読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

 イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(4)

レジュメ

興味のある方は、PDFファイルでダウンロードしてください。

【担当範囲】

第8章「国語」ということばの新しさ

第9章「日本語」と「国語」のはざま

第11章「国語」と言語的公共性

◎ 第8章「国語」ということばの新しさ

柳田が「新しい漢語」というときの「新しさ」は、明治時代に新たな意味を負わされた漢語に感じられる独特な感触であったろう。つまり、「国語」の「新しさ」は、明治という時代の「新しさ」でもあったわけである。(p177)

今でいう「国語科」にあたるのは、小学校令では「読書」「作文」「習字」、中学校令では「国語及漢文」であって、小学校にも中学校にも「国語」という科目が定められたわけではなかった。ただし、師範学校令によって、尋常師範学校では「国語」という教化が「漢文」とは別に定められてはいた。ちなみに、小学校で「国語」という教科がはじめて登場するのは、一九〇〇年の小学校令改正のときである。(p178)

翻訳語として用いられたという事実と翻訳語として意識されていたこと、つまり言語使用と言語認識は別のレベルに属する。逆説なことに、「国語」の新しさとは、翻訳語としての新しさではない。むしろ逆に、「国語」がlanguageの翻訳語であることが忘れられていくことに、「国語」の新しさが出現する地盤があった。(p179)

つまり、「日本語」は「世界の一つの言語」でしかないが、「国語」となると、それを母語とする人間にしか理解しえない微妙ななにかが込められていることになる。……この母語母語話者の関係は、あらゆる言語にあてはまるものであって、とくに日本語だけがもつ独特な種類のものではない。ところが「国語」という言い方をしたときに、他のさまざまな言語のすがたが視野から消えてしまう。このことが最大の問題なのである。(p186)

◎ 第9章 「日本語」と「国語」のはざま

一九四一から四ニ年にかけて朝日新聞社が刊行した『国語文化講座』全六巻は、戦前の言語問題についての議論を総決算した趣のある論集である……そこに掲載された論文の題名をみると、「国語教育」か「日本語教育」かで対象がふたつに分かれていることがわかる。つまり、「外地」「台湾」「朝鮮」「南洋諸島」「留学生」「第二世」(海外の日本人移民二世)に対しては、「国語教育」であり、「関東州」「東亜共栄圏」「満州国」「蒙彊」「中華民国」に対しては「日本語教育」である。大ざっぱにいえば、大日本帝国の領土内の地域に対して行われるのが「国語教育」ということになる。つまり、「国語/日本語を分ける分割線は、政治的領土であるか否かという点にある。(p191)

むしろ問題にすべきは、戦後に時枝は「国語学」が「便宜的な名称」であるとは、一言も口にしなくなることである。つまり、戦後に時枝は、かつて一瞬ちかづいた「帝国的」な言説の場所から「国民的」な場所へと立ち戻ったのではないだろうか。そして、この展開のかなめに、植民地朝鮮での言語政策の失敗があったと思われる。(p97)

この問題は時枝にかぎったことではない。つまり、戦後においてこそ日本の言語意識が「国民化」したのであり、こうして戦前の帝国主義の記憶はもみ消され、植民地=「帝国の「外地」」の記憶は、国民のウチにもソトにも回収できない異物として排除されたのである。(p97)

◎ 第11章 「国語」と言語的公共性

「国語=日本国民の母語」という等式は、いまだに疑われてはいない。まるで「日本人」はすべて「国語=日本語を母語」とする定住外国人や、学校教育で日本語を「国語」として強制される外国人の存在をみえないものにしてしまう。「国語」という概念そのものが、日本における「多言語主義」を不可能なものにしているのである。(p213)

英語が第二公用語となろうとなるまいと、英語の通用範囲はますます拡大していくだろう。そして、それと競争するように「国語=日本語」の価値がますます称揚されていくことだろう。しかし、そのときそこから閉め出された多くの言語があることをたえず明示化していかなくてはならない。「日本語=国語」と「英語=グローバリゼーション」 との対立によって覆い隠されてしまった多くのことばが、日本社会で話されていることを一時も忘れてはならない。そして、そうした声を奪われたことばが対抗的公共圏をつくっていくことが、「グローバル/ナショナル」という二極構造を崩していくひとつのきっかけになるだろう。(p230)

【若干のコメント】
今回の報告を一つの核としてあげられるのは、「国語教育」と「外地」をめぐる考察群として捉えることができるだろう。この輪読を終える際に若干のコメントを許されるならば、やはり「言語は国家の根幹である」という帝国主義的な拡大と、ウチ/ソトを分ける「日本語/国語」の分岐点をめぐる考察だったと言える。

本書を通して、興味深い章をあげるならば、「手話」をめぐる一連の考察であろう。楠井氏が指摘するように、何が「ことば」であり、何が「ことばではないのか」という問題自体が、「言語/非言語の境界線を分ける行為自体が持つ政治性・暴力性」に収斂される営為であることは間違いない。本書において、その「閉め出された言語」の象徴的な例として、「手話」に焦点を当てている。それは「ことば」をめぐる〈境界〉が顕在化したとき、「手話」は〈非言語〉として看取されるが、「手話者」にとっては、それ自体が「日常」であり、まぎれもない「ことば」に他ならないのである。その意味で言うならば、〈文字〉と〈音声〉に担保されたものだけが「ことば」であるという視座に対して、疑問をなげかける可能性を示唆している。
「ことば」をめぐる微細な〈差異〉に関して、より深く理解する一助となり、今後もそのようなことを念頭におきながら、やはりイ・ヨンスク氏の以下の問題提起は極めて重要だと思われるので、引用することで今回の輪読を終えたいと思う。

「しかし、そのときそこから閉め出された多くの言語があることをたえず明示化していかなくてはならない。「日本語=国語」と「英語=グローバリゼーション」 との対立によって覆い隠されてしまった多くのことばが、日本社会で話されていることを一時も忘れてはならない。そして、そうした声を奪われたことばが対抗的公共圏をつくっていくことが、「グローバル/ナショナル」という二極構造を崩していくひとつのきっかけになるだろう。」

(「外地」文学研究会報告。2010年3月12日)

文責:岩根卓史