イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』を読む―〈国語〉と〈言語的マイノリティ〉をめぐる考察―

「ことば」という幻影

「ことば」という幻影

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◎担当箇所
第6章「『正音』の帝国」・第7章「国語学・言語学・国学」・第12章「手話言語と言語政策」

◎選定の理由

→自らの研究に即して鑑みた場合、第6章と第7章は避けて通れない箇所であること。
第12章を選んだ理由は「手話」という〈言語〉で生活を営んでいる人々が置かれている現状を考察することは、《コトバ》をめぐる問題に対し、一石を投じる示唆を与えるという意味で重要な箇所である。また、「正音の帝国」では伊沢修二の「ろう教育」の問題がクローズアップされており、その関連性を考察した場合、有益であると考えられたからである。以下、順番に即して論点を整理する。

1.要約

◎第6章 「『正音』の帝国」

→『「国語」という思想』に対する批判と上田万年の位置づけをめぐる、イ・ヨンスク氏の再応答。

『「国語」という思想』でわたしが試みたのは、近代日本の言語認識を構成するいくつかの系列を太い線で描くことであり、そのなかで上田万年保科孝一との連続性を明らかにすることであった。そして、「国語と国家と」を書いた上田万年が、なぜ自身を「敗軍の将」と呼び、第二次世界大戦中には「革命分子の首領」とまで名指されなければならなかったかを理解しようとしたのである。だから、わたしは、『「国語」という思想』の舞台のうえで演じた役割、あるいは演じざるをえなかった役割という視点から上田を論じたのであり、上田個人の思想をそのまま再現するつもりはなかった。(p147-p148)

→その上で、上田万年の「国語学」が為した作業を確認。

上田が近代的国語学を打ち立てようとしたときに指針としたのは西洋言語学であって、伝統的国学ではないという点は、ここであらためて強調しておきたい。上田が「反国学」の立場をとるというのは、国語学の実際の研究において伝統的国学の理論と方法をそのまま引き継ぐことはできないということであり、その点こそが山田孝雄時枝誠記との決定的なちがいなのである。(p148)

→「国学=音声中心主義」という90年代の国民国家論に見られた傾向への批判。

わたしは「音声中心主義」という特徴づけだけによって、「国学的」か否かを決めることはできないと思う。そのような見方は、問題の本質を取り逃がすおそれさえあるともいえる。……山田孝雄は、近代の「国語学者」のなかでもっとも色濃く「国学的」なものを引き継いだといえるだろうが、その山田が「口語のみが生きた国語であつて、文字で書いたものなどは重きをおくに足らないとするような意見」を「文化といふ重大事実を無視して、野蛮人の言語を標準とした謬見」であり、「文化を有する国民の間には害有つて益なく、存立せしめてはならぬ僻説」と断定している事実を、「国学=音声中心主義」という視点から、いったいどのように説明できるだろうか。(p149-p150)

→本章では、伊沢修二が著した『視話法』(1901)と「ろう教育」との関係性が言及されており、「ろう者」をいかに位置付けるのか、という問題が取り上げられている。この問題は後述する12章でも確認するが、「われわれ/他者」をめぐる〈言語的ヘゲモニー〉の関係を考察するうえでは、欠かせない論点。

手話か口話かという問題は、たんなるろう教育の方法の問題にとどまらず、一九世紀後半の時代精神、社会状況と深くかかわりがあった……「ろう」とはなにか、「ろう者」とは誰かという問いは、特定の社会のなかで「われわれ/他者」の分割線がどのように引かれるかという問いとからみ合っているのである。(p155)

→本書では、伊沢修二における「視話法」を、「国語」という「正音」に〈他者〉を同化させるために編制されたものであり、その点を強調する。

口話主義とは、手話を禁止することで、ろう者を音声言語の世界へ「同化」することを目的とするといえよう。この意味で、口話主義はひとつの「植民地主義」だといえるかもしれない。……伊沢修二がその「視話法」によって、成し遂げようとしたのは、「国語」の外部にいるさまざまな他者をひとくくりにしたうえで、「国語」の「正音」のなかに同化することであった。つまり、ろう者、吃音者、方言話者、植民地異民族は、それぞれの存在のありかたがいかにちがっていたとしても、ひとしく「国語」の「正音」の外部にいるものとして、「視話法」によって「正音」の帝国に同化することができるのである。こうして視話法によって吃音者が正確な発音を学ぶように、ろう者は音声言語を、方言話者は標準語を、植民地異民族は「国語」を学ぶのである。(p162-p163)

◎ 第7章 「国語学・言語学・国学」

→明治の「国語学者」は、江戸時代の「国学」を超克すべき問題として捉え、「文献学批判」を目的としていたものであり、「国学」はまさに超克されるべき対象であった。

明治以降の国語学に話を戻すと、どうやら上田万年以降の「国語学者」たちは、江戸時代の国学を超克すべき文献学と見なしたうえで、ヨーロッパの言語学者が古典文献学に向けた批判を、そのまま江戸時代の国学に向けてくりかえしたのである。すなわち、かれらの国学批判は、じつはヨーロッパにおいて言語学が文献学に投げかけた批判の反復にすぎなかったといえよう。(p167-p168)

→故に明治期の「国語学者」たちが参照すべき、必読書は「国学」の文献ではなく、あくまでも西洋の「言語学」の文献であった。

明治以後の国語学にとって、必読書だったのはヘルマン・パウルの『言語史原理』であって、江戸時代の国学者の著作ではなかった。必要だったのは、パウルを読んだ眼を通して、国学者の著作を検討することであって、けっしてその逆ではなかった。(p169-p170)

→そのような明治期の「国語学」への批判を試みたのが、時枝誠記であった。

時枝は「明治以後の国語学」の誤りはつぎのふたつの点にあるとみていた。第一に上田万年以降の国語学は、国語国字問題という実践的問題の解決のために要請された学問であり、その内部に確固たる学的理念をもっていない。第二に、国語学が理念のかわりに身につけた西洋輸入の言語学の方法には、学問としての致命的な欠陥があったということである。……時枝は、国学者の研究のほうが西洋言語学よりも「科学的精神」に立脚しているとさえいう。「観察的立場」を排し、あくまで「主体的立場」から言語理論の構築をめざした時枝は、「国学」の学説を、日本語話者が「主体的立場」に立って日本語に抱いた言語意識の展開として評価するのである。(p174)

◎ 第12章 「手話言語と言語政策」

→本章では、「手話言語」の問題が把捉されている。その上で日本社会における「手話言語」が置かれている立場を次のように総括している。

日本手話と書記日本語のバイリンガル教育という理念がなかなか受け入れないのは、純粋に教育学的な配慮によるよりは、日本社会そのものに根づくある種の価値観と社会通念によるところが大きいのではないだろうか。ろう者の手話が独立した言語であり、それを母語とする話者集団がいるという前提を認めるなら、手話話者はマイノリティに対する多言語多文化教育の理念が受け入れられていないことに、そもそもの問題がある。(p236)

→浮き彫りにされるのは、〈言語的マイノリティ〉への配慮の無さであり、「沈黙」を強いられている「ろう者」の状況を次のように総括している。

「マジョリティへの同化や統合がなぜよくないことなのか」と問う人がいるかもしれない。しかしその人はほんとうにマイノリティの立場に立ってものごとを考えているだろうか。……マイノリティが既成の秩序に異議申し立てを行い、自身の要求を社会に対して突きつけるとき、マジョリティの側からは、「自分の集団のことしか考えない偏向した見方」であるとか「政治的でイデオロギー的な主張」であるというレッテルがしばしば貼り付けられる。しかし、マジョリティにとっては「自然な」環境であるものが、マイノリティにとっては「屈辱的」で「抑圧的」な装置であることが、どうしてもマジョリティ側からはみえないのである。したがって、マイノリティが自身のアイデンティティを主張するときは、この力関係のアンバランスを可視化せざるをえない。(p237-p238)

2.若干の考察

やや論点を簡略化してしまったかもしれないが、アウトラインを示すうえでは、なるべく本書の論点について、重要だと思われる箇所をピックアップした方が議論をしやすいと思われたので、このような形式をとった。ここでは、滝浦真人山田孝雄―共同体の国学の夢』を中心にして議論を組み立てることにする。それは時枝誠記と比べて山田孝雄に言及する研究書がないからである。滝浦氏は、「連歌師・山田孝雄」という像を打ちたて、山田孝雄における「国学」の理念を考察したという意味で稀有な論点を提起している。滝浦氏は次のように述べる。

「神と君が代の動かぬ国」と言われる「動かぬ」のは何だろう?とりあえず“神国日本”の国体が動かないということではあろうけれども、その答えを物語の中に求めるならば、それは、あらゆる存在は、あらゆる存在が普く歌を詠むという共同性こそが「動かぬ」ものであるということになろう。だとすれば、歌の共同性こそが、じつは国体の支えと言われるべきものなのである。(p142)

山田孝雄は有名な『櫻史』を著した。滝浦は、「山田にとっての「国体」は、様々な形で表れる「国」の共同性であると言い換えることができるが、その一つが『歌』の共同体である。それは、あるいは連歌の共同体として語られ、さらには住吉明神に守られた“奇跡の共同体”として語られる。連歌の共同体とは、“開かれた”共同体ではない。山田における「国」の共同性にはもう一つ象徴があり、それは『桜』である。桜の共同体は、“不易の共同体”である」(p9)と述べるように、「国学者」としての山田孝雄像を提示する。その意味でいえば、時枝誠記山田孝雄は、二人とも「国学へ還れ」という言説を1930年代から頻繁に繰り返すが、その距離は近くて遠いものであり、今後の研究において、時枝誠記山田孝雄を一緒くたにするのではなく、丁寧にその言説をパラフレーズしていく作業が必要なのではなかろうか。それは自らの研究を振り返った際、不十分な論点であり、今後精査する必要性があるように思われる。今回は時間的な制約もあり、そこまで踏み込めなかったが、自らの課題とすることで本報告を終えたいと思う。

(「外地」文学研究会 2009年11月13日)

文責:岩根卓史