コーリー.О『キルケゴール』(2)

無垢の状態にあって、永遠的なものと時間的なものとが「永遠の現在」のうちで合わさるわけではあるが、そうだとするとこの両者は、瞬間が関係の表現のあるような関係の措定を貫いてはじめて実質的な総合のうちに入ってくることになる。……瞬間とは総合そのものであるが、しかしその総合は、時間を「時間の充実」と規定するキリスト教の出現をもってはじめて現実的で具体的なものとなるのである。つまりそれは、総合が実現されることになるということと、〔もうひとつは、〕時間がその不明確さを克服し、時間の諸相を生ける現在のうちに結集して、この有限の時間となるというように時間が質的に変化することになるということ、この二つの点からみてそういえるのである。(p95-p96)