ケテラー.ジェームス.E『邪教/殉教の明治』(3)
幕府軍が敗退する以前、
西本願寺と東本願寺は政治的領域では互いに対立する立場にあった 。東本願寺は徳川家康が一七世紀に建立したものであり、 つい最近の二度の火災(一八五八年と一八六四年) に際しては幕府からかなりの支援を受けて再建を果たしており、 長きにわたって幕府を直接的・ 間接的に支援する立場を占めていた。 京都の東本願寺の本堂脇には、 家康の半神像が安置された社殿が守られ、 日光の東照宮を拝していた。それに加えて東本願寺と手を結び、 いわゆる薩長同盟が結ばれた後、 幕府による第二次長州征伐が行われた。 東本願寺はそれに先立って、すべての末寺に直接呼びかけて、 戦闘に要する量の米や金・銀・銅などを徴収した。翌年、 幕府軍がたえず相手の裏をかいて戦果をあげるに及んで、 末寺の参戦可能な僧侶すべてに幕府軍に志願するよう呼びかけたり している。(p108)