9)

分裂し、矛盾をはらんだ自己こそが、位置設定に疑いをいだくことができ、記述を行いうるような存在であり、合理的な対話や空想上のイメージ形成作業を構築し、そうした作業に参加しうるような存在である――そして、世界は、こうした作業を通じて変革される。ただ存在しているのではなく、分裂状態で存在しているということは、科学の知をめぐるフェミニズムの認識論にとって、特権的なイメージである。こうした文脈での「分裂状態」は、同時に必要とされており、しかも、同一形状のスロットに押しこんだり、累積的なリストに挿入したりすることが不可能であるような、不均質な複数性に関わるものでなくてはならない。こうした幾何的性質は、主体内部についても、複数の主体間についても該当する。主体性の持つ地形的性質は、多次元的で、要するに、見え方そのものである。知るという過程の途上にある抜け目ない自己は、あらゆる外見からして部分的であり、決して完成しておらず、なおかつ全体であり、ただそこに存在しており、オリジナルである――そして、常に構築途上であり、不完全に縫い合わされていて、であればこそ(太字)、他者であることをことさらに主張することもなく、他者と接合したり、ともに見たりすることが可能なのである。ここに、客観性が保証される。すなわち、科学の知を得ようとする者が求めているのは、アイデンティティが有するような主体としての位置ではなく、客観性が有するような主体としての位置、つまり部分的関係性である。(p369-p370)