キルケゴール.S『現代の批判』(2)

公衆は、ひとつの国民でも、ひとつの世代でも、ひとつの同時代でも、ひとつの社会でも、この特定の人々でもない。これらはすべて、具体的なものであってこそ、その本来の姿で存在するのだからである。まったく、公衆に属する人はだれ一人、それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。一日のうちの幾時間かは、彼はおそらく公衆に属する一人であろう。つまり、ひとがなにものでもない時間には、である。というのは、彼の本来の姿である特定のものであるような時間には、彼は公衆に属していないからである。このような人たちから、すなわち、彼らがなにものでもないような瞬間における諸個人から成り立っている公衆というやつは、なにかある奇怪なもの、すべての人であってなんぴとでもない抽象的な荒野であり真空帯なのだ。(p77-p78)