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ルイ=ジャン・カルヴェ『社会言語学』(3)

アントワーヌ・メイエは、フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913年)の門弟として、しばしば紹介されてきた。実際には、『一般言語学講義』が(死後)出版されてからというもの、メイエはソシュールと距離を置いてきた。……というのは、メイエの全著作に見い出される言語の社会的性格という主張の含意するところが、言語の諸事案への内的アプローチと外的アプローチの収束であるばかりか、同じ諸事実の共時的かつ通時的なアプローチの収束でもあったからである。ソシュールが内的言語学と外的言語学とを対峙させるのに対し、メイエは両者を結びつける。ソシュール共時的アプローチと通時的アプローチを区別する一方で、メイエは歴史によって構造を説明しようと試みるのである。事実、一般言語学の立場に身を置くからには、ありとあらゆるものが二人を対立させていることになる。ソシュールは言語の抽象モデルに焦点を合わせようと模索するが、メイエは社会的事実すべてが関連しあう体系との間で悩んでいる。メイエにしてみれば、社会的なものを省みることなしに言語の諸事実は何も理解されえないのであり、それゆえ、通時態や歴史を省みないわけにはいかないのである。……それゆえ、たとえソシュールとメイエがほぼ同一の言い回しを使っているにしても、二人がそこに同じ意味づけをしているわけではない。ソシュールにとって、言語は共同体によって練り上げられるものであり、言語が社会的であるのは、共同体においてのみしかない。これに対し、すでに見たように、社会的事実の概念に対して、はるかに厳密な内容ときわめてデュルケーム的な内容を与えている(そもそも彼は、デュルケームが主宰した『社会学年報』にいつも必ず寄稿していた)。事実、ソシュールが構造と歴史とを入念に区別しているのに対し、主として用語法に係るものであるのにひかえ(ソシュール言語学の語彙を練り上げて、その理論面での確立を試みている)、メイエの企図するところは、計画としての性格を持つものである。すなわち彼は、言語の社会的性格が考慮されるようにと、絶えず願っているのである。(pp11ーpp14)