喜田貞吉と部落史の〈起源〉―「部落起源」論の生成-―

 

 

1.      本稿の課題

 

 従来の「部落史」研究における通史的叙述、あるいは現在の「同和教育」の場で一般的と思われる「部落史」のイメージは、次のようなものだろう。すなわち、徳川幕府の独断的な権力が、当時における人口の九割を占めていた農民の不満をそらす目的で、エタ・カワタと呼ばれる身分を、「士農工商」の身分制度の下に新たに作った。さらに幕府は、農民に対して「上見て暮らすな下見て暮らせ」と教え、より低い身分に置かれたエタ・カワタの人々への苛烈な差別が行われるようになった。そのような差別的状況を打破するために、エタ・カワタ身分の人々は「渋染一揆」などの事件を起こし、権力への「抵抗」を行った。現在では「同和事業」の推進によって、「部落」における人々の生活は改善されているが、結婚や就職などの形で、今でも「差別」を受け続けている。我々は高い人権意識をもって、「同和問題」に取り組むべきであろう――と。

 

「部落史」の通史を物語風にして語るならば、このようなストーリーが頭に思い浮かぶのではないだろうか。しかしながら近年では、かかる「部落史」の叙述、ことに「部落起源」論に対しては様々な批判がなされており、その枠組み自体の〈見直し〉が議論されている状況である。その〈見直し〉の一端を担っているのが、畑中敏之氏が提示した一連の研究であることは間違いないであろう[1]。畑中は従来における「部落史」叙述の問題性を「部落起源」論に求め、次のような問題提起をしている。

 

「部落の起源」論は、まるで固有の民族として存在するかのように、「部落民」を歴史に登場(固定)させることに大きな役割を果たしてきたと言わねばならない。地縁・血縁で歴史を遡ることができるというように考えること自体が、そのような「部落民」=民族の存在を前提としたものである[2]

 

本稿ではこのような畑中の問題提起を受けて、長年にわたって「部落史」という歴史叙述を規定してきた、「部落起源」論に対する批判的視座の構築を試みることを一つの課題とする。同時にこの問いは、「部落起源」論を基盤とする「部落史」叙述が、どこから生成し、どのように展開したのか、という問題を内部に抱えているように思われる。それは、「部落起源」論の〈生成〉自体が、「部落史」叙述の〈起源〉として、考察されなければならないということを意味しているだろう。つまり本稿は、〈起源〉をめぐって二重の問いかけを行うものであるといえよう。

 

以上のように考えれば、喜田貞吉18871939)という歴史家の史学史的意義を看過するわけにはいかないだろう。なぜなら喜田こそが、近代日本において初めて体系的に「部落史」の叙述を試みた人物であり、後述するように、そこで形成された枠組みが、現在にいたるまでの「部落史」叙述のあり方を規定してきたと考えられるからである。本稿では、喜田以前の「部落史」叙述を整理し、次いで喜田貞吉が確立しようとした、「部落史」の枠組みへの問い直しを試みる。そして、喜田によって構築された「部落史」叙述が、いかに継承され、変容していったのかという点を、戦後「部落史」研究までを射程に入れて検討してみたい。

 

 

2.      喜田貞吉以前の「部落起源」論

 

 喜田貞吉が本格的に「部落史」研究に携わる以前、「部落」や「部落民」はどのように捉えられ、どのような「部落史」が叙述されていたのだろうか。ここでは、喜田以前もしくは同時期に「部落」に関して発言した代表的人物を取り上げ、その「部落起源」論について、若干の検討を試みてみたい。具体的には、柳瀬勁介・大江卓・菊池(きくち)山哉(さんさい)の言説を分析する。

 明治維新以後、「部落差別」に対して、その誤謬を解いて「啓蒙」する目的で発言した人物に、柳瀬勁介(18481901)という法学徒がいた。二八歳で夭折した彼の遺著となったのが、没後まもなく刊行された『社会外の社会―穢多非人』(1901)であった。

 

柳瀬は次のような言葉で本書を書き出している。「維新変革の甚だき古来未だ曽て聞かざる所、自由の盛観此の如く引かえ独り彼等の境遇依然として革たまらず、室に入り席を並ぶるも許せざるは抑々何ぞや」[3]と。柳瀬は十九歳の時、教師として「部落」の小学校に赴任しており、そのことが柳瀬にとって「部落問題」を考える発端となったことは、想像に難くないだろう。そこでの教師としての自らの体験から、柳瀬は「部落起源」を探ろうとするのである。柳瀬は次のような自説を展開している。

 

  思うにえた起源は(・・・・・・)所謂「餌取」なるものに存し之れに諸種の原因を加えて今日のえたと称するものとなれるは蓋し争うべからざる事実の証明する所なるが如し。故に其淵源には餌取の族もあるべく、又降伏者も含まれるべく、又犯罪落魄の徒も編まれたるべし[4]

 

つまり柳瀬は「部落民」の〈起源〉について、「餌取」にその淵源を求める説に犯罪人や社会的落伍者を重ね合わせることで説明するのである。では、なぜ「部落民」は差別されるのか。柳瀬は次のように主張する。「思うにえた擯斥せられたるは其職業に存らずして別に其因あり。何ぞや、蓋し仏教伝来後忌穢の遺風を謬伝したると、殺生肉食を嫌悪したるとは確かに彼等擯斥の大根底となりたり」[5]と。このように柳瀬は、「部落起源」を、「餌取」と様々な「社会的落伍者」が合流したことに求め、さらに仏教のケガレ観念を「部落差別」の淵源として語るのである。

 

しかしながら柳瀬は、差別の誤謬を訴えるだけでなく、「部落民の救済」を考えた〈啓蒙思想家〉でもあった。柳瀬は、差別の原因となる外部から忌避される習慣を「改善」しなければならないと考え、彼らの「道徳智識品格」を高めるための「救済策」を構想する。その具体的な案として、「新平民部落」に対する布教、「慈善小学校」の建設、「新平民救護会」の設立などを挙げているが、柳瀬の「救済策」の眼目は、「部落民」の台湾移住計画にこそあるだろう。柳瀬は次のように自らの構想を披瀝している。

 

 彼等が取るべき唯一無上の針路とは何ぞ。住居(或は部落)の移転即是なり。(・・・・・・)現下の形勢を察するに戦勝の結果として台湾一島は我が版図に入り、我が民族を繁殖すべき地歩を占めたり。是れ吾輩の望を属する所にして、幸に適当なる区画を得て年々二三村落若くは五六村落を移住せしめば、彼等が救済を得る勿論、国家も亦た之に依て南門の鎖鑰に用る所あるべし。(・・・・・・)吾輩が台湾に嘱望する所以は主として此れに由る[6]

 

つまり柳瀬は「部落民」たちの習慣を「改善」するには、海外移住が最善の方策だと考えていたのである[7]。事実、柳瀬は日清戦争によって植民地となった直後の台湾へ赴き、「部落民」たちが生活できる土地を探していた。結局、柳瀬は台湾で伝染病により亡くなるのだが、柳瀬が夢想した「部落民救済策」としての台湾移住計画は、近代日本における帝国主義的膨張の開始と奇しくも重なり合うのである。

 

 大江卓(18471921)は、明治初年の民部省への「穢多・非人」の称号廃止を求める建白書の提出や、大正期に部落問題解決のための融和運動を起こし、その中心的組織であった帝国公道会を設立した人物として知られている。大江の「部落起源」論や「部落」観は、喜田貞吉が中心となって発行していた雑誌『民族と歴史』の第二巻一号(1919)、いわゆる『特殊部落研究号』に掲載されている「穢多非人称号廃止の顛末を述べて穢多の起源に及ぶ」という論文に端的に表れている。

 

 大江はその中で、奈良にある洞村の先祖は「はふり」と呼ばれる人々であり、その人々の遠い祖先はヘブライ人であるとする。そのヘブライ人たちが自らの土地を追われるのに従って各地に散逸し、その一部のグループが日本に漂着したのではないか、という推測を立てる。また大江は、彼らこそが日本で最初の居住者であるとし、天孫民族の征服によって再び土地を失った彼らが、生きる手段として墓守などの賤業に就いたのが「穢多」の起源になったと説明している。

 

 このように大江は、「部落起源」を「異民族起源説」として唱えるのであるが、では大江における「部落」認識とはいかなるものであったのか。それは米騒動に対して示した見解を検討すれば明らかになろう。大江は次のように自らの見解を述べている。

 

  (米騒動の時に――引用者注)部落民が騒いだと言いながら、日本全国の人口の比例に於て部落民は少なくとも五十分の一に居り、そして騒擾に加入したものは殆ど比較にならぬ程の少数であるから、これは部落民が騒いだのではない、日本の人民が騒いだのであって、部落民は割合に温和しかったと言われるのである。けれども彼等は満腔の不平を有って居るのであるから、将来と雖も何か事があったならば、彼等は必ず騒擾に加わるべき勢が毎日々々強く、熱くなりつつあるのである。社会政策を以て任ずるものは余程注意せなければならぬものである[8]

 

部落民」は「満腔の不平」を日常において強く持っているから、将来彼等がいついかなる場所で暴動を起こすかわからない。故に「部落民」に対しては社会政策上の処置が必要不可欠である論理と、大江の「異民族起源説」との一致は、周知のように、近代日本において「部落差別」を正当化するためのレトリックなのである。それはまた、大日本帝国という近代国家が「部落問題」を、「社会政策」上の問題として正面から認識し始めたことと無関係ではないだろう。

 

最後に取り上げたいのは、菊池山(きくちさん)(さい)18901966)という在野の歴史家である。菊池は1923(大正12)年に、『穢多族に関する研究』と題した研究書を自費出版した。この書については、長らく差別図書ゆえに絶版になったという見方が強かったが、菊池自身の言葉によると、内務省から国家の安寧秩序を紊乱する書に指定され発禁処分になったというのが真相のようである[9]

 

本書は、坪井正五郎18631913)が唱えた、先史時代における日本の先住民はアイヌではなく、コロボックルと呼ばれた人種が存在したのではないか、とするいわゆるコロボックル説に多大な影響を受けている。すなわち本書はアイヌ以前の先住民とは何者か、ということを主題にしているのだ。しかし、菊池が先住民に興味を示す契機となったのは、ある「部落」を訪ねたときの衝撃からであった。菊池はある集落の人たちは「筋が悪い」ことを聞き、そのことを不思議に思って訪ねてみた。そして次のような感想を抱いた。「山人が山人らしく風俗に生活に異常があって、里人から疎まれるならば、日本の国は広いで済んだかも知れないのであるが、打ち見た処では何でもない、そして其処の山人のみ里人から差別を附けられるゝのは、之は何か仔細が無くてはならぬ」[10]と。その「衝撃」から、菊池は「部落民」とコロボックル説との接点を見出そうとし、彼らの「部落起源」を考えるのである。

 

菊池の主張する「起源」説は大まかにいえば次のようなものである。菊池はサハリンに居住しているオロッコ族が自らを「イエッタ」と呼んでいることに着目し、「エタ」という名称は従来いわれていたような「餌取」が訛ったものではなく、「イエッタ」が訛って「エタ」になったのではないか、という説を主張する。そのオロッコ族こそ、菊池は坪井が唱えたコロボックルに他ならないと説明する。それならば、先住民であったはずのコロボックル=オロッコ族は、日本のどこへ消えてしまったのか。菊池はその後の行方を三つに分けて考えている。一つは、東北の蝦夷として残った潮流、もう一つは里や村と交わらないで山人として生きてきた潮流、そして最後が「部落民」の流れであると。

 

このようにみれば、菊池の「部落起源論」は、大江の「異民族起源説」と同様であることは明らかである。興味深いのは、このような説を唱えた菊池に対して、喜田貞吉は危機感を抱き、『民族と歴史』の継承後誌である『社会史研究』で全誌をあげて、ネガティヴ・キャンペーンを予定していたという事実である[11]

ここまで「啓蒙思想家」の柳瀬勁介、「融和運動家」の大江卓、「在野歴史家」の菊池山哉における、「部落起源論」を概観した。これらは、論調に多少のズレはあっても、「部落起源」を問う文脈では、同工異曲であり、そのような「部落起源」の連続性のもとにより「部落民」を把握する、という点においても大きな変化がないことが理解できる。また見逃してならないのは、このような諸説が社会的通念として流布していた、という喜田を取り巻いていていた状況である。喜田はそれらの「部落起源論」を脱却し、従来の官学アカデミズム内部では顧みられることがなかった、「部落史」という新たな歴史叙述の確立を試みるのである。

 

 

3.      喜田貞吉における「部落史」の叙述

 

 喜田貞吉は、自叙伝の中で「部落史」研究の動機について、「当時すでに多少とも社会の問題となり、これが改善が叫ばれていたいわゆる特殊部落の何ものなるかを、歴史的に調べてみたい」[12]と記し、また当時の通説であった「異民族起源説」については、「少年時代から親しくそれらの人々と接触交際する機会が多かったためか、直感的にどうもそうとは考えなかった」[13]と述べている。このような自らの体験と重ね合わせながら、喜田は「部落史」を叙述していくのである。

 

 周知のように、喜田が書いた「部落史」関係の論文はかなりの数にのぼるが、その執筆作業は、種々雑多な説が混在していた「部落起源論」の叙述を独自の切り口から整理しようとする試みだったといえる。では、喜田はいかなる「部落史」を構想したのか。そのことを明らかにするために、喜田における代表的論文ともいえる「賤民概説」を繙くことで概観してみたい。

 

 まず緒言で、喜田は「賤民」の定義づけをする。喜田は「良」と「賤」の区別について、「何をもってその境界とするかについては、時代によってもとより一様ではない」[14]とし、「要はただその当時の社会のみるところ、普通民の地位以下に置かれたもの」[15]という意味で「賤民」概念を用いている。そのうえで、喜田の構想する「部落史」を整理すれば、次のようになるだろう。

 

 古代日本における社会的階級は、主に貴族、良民、奴婢の三階級に分かれていた。しかし「大化の改新」が起こり、良民は農民のみに限定されるようになり、彼らは「オオミタカラ」と呼ばれ、国家の保護を受けていた。一方、賤民階級は五色の賤などの制度により、さらに分断化が進められた。しかし、これらの古代賤民たちの「起源」は、必ずしも全てが「異民族」に由来するものではなく、仮にそうだとしても、「決してそのすべてが賤民として待遇せられたのではない」[16]。つまり喜田によれば、古代賤民が受けた差別の問題は、「単に境遇の問題上の問題で、決して民族上の問題ではなかった」[17]のである。

 平安時代になると、地方政治は混乱し、それが原因となって、律令制国家の下では賤民身分であった人々の中から、力をつけてきた者たちが武士という新階級を生み出した。逆に浮浪民と呼ばれる新たな賤民の存在が歴史に登場してきた。喜田は歴史というものを、常に新しい社会階級を生み出すものであると捉え、賤民という階級的存在も時代ごとに「新陳代謝が行われて、古い賤民が消えて行って、新しい賤民が起こってくる」[18]ものと認識していた。平安時代は、古代賤民的性格が大きく変質を遂げていく時代であると、喜田は位置づけている。

 中世以降には非人と呼ばれる賤民たちが勃興してくる、と喜田は論じる。基本的に生産者ではない彼らは、遊芸や念仏を唱えることで食を乞い、あるいは職人・警護人・掃除などの職業につき、その居住地や職業から、「河原者」・「皮太」と呼ばれるようになった。さらに仏教の蝕穢思想の影響により、人が忌む職業に従事している人々に対して、「穢れ多き者」という意味で、「エタ」という呼称が使われるようになった。中世までは賤民の区分というものが明確ではなかったが、江戸時代に入ると、幕府はエタと非人に明確な形で線を引き、屠殺や皮細工などの職業を生業としていた人々をエタとした。幕府は彼らに対して過酷な差別を行い、居住地域まで限定させて、「部落」を形成せざるを得ないような立場にまで追い込んだ。明治初年に出された「賤民解放令」以後も、エタの流れを引く「部落民」の人々に対する差別は続いている――と。

 

 以上のように概観すればわかるように、喜田における「部落史」の特色は、「部落民」の成立をその時代ごとの「社会上の境遇」に求めたところにあるといえよう。その考えの根底は、「社会は常住不変のものではない。常に新陳代謝して新しいものへと代っていく」[19]という喜田自身が抱いていた歴史像が基盤となっていることは明らかであろう。

 

 このように喜田は、「部落史」を古代から連綿と続いてきた「血統」の問題に収斂させるのではなく、時代ごとにおける「社会的境遇」によって派生してきた問題として、「部落史」を捉える。そのような叙述方法や視座は、「部落起源論」の根強い当時では画期的なものであったが、喜田の「部落史」叙述そのものに関しては、当時流行していた社会ダーウィニズムの思想が介在していることは否定できないように思われる[20]

 喜田貞吉の「部落史」研究以降、水平社の設立などを契機として、「部落史」研究が盛んに行われるようになる。では、喜田以後の「部落史」研究は、喜田が提示した視点の何を継承しようとしたのだろうか。次節ではその問題を追っていくことにしたい。

 

4.      喜田以降の「部落史」研究

 

 喜田貞吉以降の「部落史」研究は、何を継承したのだろうか。そのことを明らかにする具体的な題材として、高橋貞樹の『特殊部落一千年史』、そして戦後の「部落史」研究に影響を与えた、北原・高桑論争を取り上げてみたい。

 

 高橋貞樹190535)は、マルクス主義の理論を「部落解放」に援用した研究者であり、また初期水平社運動の活動家として広く知られている。周知のように、高橋の主著ともいえるのが、『特殊部落一千年史』(1924)である。本書から、喜田貞吉の「部落史」研究の継承のあり方を考察してみたい。

 

 高橋はその緒言で「本書は特殊部落一千年の歴史を統一的に記述し、水平運動が如何に歴史必然の行程であったかを示さんとする試み」[21]であると述べ、また「部落史」とは、「実に征服者の歴史に対する、血の最後の滴りをも搾取せられたる歴史」[22]と規定する。すなわち本書は、まさしく「部落民」の虐げられてきた「一千年」の歴史を描写することに主眼が置かれているのである。高橋が構想する「部落史」の歴史区分とは次のようなものである。

 

  部落民一千年の区画は、先ず宗教的感情から遂に職業賤視を来した第一期と法制上にも明白に虐待された第二期と、完全なる社会的な迷信として存続する第三期とに分れる。第一期は発生時代から形成時代に至る永い期間で、戦国時代の終わりを以って第二期に入る。第二期は特殊部落の制度の闇黒時代で、徳川の封建治下に無理な虐待に苦しむのである。そして明治四年は第三期の画線である[23]

 

高橋は「部落起源」を、「恐らくは古代の被征服民族にして賤業を課せられた奴隷が時代の経過と共に一定特殊の社会群に変じ、更に賤業を営むものが穢多族であるという観念に変ったものであろうと思惟する」[24]として、古代賤民に求めるのである。このように古代賤民から書き起こし、近世期のエタ・非人身分までを「部落史」として論じる叙述方法は、喜田のプロットを継承しようとしたものであるといえよう。しかしながら、「血統」の問題に収斂させるのではなく、時代ごとにおける「社会的境遇」によって派生してきた問題として、「部落史」を捉えた喜田の方法は、完全に捨象され、「古代の奴隷群が部落の本源であることは変わらぬ」[25]と述べるように、古代賤民起源説に固執してしまうのである。高橋における「部落史」の論理の問題性は、その活動を担った初期水平社運動が同時に孕んでいた問題性でもあった。

 

喜田は「血統」に収斂することのない、「社会上の境遇」という論理で、「部落史」を叙述しようとしたが、高橋は連綿と続く「部落民」の「血統」論として読み換えたのである。このような高橋の理論は、戦後における水平社への高評価と相俟って、一定の影響を与えるのである。

 

それでは、戦後の「部落史」研究は、「部落起源論」をどのように捉えたのであろうか。周知のように、「部落史」という研究分野は、部落解放運動を伴う形で成立したものである。ここでは、戦後の「部落史」研究の胎動期に当たる四〇年後半から五〇年代にかける時期に焦点を当てながら考察を進めていきたい。その中心になったのは、北原・高桑論争である。

 

北原・高桑論争は、北原泰作が著した『屈辱と解放の歴史』(1950)が発端となり、高桑末秀と井上清を巻き込んだ形で展開された論争であり、以後の「部落問題」における理論・運動の両側面に多大な影響を与えたものである。その中で最も物議を醸したのは、北原の次のような発言だった。

 

 未解放部落民もほかのすべての社会階級とおなじように、歴史の一定の時代における生産関係にもとずいて発生し、次の時代に成長し、さらに次の時代には消滅するということである。(・・・・・・)明治維新後の現代は衰えゆく時代であるといえるであろう[26]

 

この北原の発言に対して、高桑は、「明治維新後の現在は、『消滅』または『衰えゆく』時期であるとしていることは理屈にあわない」[27]と批判をした。しかし高桑は、「日本における部落民の差別と諸外国におけるユダヤ人問題、ネグロ問題とは似ているが、本質的に別個の問題であるという考え方は、木を見て森を見ないたぐい」[28]であると述べているように、人種差別と部落問題を同列に把握してしまったため、北原に対する根源的な批判はできなかった。この論争と関る形で登場したのが、井上清のいわゆる「三位一体」説であった。

 

井上は、「部落起源」を「『賤民』の起源が奴隷制社会にさかのぼるにしても、それが他の社会とわけへだてられた部落を形成したのは、部落民の社会的系譜の始祖が奴隷一般にあったのではなくて、日本古代の特殊奴隷である手工業民にあったのではないか」[29]と古代の手工業民に系譜を求める。さらに「賤業」については、「職業起源説が数百年来となえられるほど、それほど特定の職業が特定の身分とかたくむすびついていることが問題」[30]であることを指摘したうえで、井上は「三位一体」説を主張するのである。

 

 こうした差別された身分と職業と地域とが、たがいに分つことのできない一体のものとして、三者が相互に原因となり結果となりあって、江戸時代の中期までにどうにもならない部落・部落民がつくりあげられた。明治維新も、その後の資本主義も、ついにこの不幸な三位一体を解消できないでいる[31]

 

 井上が説く、「身分」・「職業」・「地域」との結合の所産として、「部落民」を規定する「三位一体」説は、「部落民」とは「封建遺制」の産物であり、固定化された階級として存続させられてきたと捉える視点を開示してしまうのである。井上における「三位一体」説は、畑中が指摘するように、「『階級関係』の一面的な強調」[32]へとその後の研究を導いてしまうのである。

 

 以上のように概観すれば、戦後「部落史」研究は、高橋貞樹が唱えた古代から連綿と続く「血統」神話を継承し、「階級関係」を加味することにより、「宿命の歴史」を叙述してきたとはいえないだろうか。こうして「部落民とは誰か」という論理を孕みながら、「部落史」は紡がれてきたと言えよう。

 

 

5.      おわりに

 

ここまで、喜田貞吉を軸にして、「部落起源論」と「部落史」叙述のあり方を考察してきた。本稿では喜田貞吉が提起した視点を、「部落史」研究はどこまで受け止めてきたか、ということである。確かに近年の研究において、喜田貞吉の「民族」概念や「日鮮同祖論」などの批判的検証がなされている。それに関しては概ね妥当な見解であろう。

 

しかしながら、喜田貞吉という歴史家を分析するには、少なくとも喜田における広範囲にわたる研究分野がどのようなパラダイムを孕んでい、ということを解きほぐすことも重要ではなかろうか。とりわけ本稿では、「部落史」研究との関係のなかで、喜田貞吉を定位する拙い試みであったといえよう

 

(『日本思想史研究会会報』20号、2003年。pp383pp392)

 

文責:岩根卓史


[1]畑中敏之『「部落史」を問う』兵庫部落問題研究所、1993年。同『「部落史」の終わり』かもがわ出版1995年。同「『部落史』の陥穽」、『現代思想19992月号所収などを参照。

[2]畑中前掲論文。

[3]柳瀬勁介『社会外の社会―穢多非人』世界文庫、1974年。3頁。なお、本稿における史料の引用は、適宜現代かな使いに改めた。

[4]同前、31頁。

[5]同前、78頁。

[6]同前、9495頁。

[7]部落民改善」のために海外移住論を唱える論調は、他に杉浦重剛「樊噲夢物語」(1878)や南部露庵「教育私考」(1902)などがあり、明治維新期から日清戦争前後の時期にかけて、しばしばみられる。

[8]喜田貞吉『特殊部落研究号』世界文庫、1968年。238頁。

[9]この経緯については、礫川全次「蘇る先住民研究」、菊池山哉『先住民族と穢多族の研究』解題、批評社1995年に詳しい。

[10]前掲書、5頁。

[11]喜田は「学窓日誌」の中で、「時節柄思い切った題号であるのみならず、その内容もかの人々の最も嫌がるところの、ことに差別撤廃の思想の上にも少なからぬ障礙を為すべき虞れあるところの、『本来筋が違うものだ』という結論になっているものらしい。困ったものが出たと思った」という感想を漏らしている。『喜田貞吉著作集』(以下、『著作集』と略す)第13巻、平凡社1979年。564頁。

[12]著作集』第14巻、170頁。

[13]同前。

[14]著作集』第10巻、56頁。

[15]同前、6頁。

[16]同前、11頁。

[17]同前、10頁。

[18]同前、2425頁。

[19]同前、78頁。

[20]今西一は、喜田貞吉の「部落史」叙述のあり方に関して、「血統」の論理が介在していることを示唆している。今西一『国民国家とマイノリティ』、日本評論社2000年。また、喜田貞吉と社会ダーウィニズムの関係については、田中聡「喜田貞吉と部落史研究」、『部落問題研究』113号、1991年に詳しい。

[21]高橋貞樹『特殊部落一千年史』、世界文庫、1968年。1頁。

[22]同前、2頁。

[23]同前、6頁。

[24]同前、26頁。

[25]同前、78頁。

[26]北原泰作『屈辱と解放の歴史』、北大路書房、1950年。25頁。

[27]高桑末秀「部落解放理論の停滞と混乱」、『部落問題』15号、1950年。

[28]同前。

[29]井上清「部落解放理論と部落史の課題」、『部落問題』18号、1950年。

[30]同前。

[31]同前。

[32]畑中前掲書、143頁。