バトラー.J『ジェンダー・トラブル』(3)

わたしが示唆したいのは、フェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説をつうじて機能するときの表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということである。実際フェミニズムに安定した主体があると早まって主張し、それは女という継ぎ目のないカテゴリーだと言った場合、そのようなカテゴリーは受け入れ難いと、あらゆる方面から当然のように拒否されてしまう。このような排除に基づく領域は、たとえそれが解放を目的として作られたものであろうと、結局は、威圧的で規制的な帰結をもたらすものである。事実フェミニズムの内部におこっている分裂や、フェミニズムが表象していると主張しているまさにその「女たち」からフェミニズムに対して皮肉な反発が起こっていることは、アイデンティティの政治に必然的な限界があることを示すものである。フェミニズムが構築する主体の表象範囲を、フェミニズムがさらに拡げられると考えることは、表象の主張自体に構造的な権力が宿ることを考慮に入れていないために、逆にフェミニズムの目標を失敗にさらすという皮肉な結果を生むことになる。この問題は、ただ「戦略的な」目的のために女というカテゴリーに訴えているにすぎないと言って、看過できるものではない。なぜなら戦略はつねに、それが意図している目的を超える意味をもってしまうからだ。この場合では、排除そのものが、意図しないが重大な意味を生むものとなるだろう。安定した主体を提示すべきだという表象/代表の政治の要請に応じることによって、フェミニズムは、ひどく誤った表象/代表をする罪を、みずからに招くことになるのである。(p24)