「宣長」というアポリアへの斬新な挑戦―友常勉著『始原と反復―本居宣長における言葉という問題』

始原と反復―本居宣長における言葉という問題

始原と反復―本居宣長における言葉という問題

本居宣長という存在は、日本思想史におけるアポリアとしてあり続けている。夥しいまでに高く積み上げられた宣長研究が、無言に強迫する〈日本〉という観念。そして我々は宣長のテクストを「読む」行為を通して、かかる強迫観念に満ちた〈円環〉の中に自らを置くことになる。

本書は、思想史研究者ならば、誰でも意識せざるを得ない宣長という〈円環〉との格闘の痕跡が見られる。本書では宣長の「言語」や「時間」をめぐる思考に対し、E・サイード『始まりの現象』で提起された、〈始まり〉の言説と系譜学をめぐる鋭い考察に触発されながら、〈始まり〉によって、人間的で歴史的な行為としての〈反復の形式〉と〈差異の産出〉を見出していく宣長の思考とそのテクストを鮮やかにパラフレーズしている。さらに本書は、宣長という歴史的な〈個〉を、日本思想史の「頂点」として把捉するのではなく、養子縁組という作為的継承関係を基盤とした系譜学を命脈として持ちながらも、一つの〈差異〉を含意した存在として考察していることも重要だ。

このように、極めて理論的密度の濃い文体に支えられた本書では、『古事記伝』・『あしわけをぶね』・『石上私淑言』・『秘本玉くしげ』などのテクストをめぐり、宣長自身が紡ぎ出す〈始原の言葉〉を導きの糸として、注釈=解釈する宣長の姿を素描し、その幾重にも織り込まれた思想的位相とその主題へと我々を誘う。『古事記伝』と「もののあはれ」をめぐる「読み」によって、次第に明らかにされる〈反復の形式〉の発見という事態と、注釈=解釈を介在することで〈差異〉を生み出していく宣長の思考。それはいまや失われた起源を取り戻すために、どのように「世界を再-結集」しようとするのかという、一八世紀後半における徳川日本の危機意識を解読する重要な契機として本書において提示される。

もう一つの本書の意義は、大胆ながらもフッサール現象学的還元という方法論を導入することで、従来の思想史研究で繰り返されてきた、イデオロギー批判になりがちな研究とは意識的に一定の距離を置いていることにあるだろう。本書は宣長自身の「生」における内的体験の把握を試み、思想史の新たな地平を切り開こうとしている。

本書が興味深いのは、有名な「天地初発之時」という『古事記伝』で語り出される「ア・メ・ツ・チ」という〈始まり〉こそが、神的な〈始原〉へと向かう体験の淵源として照射されているという指摘である。本書はそこに「国民以前」の時代におけるナショナリズム生成の磁場を読み取る。重要なのはこの「ア・メ・ツ・チ」の発見こそ、宣長の「生」への純粋なる驚きであると同時に、「もののあはれ」という歌学と源氏物語論によって開かれる情動をめぐる思考へと、接続していくものとして把握していることだろう。従来の宣長研究においては、歌道論と古道論とが互いに分離され、生産的ではない議論を繰り返してきたが、本書は綿密なテクスト分析によって、長年のアポリアへの斬新なまでの挑戦を行おうとしている。

とりわけ歌論をめぐる考察では、暗誦と模倣の身体化された言語実践の下で、習慣化されていく〈反復の形式〉を検討すると同時に、「情」と「辞」をめぐる思考を見通すなかで、言語論と古道論との分岐と、〈死〉という宣長歌論の隠れた主題を浮かび上がらせる。つまり、宣長歌論の思想的主題は、「もののあはれ」という情動と錯綜しながらも、一貫として〈生〉を見つめていたという一点に尽きるだろう。

このような意欲に満ちた本書は、「宣長を読む」ことで、〈日本〉という情動につねに誘おうとする〈円環〉と対峙しながら、〈始原の言葉〉と〈反復の形式〉という視座により、出口のない〈円環〉からの脱出への新たな指標を提示している。宣長という思想史のアポリアを突破しようとする、本書の意欲は高く評価されるべきであろう。一読を薦める次第である。