大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー

 

大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー.pdf - Google ドライブ

 

一.問題の所在

大国隆正(1792ー1871)は、『学統辨論』(1857年成立)の中で次のように述べている。

おのれがかくのごとく、わが学統をもわきまへしも、みな文字のたすけによることなれば、これは学者はまづしりおかでかなはぬことゝおもふにより、いまこの書に文字のおこりをしるしおきて、わが神道狭小ならぬよしを、まづ学者にしらしめおかんとす。*1

かくのごとく、地球上の言語、地球上の文字こと/"\く、わが古伝にみえたる天神・地祇のみはからひにもれざることをしり、外国のことをも集めて大成し、わが固有の神道を万国におしおよぼすなん、わが学統の本意にありける。*2

 本稿の目的は、幕末維新期にかけて活躍した大国隆正の言語論とその思想に焦点を当てて、幕末国学言語論の思想的位相について考察を行うことにある。筆者は以前に書いた拙稿において、いわゆる〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの言語論をめぐり、思想史的分析を行った。*3しかしながら、これまで十分に議論されてきたとは言い難い、〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの思想的位相を追求するには未だ不十分だと考えられる。ここで本稿では以前書いた拙稿を補う形で考察を行いたい。その前にまず問題の所在を明確にするため、これまでなされてきた大国隆正をめぐる先行研究の整理と、研究史をめぐる課題を明らかにしておく必要があるだろう。

周知のように、大国隆正は、福羽美静(1831ー1907)・矢野玄道(1823-1887)・津和野藩藩主・亀井慈藍(1825ー1885)などと共に、明治維新政府における神祇行政に深く関わった人物として知られている。従来の大国隆正の思想に関する研究を鑑みると、桂島宜弘氏が言及するように、幕末維新期の「国学における『政治』と『宗教』のバランスシート」*4を考えるうえで、重要な思想家として議論の俎上に取り上げられてきた人物だと言えよう。また阪本是丸氏は、津和野派・平田派国学者たちによる〈祭教一致〉国家理念の構想と挫折という視点から、明治初年期における国学者たちの思想的動向について明らかにしている。*5さらに近年においては、松浦光修氏によって、大国隆正の伝記的研究も行われており、今までは明らかではなかった思想的来歴について新たな知見が加えられた。*6また新たな形で行われた、『増補大国隆正全集』(国書刊行会、2001年)の編纂事業により、隆正に関わる新史料が翻刻されたのは、注目すべきことであろう。

一方で、隆正の言語論に関する先行研究について検討するならば、その言語論的テクストは埋没しており、史料の掘り起しという基礎的な作業から着手せざるを得ないというのが現状である。このような事情の中でも、隆正における言語論に対して検討を加えたものとして、上西亘氏・井上厚史氏・野口武彦氏らによる研究は、数少ない代表的研究だと言えるだろう。まず、上西亘氏は、隆正における言語論を分析し、「日本語」を見つめ直した思想家として隆正を取り上げており、その思想的な再評価を促す立場から論考を発表している。*7しかしながら、従来の研究において隆正の言語論的テクストが等閑視されたのは、難解ともいえる〈音義〉論的解釈から、その思想的世界を構成していることと無縁ではない。例えば、隆正は『音図神解』(1855年頃成立)や『音図神解総説』(成立年不詳)の中で、次のように述べている。

かたちなきこころには、かたちなき道を得、かたちある身には、かたちある財を「え」て、これを合せて、人は「ふる」ものになん。道は一すぢなれど、いまはさまざまにわかれてあり、仏門に入りて道を「え」んとする人あり。儒門に入りて道を「え」んとする人あり。その儒も仏もまことはわが神道よりわれきたるものなれば、もとの一すぢによるべきなり。神道によらんとするものは、まづ五十音図にてかんがふべし。*8

いま世の人は、いにしへのことばづかひをしらざりし。「わが」といへども我が身ひとつのこととおもふめり。そのこころいやしくなりぬ。いま世の人こころにて古意古言をしらぬことなり。いつらこえは「古事記」・「万葉集」などをひき出して、古意古言をいまの世の人にしらしむべし。*9

このように、隆正は「え」や「わが」という言葉に、〈音義〉論的な視点から独自の解釈を施しており、一見すれば何を主張しているのか理解できないものが多い。次節では、先行研究に即して掘り下げることで、難解ともいえる隆正の言語論的テクストの位置付けに対してその再考を行ってみたい。

 

二.大国隆正の言語論とその〈異様さ〉への再考

隆正は『本学挙要』(1855年成立)において、祝詞のテクストに対して、独自の〈音義〉論的解釈を施している。隆正は次のように言う。

わが本教のうちの本教といふべきものは、天都祝詞太諄詔といふものにて、今神職の人の、いずれのかみの大前にてもとなふる。ト・ホ・カミ・ヱミ・タメ、といふことば、これなり。これに図あり。これを太占の区象をいふ。この区象ばかりあやしく妙なるものはなく、このフトノノリトばかりあはれくすしきものはあらじとぞおもふ。〔中略〕かくのごとくを、漢意とそしるものもあるべし。そはまことの倭魂をしらぬものいふことにて、神道の真は、さるちひさきものにはあらず、日・月・星・地を包、五太州を蔵てもらさぬものならば、西洋・支那の窮理説もなにもかも、これよりいでたるものになん。〔中略〕本と本とはむれば、なに事もこの太卜よりおこれる天地なれば、これにこゝろをとゞめて、人の世にある道をも、これによりてたしかにさとるべきことなん。〔中略〕「ト」を地とし、「ホ」を日とし、「カミ」を神とし、「ヱミ」を人とし、「タメ」を物とす。この五つのうち、「ヱミ」を人にあつるこゝろをとくべし。人は笑てよをわたるをよしとす。笑のこゑは、「アイウエオ」・「ハヒフヘホ」、和合していづるものなり。*10

 隆正は、祝詞の言葉としてとなえられてきた、「ト」・「ホ」・「カミ」・「ヱミ」・「タメ」という五つの言葉を、隆正独自の〈音義〉論的解釈と重ねながら、それらの言葉が人と神が交わる宇宙論的構造を形成しているのだ、と説く。井上厚史氏は、このような隆正における言語論をめぐり、そこに〈国粋主義的言説〉が存在していることを見据えたうえで、次のように言及している。

彼が残した数多くの著作は、今日の私たちが読むにはあまりに荒唐無稽で、また天皇賛美の国粋主義的言説に満ちており、分析をためらわされるほどである。〔中略〕幕末から明治にかけてのこのような国粋主義的言説の分析は、したがって、研究者に分析方法自体を再考させる困難なテクストとして存在している。一九世紀の日本に確かに存在したこの膨大な異様なテクスト群の分析はどのように行われるべきだろうか。*11

井上氏が指摘するように、隆正の言語論的テクスト群について、歴史的な検討を行うには、その〈異様さ〉と向き合いながらテクストを再び読解し、歴史的にそれを位置付けるという解釈の困難性がつきまとっている。本稿の課題の一つには、その〈異様さ〉を再考し、思想的分析としていかなる方法を用いればいいのか、という問題を改めて言語化する作業が必要不可欠である。無論それを〈異様さ〉として退けるのではない仕方で、である。野口武彦氏も、「ポスト篤胤の世代としてこの一時期、言及すべき五十音イデオローグ」*12

 幕末=維新変革期にあたって、倒幕勢力の中で平田派国学が多大な精神的エネルギーを発揮したことはよく知られている。たんに言論活動だけではなく、政治の現場での実行勢力にもなったのである。この一派にとって、明治維新とは日本の近代化ではなくて、王政復古であった。文字どおりの復古をめざして奔走したのである。その理念を支えたイデオロギーの一つが大国隆正の「地球上の万国の総本国」(『新真万国公法論』)であるという皇国観であった〔太字は引用文では傍点だが、ブログでの性格上太字に改めたー筆者注〕。*13

大国隆正という思想家とその言語論を考えるとき、確かにそこにある〈異様さ〉と〈国粋主義的言説〉は、かかるテクスト群の読解を困難にしている。しかしながら、隆正自身は国学者として自分が置かれている状況を把握していた。隆正は自らの思想的位置について、次のように規定している。

今の世の国学者は、考証をむねとするなり。考証はいかにもよきことなり。せではならぬものになん。しかはあれど、考証に大小の差別あり。他の先生たちの考証は、小考証にして、いま隆正がする考証は、天地を考証する考証なり。後世にいたりては、書籍多きにより、いかほども書籍考証なりぬべし。神代の事は外に考証すべきものなし。天地を考証にとるより外はせんかたなきものになん。これにより隆正は、天地を考証にとりていふなり。又外国の古説を考証にとりていふなり。小考証に泥める国学者たちの、隆正が説をききて、考証なしといひ、牽強附会とそしるなるべし。そは考証に大小あることをしらぬ偏見なりけり。*14

隆正は、自らの思想的作業を「いま隆正がする考証は、天地を考証する考証なり」*15と規定したように、単なる荒唐無稽な思想家として見るのではなく、隆正がなした思想的作業そのものが、〈古伝〉論と〈古言〉論、そしてコスモロジーとが重層性を帯びながらも、一体化された議論を展開しているという点において、その思想的位相をめぐり、いかに再考できるか、という視点から捉え直す必要があろう。桂島宜弘氏は次のように指摘している。

隆正自身は「大考証」として豪語したその作業も、しかし対外知識の包摂と言葉の語呂合わせによる神々の秩序の再編成に帰結する作業のものであった。それは宣長の文献考証、篤胤の宗教的神話の再編とも隔たった全くの「方便」の世界として見做し得るが、しかし、これらの作業が明確な目的意識ーー「国の見識」の確定ーーに裏打ちされた者である点に留意するならば、この「方便」の構造こそ問題とされねばならない。*16

確かに一見すれば、隆正の思想は「方便」の世界そのものとしか映らない。しかし一方で、それが「方便」でしかないように見えながらも、今まで埋没してきた言語論的テクストを考えるとき、それが「方便」の世界であるが故に、隆正の思想が同時代において思想的波及性を持ち得たものとも言えるのではなかろうか。そのうえで、本稿における研究史的意義を改めて強調するならば、隆正の言語論は、同時代において〈言語〉をめぐって考察を張りめぐらした国学者たちと、その思想的視座やコスモロジーを共有しながらも、他方で隆正は〈文字〉への固執性を吐露している。この意味において、隆正は他の思想家たちとは一線を画していた。この〈文字〉への固執性こそ、隆正の言語論を読み解く手がかりとなるのだが、その問題はいままで明らかにされてきたとは言い難い。本稿では、かかる問題認識を念頭に置きながら、大国隆正の言語論をめぐる思想的位相について考察を行うものである。その作業は、幕末国学言語論をめぐる微細的読解とその可能性を探る重要な契機ともなるだろう。次節では、隆正の言語論的テクストに迫ることで、その〈古伝〉論と〈古言〉論、そしてコスモロジーと織り重なるように構成された思想をめぐって、思想的検討を加えてみたい。

 

三.〈古伝〉/〈古言〉/コスモロジー

 隆正は、〈古言〉をめぐる学問に対して、自らは若い頃から専心してきた、という〈自己語り〉とも言える、その思想的遍歴を、『活語活法活理抄』(成立年不詳)の中で、次のように語っている。

わが大日本国は、ことだまのさちはふ国なり。たすくる国なり。さらば、かの儒仏にまさる正心誠意平天下の道の。言語につきていふ人のなかりしは。あやしむべきことになん。〔中略〕おのれ隆正をさなきときよりこゝろざしをおこし、わが古言におもひをこらし、己が古事にこゝろつくし、仏にまさる心法。儒にまさる政治の道。西洋にまさる天文窮理数術を。わが大日本国よりおこし。万国の人をこと/"\く、これにしらしめ、ひろく皇基を護りたてまつらんとする〔後略〕。*17

冒頭の引用とも重なるが、隆正自身の〈学統〉認識における思想的淵源に、かかる〈古言〉をめぐる認識が存在していたことは、やはり重要なことだと思われる。

おのれが、かくのごとく、わが学統をわきまえしも、みな文字のたすけによることなれば、文字の起源、言語の理、これらは学者のまづしりおかではかなはぬことゝとおもふにより、いまこの書に文字のおこりをしるしおきて、わが神道の狭小ならぬよしを、まづ学者にしらしめおかんとす。*18

隆正は、「かくのごとく、わが学統のわきまえしも、文字の起源、言語の理、これらは学者のまづしりおかではかなわぬこと」*19と説く。言い換えるならば、隆正は自らを悠久の古代日本から続いている〈古言〉の探求者として自己規定しながら、自らをも正統的な〈系譜〉の中に組み込んでいく思想的作業を行っていたと言えよう。先行研究では、このように自分を大きく見せる傾向がある隆正の議論に対して、荒唐無稽さを読み取るのも無理もないことである。しかしながら、隆正は誹謗中傷を覚悟し、〈山師〉的存在であることを自らが引き受ける形で、その思想を展開していくのである。まず、右のような、隆正が示したイメージについて、我々はどう考えればいいのだろうか。

隆正は自ら提示したイメージについて、次のように説明している。末尾の(図1)と(図2)は、いずれも静嘉堂文庫所蔵の大国隆正『活語活理活法抄』の十丁オと七丁オよりの引用である。

「あ」は、日月星のかかるところ、「い」は囲気の天、「う」は得の字のこころにて、地球の万有これなり。我は他におよぼすを「え」といふ。地球につくを「お」といふ。置く、堕つ、織るなどのことどひこれなり。追ふは地につきて横をめぐるをいふ。押すは地上のみあらず、上下左右にわたる「お」の本義にかなへり。*20

「い」は地球外の囲気をさす。人身にとりては呼吸これなり。「う」は地球上にあたる、又人身にあたる。「いう」は外より入るこころ。「うえ」は内より外によりいづるこころ。この理のちにくわしくとくべし。*21

筆者なりに解釈を加えるならば、隆正が提示した右のようなイメージは、〈古言〉論とコスモロジーとが対応したものだと言えるだろう。最初に提示した図は、「あ」行を万有引力説と地動説とに重ね合わせながら、そこに隆正独自の〈音義〉論的解釈を施しながら、その国学的宇宙像を描写したものである。次の図は前の図と連動しているが、「あ」行における発音と身体と対応させながら、引力の存在とその発生について述べたものである。そのことは、隆正が『三道三欲昇降図説』(成立年不詳)において、次のように語っていることからも明らかだろう。

地球は日輪の引力において運動をなす〈天文の実測は地動の説よりまされるものはなし〉。日輪の引力は伊邪那岐の霊よりおこれる気なり。その証は、人々すこやかなるときは、地につくことをきらひ、伏すより起んことをおもひ、起るより立んことをおもひ、立つより歩行躍など運動して高きにつかんとおもふ。櫓にのぼり山に登りなどしていよいよこころよきものなり。これを生に司りたまふいざなぎの引力、やがて日輪の引力の確証なり。大地はまろきものなるを、地上の万有いづくもいづくも落ちず傾かざるは、地胎の引力による。黄泉国は地胎の幽界なり。いざなみの命、地胎におはしまして殺を司り給ふ。之により人々天頂にひかるる気力、おとろふときは地につかんことをねがふ、これ地胎の引力は、やがていざなみの命の引力にして、殺をつかさどりたまふ神霊よりおこる確証なり。*22

このように、隆正が提示する〈音義〉論と対応したイメージは、隆正が説く〈古伝〉論とも連関している。例えば、『古伝通解』(成立年不詳)では、次のようなイメージを提示している。末尾の(図3)は、『増補大国隆正全集』第六巻(国書刊行会、2001年)からの引用である。

隆正が説いた『古伝通解』は、記紀神話における天地創造の箇所をめぐり、隆正独自の〈音義〉論的解釈を組み込みながら、その意味について説明したものである。これも『活語活理活法抄』と同じく、隆正が描写するイメージとその〈古言〉論を重層的に表現したものだと言える。隆正は次のように述べる。

「くに」にむかひていへる「あめ」は、日球中の核なる「たかまのはら」をいへるものなれど、日球外辺をも合せ、これをかねていへることもあり。又、緯星天の星までをいへることもあり。月の世界をさしていへることもあり。「つち」にむかひていふ「あめ」は、「つち」をもとにしていひ、「くに」にむかひていふ「あめ」は「日」をもとにしていへるものなり。*23

先に引用したイメージについて解釈するならば、隆正は〈高天原〉は実在していることを証明しようと試みたものであり、その実在性は、「あめ」と「つち」、「くに」という言葉を各音に分節化して考察すれば、自ずと明らかになる、ということを説明したものである。このように、隆正の思想的世界は、文章そのものの解釈とイメージと対応させながら、理解しなければならない部分が多い。そのような隆正の思想について端的に表現すれば、やはり〈古言〉論を軸にしながらも、〈古伝〉論とコスモロジーの双方を貫いたものであると言えよう。この意味において、隆正の思想的世界は、同時代における〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの言説とも重なり合う部分が大きい。しかしながら、隆正は、「かくのごとく、地球上の言語、地球上の文字こと/"\く、わが天神・地祇のみはからひにもれざることをしり、外国のことをも集めて大成し、わが固有の神道を万国におしおよぼすなん、わが学統の本意」*24だと語り、誹謗中傷を覚悟のうえで、自らが国学における正統的な〈学統〉に連ねるのに相応しい人物であることを、次のように自己規定している。

おのれは、かの四大人にかけても及ぶべからぬ不才のものなり。しかはあれど、わが子とおもふ門人は、おやと思ふこころより、五祖とあがむものもあるべし。みづからそれにあたるとはおもはねど、四大人のもとがひとつにならんにも、しひてそれにしていふものあれば、いひおくべきことのあるなり。わが学統の大意は、皇統の長くつゞき給ふわが国の国体を主張し、わが大道の基本として、異国の王統をいふ諸説になづまず、わが古伝によりて、幽冥・顕露をわかち、幽冥をおそれて、顕露をつゝしみ、内は忠・孝・貞をたがへず、外は家業につとめて、人に信を失なはず、「本による」・「あひすくふ」といふ十字の訳をまもりて、さてのち、わが神典をよみとき、うたをよみ、わが古言をしり、異国の書をもまじへてよみて、彼我の異同をしるべきなり。天つかみのわが学統をこしらへたまへるは、かくのごとくせさせんためのことなれば、よくこのこゝろを得て、つとめまなぶべきになん。*25

隆正は、「わが神典をよみとき、うたをよみ、わが古言をしり、異国の書をまじへてよみて、彼我の異同をしる」*26ことが可能な人物であると自ら説いている。このような、隆正がなしていく〈古言〉論の再構成とも言えるような思想的視座は、同時代の幕末国学言語論の位相とも隔たりがあるように思われる。例えば、高橋残夢(1775-1851)は、「此言霊皇国に限る事をなど思ひそ。唐土天竺四海に渡りて、言霊なき国あることなし。霊なくして言語の通ふべきならず」*27と唱えたように、〈声の偏在性〉をめぐる議論に重点が置かれていた。しかしながら隆正は言語における「彼我の異同」を語るのである。このような隆正における思想的相貌を、別の角度ーー蘭学における〈言語〉の問題ーーから説き明かしてみたい。

 

四.蘭学と言語的重層性をめぐって

 これまでの先行研究の中で言及されているように、隆正の思想は〈蘭学習合〉と呼ばれることが多く、この点に関して主に対外認識との関係から検討がなされてきた。隆正もそのことを理解していたようで、同時代の人々による隆正の思想が〈蘭学習合〉だという非難に対して、隆正は『神理一貫書』(成立年不詳)の中で、次のような反論を行っている。

世人窮理の旨を解せず。みだりに隆正が理説をそしりて、蘭学習合の神道といふよし。そは皆わが古伝に精しからず、蘭学をしらずしていふなり。蘭学は幽顕をとかず。隆正は幽顕よりときおこす。蘭学は反対をしらず。隆正は反対を主とす。その理説の本はひとしからねども、その末を借り用いることあり。そはかのあたりの人、紙上の空論をきらひ、測量試験の器をつくり、その慮をつくす故、いひあてたることも多ければなり。今の天地をしれることは、唐土人・天竺人よりこよなくすぐれてありけり。彼此を比較するほどの力もなくて、いふ人こそ可笑しけれ。*28

隆正は同時代における非難に対して、それは〈蘭学〉も知りもせずに、〈彼我〉の相違を理解もしないまま、誹謗中傷しているだけである、と反論する。ここでは、蘭学者が直面していた、〈言語〉をめぐる問題について再考し、隆正における〈自他認識〉の在り方を確認する作業を行いたい。前野良沢(1723-1803)は、『管蠡秘言』(1777年成立)の中で、次のように言う。

管を以て天を窺い、蠡を以て海を測り、心を用いて知らざる其の道を窺う。知者は言わず。言者は知らざる。言うべきことは秘せざるにして、秘すことは言外にあり。*29

一に曰く地。二に曰く水。三に曰く火。四に曰く空。夫れ地は大虚空中の一点の塊なり。その形図は玉の如き故に地球と称して、其の大なることを測りて以て知るべきなり。*30

良沢は、〈蘭学〉的方法とは、細い管から天のことを知り、小さい貝から海の大きさを測る。それが蘭学的な〈実測〉のあり方だと述べる。そのうえで、地球球体説に依拠しながら、万物の根源が、古代ギリシャの四元論に基づいていることを説明している。確かに蘭学がもたらした言説と、コスモロジーの衝撃は、幕末思想における〈自他認識〉の変容と転回を有していたといえる。*31しかしながら、それを単なる〈ウェスタン・インパクト〉として捉えるだけでは、現在の研究水準では限界があるように思われる。蘭学者たちがオランダ語に直面したとき、そこには、いくつかの制約があった。まず、江戸においてオランダ語を学習していた蘭学者たちは、長崎のオランダ通詞とは異なり、直接的にオランダ語の会話に触れることは許されず、専ら書物のみによるオランダ語学習に限られていた。しかしながら、その学習行為は、幾多もの言語的重層性を抱え込みながら、はじめて学習が許されるものであった。*32良沢はその困難性について、『和蘭訳荃』(1785年成立)や『蘭語随筆』(成立年不詳)の中で、次のように回想している。

予嘗テ蘭訳荃ヲ著ス。蘭トハ和蘭ヲ省テ言ナリ。其書和蘭字ノ傍ニ国字ノ翻訳切意ヲ記タリ頃間、偶コレヲ思ニ如何ナレバ、則独者ニ宜ク而読ミ写カラズ。何トナレバ、目国字ヲ看、口国字ヲ念、心国字ヲ解ス。乃心目口全ク国字上ニ在テ和蘭之字徒ノ玩具トナル。*33

凡ソ訳家ノ伝ルノ語訳ノ書多クハ長崎ノ方言以テコレヲ記ス故ニ、再ビコレヲ尋ルニ他ノ方言ヲ詳セザル者ニ至テハ、却テ長崎ノ語訳ニ難渋スルコトアリ。故ニ三四ノ訳ヲ経ザレバ通解シ難キコトアリ。畢竟是俗間ノ語ノミヲ以テ其訳ヲ伝ヘ来ル故ナリ。書中ノ雅言文辞ニ至リテハ、予ガ不才ヲ以テスルガ為ニ、絶テ理会シ難キ者多シ。*34

若シ夫倉卒ノ際ニオイテハ、尤失誤多キ者アリ。予「スヽ」ト云ヲ「煤」ト記シタルニ、今詳ニスルニ、「酢」ナリ。「ヤウヤク」ト云ヲ「漸」ト記シテ、今書ニ由テコレヲ詳ニスルニ、「職掌」ノ義ニテイヘルコト、果シテカクノ如クナレバ、訳者ノフモノ、亦所謂重訳ナルモノアリ。*35

良沢が直面した困難とは、長崎のオランダ通詞の翻訳書でさえ、そこに書かれているのは、会話言語としての〈長崎方言〉であり、しかも日常生活の中で使用される〈俗語〉であった、という事態である。言い換えるならば、江戸の蘭学者たちが欲していたような、前近代の世界において通底していた〈文雅〉を帯びた訳語ではなかった、ということである。江戸の蘭学者たちは、それを〈文雅〉の性格を帯びた訳語として、オランダ語から〈和語〉に翻訳しなければならない、という困難に直面していた。これを整理するならば、オランダ語書物と音声学習ーー長崎オランダ通詞による日常言語としての〈長崎方言〉による翻訳ーー江戸の蘭学者たちによる〈文雅〉を帯びた訳語としての〈和語〉という螺旋的な経由を辿ることで、はじめてオランダ語から〈和語〉への翻訳という営為は成り立つのである。この意味において、従来のように、図式的に単純化されたような、蘭学における〈ウェスタン・インパクト〉論と、当時の蘭学者たちが直面していた言語的事態とは乖離があると指摘することが可能であろう。蘭学者たちがもたらした〈自他認識〉の変容と転回も、そこから読み解く必要性があるように考えられる。隆正における〈彼我の異同〉という認識が立ち上げられる契機には、蘭学思想を抜きにしては語れない。隆正は『天都祝詞太詔考』(成立年不詳)や『古伝通解』において、次のように言う。

わが神理をとくに聞きて、和蘭の窮理によることゝ思ふ人は、和蘭の学のしらぬ人のいふことにて、いたくたがへり。天文測量はその測量にしたがひていへど、人類動物の窮理は、わが神典の窮理なり。さらに混るるものにあらず。世人大かた理をしらず。理をいへば唐または蘭の事とおもふなり。それらにまされる理説のわが国にあることをしらぬ人こそつたなけれ。*36

上古の旧説は、神代巻これなり。西洋の新説をとりて、わが上古の旧説に合せてみれば、おのづからあふことおおかり。そはわが旧説は天地の真をつたへたるものにして、今の天地にかなへるものなれば、今の天地をよく考え得たる説には、よくかなふものになん。之によりて思ふに、わが大日本国は上古の旧説をまもりて弊なく、近古の旧説を捨てゝ弊なきくにといふべし。わが上古の旧説よりみれば、西洋の新説またいまだ尽くさゞるところあり。しかはあれど、支那・印度の旧説にまさること遠く、測算の術をつくして、よく天地の真に達したるものなれば、そのかなへるをば択みてとるべきなり。*37

隆正は、「西洋の新説をとりて、わが上古の旧説に合せてみれば、おのづからあふことおおかり」*38と述べるように、かかる隆正における〈蘭学習合〉的な視座が、同時代における非難や誹謗中傷の的になったことは想像に難くない。しかしながら、隆正と〈蘭学〉との関係を考えた場合、そこに横たわっている〈彼我の異同〉の変容と転回という問題が契機となっていることが理解できよう。この意味において、同時代の国学者たちが形成した〈声〉をめぐる〈始原〉と〈生成〉という問題が、国学宇宙論とが絡み合うように形成されていく言説と、隆正が構成していく〈古言〉論とは隔たりがあるように思われる。なぜならば、隆正は〈声〉をめぐる〈始原〉の世界を捨象しながら、一方で〈文字〉への固執性という新たな思想的相貌を現し始めるのである。次節ではこの問題について考察を加えたいと思う。

 

五.大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出できたるものと知られたり」ー

隆正の〈古言〉論は、『ことばのまさみち』(1836年成立)において、既に〈文字〉をめぐる認識という問題に視線が注がれていたことが分かる。隆正は次のように語る。

隆正としごろかたちなき心をかたちのみえぬことばによせ、かんがへたるそのすぢを、かたちある文字にうつし、ちさとの外までも、よろづよの後までもつたへんとかきしるしたるこのふみに、かたどりいだすことばのすぢは、かたちなき神のかしこくつくりおきたまへることを、さとりうわらはもあるべし。*39

隆正は、「かたちなきこころを、かたどりいだすことばのすぢ」*40。つまり、〈文字〉には「かたちなき神」が宿るのだと語る。この意味で隆正は同時代における〈言霊音義派〉の国学者たちに見られたような、〈声〉の生成という問題よりも、〈文字〉を図式化した、〈五十音図〉そのものの神聖性に関心が注がれている。なぜならば、〈五十音図〉とは、隆正においては、言語秩序における絶対的な基準だったからである。隆正は『神理入門用語訣』(成立年不詳)の中で次のように述べている。

今、世に五十音図といふものは、いにしへ言霊といひしものなり。古歌にことたまのさちはふくに、ことたまのたすくるくに、といへるは、この言霊に天地間の神理、ことごとくそなはりて、わが大日本国の神道をたすくる事のあるよしをいへるものになん。*41

このように、隆正は〈声〉の世界を捨象し、〈文字〉の世界を語ることで、宇宙創成において、既に〈五十音図〉はあったのだ、ということを説く。それは隆正が「言葉は後に出てきたるもの」と述べることからも分かるように、言語秩序の問題を価値転倒させているのである。

人はいかがおもふらん。天地ありて後に人あり。人ありて後に声あり。声ありて後に言葉あり。言葉ありて後に五十音図はつくり出せるものと。だれもみなおもふなるべし。隆正おもふにしからず。わが古言のよく五十音図にかなふをみれば、五十音図は本にして、言葉は後に出てきたるものと知られたり。ただその言葉のみにあらず。天地もまた五十音図より後に出てきたるものと知るべきなり。*42

ある人己がこの説をとがめていはば、人ありてこそものをいへ。人といふものなかりし世に。はやく五十音図のありしものとするはきこえぬことなり。隆正いはく。いかにも人といふもの口といふものなかりし。世に五十音図はあるべきよしなし。しかはあれどそは已発の五十音図にして、己がいふ五十音図を未発の五十音図をさしていへるなり。*43

このような、〈五十音図〉をめぐる絶対性の言説から、「未発の五十音図。天地となりて。已発の五十音図をもて。人にこれをいはしむ。これより己が古言よく天地の大理にかなひてあるなり」*44と隆正は言及し、「天地造化の大機関」として、〈五十音図〉の霊妙性について説くのである。隆正は言う。

さて、雅言を古言に比ぶれば、いささかみだりがはしきこと、うちまじりてあれど、おもふこころをくまなくうつしだすには、古言にまされることあり。また雅言にいひとりがたきことを、古言にておもひのほかにやすくいひとらるることもあり。学、古今にわたり、運用自在にして、しかも例格をたがへぬを妙とす。古言・雅言は、おのづから用法、厳に具りて、みだりにすべからぬものなり。その用法を正し、活語の原にさかのぼりて見れば、そくばかりのものになんある。外国の言語には、皇国の活語にあたるものなし。*45

おもふこころをうつしいだすはものは。ことばなり。隆正よは九つのとしおもひけるは、いろはばかり世に尊きものはあらじ。人の出す声を、ことごとくつくしてあるなり。天地の間の事、しかあらんには、このいろは四十七字のこころをだにたづねしらば、世の中のことわりは、つくしつべしとおもひよりぬ。十一のとし、はじめて五十音図かながへしの法をききて、この図いろはにまされることをしり、それよりこの図に心よせて、廿ばかりのころ、ある〈生〉、ある〈有〉、ある〈発〉、同言に初・中・後の分あることにこころづき、これより活語に心をつくし、自分の対格ありて、世の中の道理そなはれることを見出し、いよいよ心をつくして、皇国の古言に、天地造化と契合せる妙理あることをさとりたる。*46

このように、隆正が〈文字〉への固執性を語り出していく契機について再考するならば、それは明らかに〈言語的境界〉を画定していく作業と繋がっていく。この意味において隆正がもたらした思想的帰結は、もはや〈言霊音義派〉の議論を超越し、〈明治日本〉における言語的ナショナリズムが孕んでいた問題を、一面では先取りしていたとも言えるだろう。隆正は次のように語る。 

妙に満・漢・蒙古・朝鮮の言語文字に通じてありしを、大祖統一して、蒙古字をもて満州の言語に合せ、はじめて満文を製し、国中に用ひたりしたり。大祖没して太宗の時にいたり、朝鮮を降し、蒙古をうち、支那にいたりて、世祖ついに漢地・満州・蒙古の三国を併呑せり。されどもその言語をひとつにすることならねば、今も猶詔を下すに、同じことを漢文・満文・蒙古文と三通にかき分けて、其三国にわかち下すなり。これらのことを考へみて、言語の異なるが、やがて国の界なることをさとるべし。この大八島瑞穂国は、外国にきれはなれてつづかぬ国なれば、そのわかちはやならぬここちすれど猶対馬は朝鮮に近くして、朝鮮のことばを用ひず。松前蝦夷とそのことば通はず。これを見ても言語の異なるが国のさかひめなることを覚るべし。*47

 

六.今後の課題

最後に今後の課題に言及することで、本稿を終えたいと思う。本稿では大国隆正における〈古言〉論を通して、従来の先行研究では、幕末維新期における〈政治〉と〈宗教〉という文脈から位置付けがなされてきた傾向が強いこともあり、その再考を試みた。しかしながら、隆正における思想や言語論は、その人物像が顕彰対象になった例はあるにしても、もはや思想的には無意味な存在として、後世においては葬り去られた。この点についてはいまだに検討の余地が残されており、かつそれは、〈明治日本〉から〈帝国日本〉へと変貌していく、歴史的過程と言語的再編という問題とも深く関わるものだと思われる。その意味において、より深い微細的読解が必要な領域であり、慎重を期する必要があると考えられる。筆者はこの意味において、従来の〈近代知〉論だけでは限界があると考えている。同時代における漢詩・和歌・文体を取り巻く状況も、〈言文一致〉運動・〈新体詩〉運動・〈和歌改良〉運動などと連動しながら、国学的言説も同時に再編が行われていた。明治初年期における国学言語論をめぐる思想的状況と歴史分析を軸にしながら検討を深めていく必要があるが、ひとまず本稿の筆を擱き、本稿の是非の判断は読者諸氏に委ねたいと思う。

 

(図1)

 

 

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(図2)

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 (図3)

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【付記】本稿をアスペルガー症候群を抱えている筆者に対して、これまで物心両面にわたって支援していただいた、亡き両親の霊前に捧げたい。

(『日本思想史研究会会報』第31号、2015年1月刊。pp121-pp134。)

文責:岩根卓史

*1:大国隆正『学統辨論』(田原嗣郎・関晃・佐伯有清・芳賀登編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』岩波書店、1973年)。p485。

*2:同前、p492

*3:拙稿「言葉の〈始原〉」とコスモロジーーー幕末国学言語論の思想的位相ーー」(『日本思想史研究会会報』30号、日本思想史研究会、2013年)。

*4:桂島宜弘『増補改訂版 幕末民衆思想の研究』(文理閣、2005年)、第一章「幕末国学の転回と大国隆正の思想」、p55。

*5:阪本是丸『明治維新国学者』(大明堂、1993年)。

*6:松浦光修『大国隆正の研究』(大明堂、2001年)

*7:上西亘「大国隆正の言語学研究序説」(『神道宗教』217号、神道宗教学会、2010年)。

*8:大国隆正『音図神解総説』巻二(学習院大学附属図書館所蔵)、14丁ウ-15丁オ。

*9:大国隆正『音図神解』一ノ上(静嘉堂文庫マイクロフィルム資料)、5丁オー5丁ウ。

*10:大国隆正『本学挙要』上(前掲田原嗣郎他編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』、p410-p411。)

*11:井上厚史「大国隆正の言語認識(その1)ー『古伝通解』の注釈についてー」(『島根県立国際短期大学 地域研究調査報告書』三集、島根県立国際短期大学、1996年)

*12:野口武彦『江戸思想史の地形』(ぺりかん社、1993年)、「五十音図と言霊」を参照。

*13:同前。

*14:大国隆正「本学挙要」下(前掲田原嗣郎他編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』、p449-p450。)

*15:同前。

*16:前掲桂島宜弘『増補改訂版 幕末民衆思想の研究』、p66。

*17:大国隆正『活語活理活法抄』巻一(静嘉堂文庫マイクロフィルム資料)、3丁オー3丁ウ。 

*18:前掲大国隆正『学統辨論』、p485。

*19:同前。

*20:前掲大国隆正『活語活理活法抄』巻一、10丁オー10丁ウ。

*21:同前、7丁オー7丁ウ。

*22:大国隆正『三道三欲昇降図説』(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第二巻、国書刊行会、2001年)、p296-p297。

*23:大国隆正『古伝通解』巻一(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第六巻、国書刊行会、2001年)、p35。

*24:前掲大国隆正『学統辨論』、p492。

*25:同前、p480-p481

*26:同前。

*27:高橋残夢『国語本義総論』(静嘉堂文庫所蔵)、2丁ウー3丁オ。

*28:大国隆正『神理一貫書』一(前掲野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第二巻)、p122。

*29:前野良沢『管蠡秘言』(杉本つとむ編『前野蘭化集』早稲田大学出版部、1994年)、p15。原漢文。

*30:同前。

*31:この点は、清水教好「華夷思想と一九世紀ーー「蘭学者」の儒学思想と世界認識の転回ーー」(『日本思想史研会報』別冊(日本思想史研究会、2008年)より多くの示唆を得た。

*32:相原耕作「文字・文法・文明ーー江戸時代の言語をめぐる構想と闘争ーー」(『政治思想研究』13号、政治思想学会、2013年)。

*33:前野良沢和蘭訳荃』(前掲杉本つとむ編『前野蘭化集』)、p303-p304。

*34:前野良沢蘭語随筆』(前掲杉本つとむ編『前野蘭化集』、p387。)

*35:同前、p387-p388。

*36:大国隆正『天都祝詞太詔考』巻四(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第七巻、国書刊行会、2001年)、p319。

*37:前掲大国隆正『古伝通解』巻一、p31-p32。

*38:同前。

*39:大国隆正『ことばのまさみち』序文(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第四巻、国書刊行会、2001年)、p339。

*40:同前。

*41:大国隆正『神理入門用語訣』上巻(前掲野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第四巻)、p267。

*42:前掲大国隆正『活語活理活法抄』巻一、5丁オー5丁ウ。

*43:同前、6丁オ。 

*44:同前、6丁ウー7丁オ。

*45:前掲大国隆正『ことばのまさみち』巻一、p346。

*46:同前、p348。

*47:同前、大旨、p343。