大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー

 

大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー.pdf - Google ドライブ

 

一.問題の所在

大国隆正(1792ー1871)は、『学統辨論』(1857年成立)の中で次のように述べている。

おのれがかくのごとく、わが学統をもわきまへしも、みな文字のたすけによることなれば、これは学者はまづしりおかでかなはぬことゝおもふにより、いまこの書に文字のおこりをしるしおきて、わが神道狭小ならぬよしを、まづ学者にしらしめおかんとす。*1

かくのごとく、地球上の言語、地球上の文字こと/"\く、わが古伝にみえたる天神・地祇のみはからひにもれざることをしり、外国のことをも集めて大成し、わが固有の神道を万国におしおよぼすなん、わが学統の本意にありける。*2

 本稿の目的は、幕末維新期にかけて活躍した大国隆正の言語論とその思想に焦点を当てて、幕末国学言語論の思想的位相について考察を行うことにある。筆者は以前に書いた拙稿において、いわゆる〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの言語論をめぐり、思想史的分析を行った。*3しかしながら、これまで十分に議論されてきたとは言い難い、〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの思想的位相を追求するには未だ不十分だと考えられる。ここで本稿では以前書いた拙稿を補う形で考察を行いたい。その前にまず問題の所在を明確にするため、これまでなされてきた大国隆正をめぐる先行研究の整理と、研究史をめぐる課題を明らかにしておく必要があるだろう。

周知のように、大国隆正は、福羽美静(1831ー1907)・矢野玄道(1823-1887)・津和野藩藩主・亀井慈藍(1825ー1885)などと共に、明治維新政府における神祇行政に深く関わった人物として知られている。従来の大国隆正の思想に関する研究を鑑みると、桂島宜弘氏が言及するように、幕末維新期の「国学における『政治』と『宗教』のバランスシート」*4を考えるうえで、重要な思想家として議論の俎上に取り上げられてきた人物だと言えよう。また阪本是丸氏は、津和野派・平田派国学者たちによる〈祭教一致〉国家理念の構想と挫折という視点から、明治初年期における国学者たちの思想的動向について明らかにしている。*5さらに近年においては、松浦光修氏によって、大国隆正の伝記的研究も行われており、今までは明らかではなかった思想的来歴について新たな知見が加えられた。*6また新たな形で行われた、『増補大国隆正全集』(国書刊行会、2001年)の編纂事業により、隆正に関わる新史料が翻刻されたのは、注目すべきことであろう。

一方で、隆正の言語論に関する先行研究について検討するならば、その言語論的テクストは埋没しており、史料の掘り起しという基礎的な作業から着手せざるを得ないというのが現状である。このような事情の中でも、隆正における言語論に対して検討を加えたものとして、上西亘氏・井上厚史氏・野口武彦氏らによる研究は、数少ない代表的研究だと言えるだろう。まず、上西亘氏は、隆正における言語論を分析し、「日本語」を見つめ直した思想家として隆正を取り上げており、その思想的な再評価を促す立場から論考を発表している。*7しかしながら、従来の研究において隆正の言語論的テクストが等閑視されたのは、難解ともいえる〈音義〉論的解釈から、その思想的世界を構成していることと無縁ではない。例えば、隆正は『音図神解』(1855年頃成立)や『音図神解総説』(成立年不詳)の中で、次のように述べている。

かたちなきこころには、かたちなき道を得、かたちある身には、かたちある財を「え」て、これを合せて、人は「ふる」ものになん。道は一すぢなれど、いまはさまざまにわかれてあり、仏門に入りて道を「え」んとする人あり。儒門に入りて道を「え」んとする人あり。その儒も仏もまことはわが神道よりわれきたるものなれば、もとの一すぢによるべきなり。神道によらんとするものは、まづ五十音図にてかんがふべし。*8

いま世の人は、いにしへのことばづかひをしらざりし。「わが」といへども我が身ひとつのこととおもふめり。そのこころいやしくなりぬ。いま世の人こころにて古意古言をしらぬことなり。いつらこえは「古事記」・「万葉集」などをひき出して、古意古言をいまの世の人にしらしむべし。*9

このように、隆正は「え」や「わが」という言葉に、〈音義〉論的な視点から独自の解釈を施しており、一見すれば何を主張しているのか理解できないものが多い。次節では、先行研究に即して掘り下げることで、難解ともいえる隆正の言語論的テクストの位置付けに対してその再考を行ってみたい。

 

二.大国隆正の言語論とその〈異様さ〉への再考

隆正は『本学挙要』(1855年成立)において、祝詞のテクストに対して、独自の〈音義〉論的解釈を施している。隆正は次のように言う。

わが本教のうちの本教といふべきものは、天都祝詞太諄詔といふものにて、今神職の人の、いずれのかみの大前にてもとなふる。ト・ホ・カミ・ヱミ・タメ、といふことば、これなり。これに図あり。これを太占の区象をいふ。この区象ばかりあやしく妙なるものはなく、このフトノノリトばかりあはれくすしきものはあらじとぞおもふ。〔中略〕かくのごとくを、漢意とそしるものもあるべし。そはまことの倭魂をしらぬものいふことにて、神道の真は、さるちひさきものにはあらず、日・月・星・地を包、五太州を蔵てもらさぬものならば、西洋・支那の窮理説もなにもかも、これよりいでたるものになん。〔中略〕本と本とはむれば、なに事もこの太卜よりおこれる天地なれば、これにこゝろをとゞめて、人の世にある道をも、これによりてたしかにさとるべきことなん。〔中略〕「ト」を地とし、「ホ」を日とし、「カミ」を神とし、「ヱミ」を人とし、「タメ」を物とす。この五つのうち、「ヱミ」を人にあつるこゝろをとくべし。人は笑てよをわたるをよしとす。笑のこゑは、「アイウエオ」・「ハヒフヘホ」、和合していづるものなり。*10

 隆正は、祝詞の言葉としてとなえられてきた、「ト」・「ホ」・「カミ」・「ヱミ」・「タメ」という五つの言葉を、隆正独自の〈音義〉論的解釈と重ねながら、それらの言葉が人と神が交わる宇宙論的構造を形成しているのだ、と説く。井上厚史氏は、このような隆正における言語論をめぐり、そこに〈国粋主義的言説〉が存在していることを見据えたうえで、次のように言及している。

彼が残した数多くの著作は、今日の私たちが読むにはあまりに荒唐無稽で、また天皇賛美の国粋主義的言説に満ちており、分析をためらわされるほどである。〔中略〕幕末から明治にかけてのこのような国粋主義的言説の分析は、したがって、研究者に分析方法自体を再考させる困難なテクストとして存在している。一九世紀の日本に確かに存在したこの膨大な異様なテクスト群の分析はどのように行われるべきだろうか。*11

井上氏が指摘するように、隆正の言語論的テクスト群について、歴史的な検討を行うには、その〈異様さ〉と向き合いながらテクストを再び読解し、歴史的にそれを位置付けるという解釈の困難性がつきまとっている。本稿の課題の一つには、その〈異様さ〉を再考し、思想的分析としていかなる方法を用いればいいのか、という問題を改めて言語化する作業が必要不可欠である。無論それを〈異様さ〉として退けるのではない仕方で、である。野口武彦氏も、「ポスト篤胤の世代としてこの一時期、言及すべき五十音イデオローグ」*12

 幕末=維新変革期にあたって、倒幕勢力の中で平田派国学が多大な精神的エネルギーを発揮したことはよく知られている。たんに言論活動だけではなく、政治の現場での実行勢力にもなったのである。この一派にとって、明治維新とは日本の近代化ではなくて、王政復古であった。文字どおりの復古をめざして奔走したのである。その理念を支えたイデオロギーの一つが大国隆正の「地球上の万国の総本国」(『新真万国公法論』)であるという皇国観であった〔太字は引用文では傍点だが、ブログでの性格上太字に改めたー筆者注〕。*13

大国隆正という思想家とその言語論を考えるとき、確かにそこにある〈異様さ〉と〈国粋主義的言説〉は、かかるテクスト群の読解を困難にしている。しかしながら、隆正自身は国学者として自分が置かれている状況を把握していた。隆正は自らの思想的位置について、次のように規定している。

今の世の国学者は、考証をむねとするなり。考証はいかにもよきことなり。せではならぬものになん。しかはあれど、考証に大小の差別あり。他の先生たちの考証は、小考証にして、いま隆正がする考証は、天地を考証する考証なり。後世にいたりては、書籍多きにより、いかほども書籍考証なりぬべし。神代の事は外に考証すべきものなし。天地を考証にとるより外はせんかたなきものになん。これにより隆正は、天地を考証にとりていふなり。又外国の古説を考証にとりていふなり。小考証に泥める国学者たちの、隆正が説をききて、考証なしといひ、牽強附会とそしるなるべし。そは考証に大小あることをしらぬ偏見なりけり。*14

隆正は、自らの思想的作業を「いま隆正がする考証は、天地を考証する考証なり」*15と規定したように、単なる荒唐無稽な思想家として見るのではなく、隆正がなした思想的作業そのものが、〈古伝〉論と〈古言〉論、そしてコスモロジーとが重層性を帯びながらも、一体化された議論を展開しているという点において、その思想的位相をめぐり、いかに再考できるか、という視点から捉え直す必要があろう。桂島宜弘氏は次のように指摘している。

隆正自身は「大考証」として豪語したその作業も、しかし対外知識の包摂と言葉の語呂合わせによる神々の秩序の再編成に帰結する作業のものであった。それは宣長の文献考証、篤胤の宗教的神話の再編とも隔たった全くの「方便」の世界として見做し得るが、しかし、これらの作業が明確な目的意識ーー「国の見識」の確定ーーに裏打ちされた者である点に留意するならば、この「方便」の構造こそ問題とされねばならない。*16

確かに一見すれば、隆正の思想は「方便」の世界そのものとしか映らない。しかし一方で、それが「方便」でしかないように見えながらも、今まで埋没してきた言語論的テクストを考えるとき、それが「方便」の世界であるが故に、隆正の思想が同時代において思想的波及性を持ち得たものとも言えるのではなかろうか。そのうえで、本稿における研究史的意義を改めて強調するならば、隆正の言語論は、同時代において〈言語〉をめぐって考察を張りめぐらした国学者たちと、その思想的視座やコスモロジーを共有しながらも、他方で隆正は〈文字〉への固執性を吐露している。この意味において、隆正は他の思想家たちとは一線を画していた。この〈文字〉への固執性こそ、隆正の言語論を読み解く手がかりとなるのだが、その問題はいままで明らかにされてきたとは言い難い。本稿では、かかる問題認識を念頭に置きながら、大国隆正の言語論をめぐる思想的位相について考察を行うものである。その作業は、幕末国学言語論をめぐる微細的読解とその可能性を探る重要な契機ともなるだろう。次節では、隆正の言語論的テクストに迫ることで、その〈古伝〉論と〈古言〉論、そしてコスモロジーと織り重なるように構成された思想をめぐって、思想的検討を加えてみたい。

 

三.〈古伝〉/〈古言〉/コスモロジー

 隆正は、〈古言〉をめぐる学問に対して、自らは若い頃から専心してきた、という〈自己語り〉とも言える、その思想的遍歴を、『活語活法活理抄』(成立年不詳)の中で、次のように語っている。

わが大日本国は、ことだまのさちはふ国なり。たすくる国なり。さらば、かの儒仏にまさる正心誠意平天下の道の。言語につきていふ人のなかりしは。あやしむべきことになん。〔中略〕おのれ隆正をさなきときよりこゝろざしをおこし、わが古言におもひをこらし、己が古事にこゝろつくし、仏にまさる心法。儒にまさる政治の道。西洋にまさる天文窮理数術を。わが大日本国よりおこし。万国の人をこと/"\く、これにしらしめ、ひろく皇基を護りたてまつらんとする〔後略〕。*17

冒頭の引用とも重なるが、隆正自身の〈学統〉認識における思想的淵源に、かかる〈古言〉をめぐる認識が存在していたことは、やはり重要なことだと思われる。

おのれが、かくのごとく、わが学統をわきまえしも、みな文字のたすけによることなれば、文字の起源、言語の理、これらは学者のまづしりおかではかなはぬことゝとおもふにより、いまこの書に文字のおこりをしるしおきて、わが神道の狭小ならぬよしを、まづ学者にしらしめおかんとす。*18

隆正は、「かくのごとく、わが学統のわきまえしも、文字の起源、言語の理、これらは学者のまづしりおかではかなわぬこと」*19と説く。言い換えるならば、隆正は自らを悠久の古代日本から続いている〈古言〉の探求者として自己規定しながら、自らをも正統的な〈系譜〉の中に組み込んでいく思想的作業を行っていたと言えよう。先行研究では、このように自分を大きく見せる傾向がある隆正の議論に対して、荒唐無稽さを読み取るのも無理もないことである。しかしながら、隆正は誹謗中傷を覚悟し、〈山師〉的存在であることを自らが引き受ける形で、その思想を展開していくのである。まず、右のような、隆正が示したイメージについて、我々はどう考えればいいのだろうか。

隆正は自ら提示したイメージについて、次のように説明している。末尾の(図1)と(図2)は、いずれも静嘉堂文庫所蔵の大国隆正『活語活理活法抄』の十丁オと七丁オよりの引用である。

「あ」は、日月星のかかるところ、「い」は囲気の天、「う」は得の字のこころにて、地球の万有これなり。我は他におよぼすを「え」といふ。地球につくを「お」といふ。置く、堕つ、織るなどのことどひこれなり。追ふは地につきて横をめぐるをいふ。押すは地上のみあらず、上下左右にわたる「お」の本義にかなへり。*20

「い」は地球外の囲気をさす。人身にとりては呼吸これなり。「う」は地球上にあたる、又人身にあたる。「いう」は外より入るこころ。「うえ」は内より外によりいづるこころ。この理のちにくわしくとくべし。*21

筆者なりに解釈を加えるならば、隆正が提示した右のようなイメージは、〈古言〉論とコスモロジーとが対応したものだと言えるだろう。最初に提示した図は、「あ」行を万有引力説と地動説とに重ね合わせながら、そこに隆正独自の〈音義〉論的解釈を施しながら、その国学的宇宙像を描写したものである。次の図は前の図と連動しているが、「あ」行における発音と身体と対応させながら、引力の存在とその発生について述べたものである。そのことは、隆正が『三道三欲昇降図説』(成立年不詳)において、次のように語っていることからも明らかだろう。

地球は日輪の引力において運動をなす〈天文の実測は地動の説よりまされるものはなし〉。日輪の引力は伊邪那岐の霊よりおこれる気なり。その証は、人々すこやかなるときは、地につくことをきらひ、伏すより起んことをおもひ、起るより立んことをおもひ、立つより歩行躍など運動して高きにつかんとおもふ。櫓にのぼり山に登りなどしていよいよこころよきものなり。これを生に司りたまふいざなぎの引力、やがて日輪の引力の確証なり。大地はまろきものなるを、地上の万有いづくもいづくも落ちず傾かざるは、地胎の引力による。黄泉国は地胎の幽界なり。いざなみの命、地胎におはしまして殺を司り給ふ。之により人々天頂にひかるる気力、おとろふときは地につかんことをねがふ、これ地胎の引力は、やがていざなみの命の引力にして、殺をつかさどりたまふ神霊よりおこる確証なり。*22

このように、隆正が提示する〈音義〉論と対応したイメージは、隆正が説く〈古伝〉論とも連関している。例えば、『古伝通解』(成立年不詳)では、次のようなイメージを提示している。末尾の(図3)は、『増補大国隆正全集』第六巻(国書刊行会、2001年)からの引用である。

隆正が説いた『古伝通解』は、記紀神話における天地創造の箇所をめぐり、隆正独自の〈音義〉論的解釈を組み込みながら、その意味について説明したものである。これも『活語活理活法抄』と同じく、隆正が描写するイメージとその〈古言〉論を重層的に表現したものだと言える。隆正は次のように述べる。

「くに」にむかひていへる「あめ」は、日球中の核なる「たかまのはら」をいへるものなれど、日球外辺をも合せ、これをかねていへることもあり。又、緯星天の星までをいへることもあり。月の世界をさしていへることもあり。「つち」にむかひていふ「あめ」は、「つち」をもとにしていひ、「くに」にむかひていふ「あめ」は「日」をもとにしていへるものなり。*23

先に引用したイメージについて解釈するならば、隆正は〈高天原〉は実在していることを証明しようと試みたものであり、その実在性は、「あめ」と「つち」、「くに」という言葉を各音に分節化して考察すれば、自ずと明らかになる、ということを説明したものである。このように、隆正の思想的世界は、文章そのものの解釈とイメージと対応させながら、理解しなければならない部分が多い。そのような隆正の思想について端的に表現すれば、やはり〈古言〉論を軸にしながらも、〈古伝〉論とコスモロジーの双方を貫いたものであると言えよう。この意味において、隆正の思想的世界は、同時代における〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者たちの言説とも重なり合う部分が大きい。しかしながら、隆正は、「かくのごとく、地球上の言語、地球上の文字こと/"\く、わが天神・地祇のみはからひにもれざることをしり、外国のことをも集めて大成し、わが固有の神道を万国におしおよぼすなん、わが学統の本意」*24だと語り、誹謗中傷を覚悟のうえで、自らが国学における正統的な〈学統〉に連ねるのに相応しい人物であることを、次のように自己規定している。

おのれは、かの四大人にかけても及ぶべからぬ不才のものなり。しかはあれど、わが子とおもふ門人は、おやと思ふこころより、五祖とあがむものもあるべし。みづからそれにあたるとはおもはねど、四大人のもとがひとつにならんにも、しひてそれにしていふものあれば、いひおくべきことのあるなり。わが学統の大意は、皇統の長くつゞき給ふわが国の国体を主張し、わが大道の基本として、異国の王統をいふ諸説になづまず、わが古伝によりて、幽冥・顕露をわかち、幽冥をおそれて、顕露をつゝしみ、内は忠・孝・貞をたがへず、外は家業につとめて、人に信を失なはず、「本による」・「あひすくふ」といふ十字の訳をまもりて、さてのち、わが神典をよみとき、うたをよみ、わが古言をしり、異国の書をもまじへてよみて、彼我の異同をしるべきなり。天つかみのわが学統をこしらへたまへるは、かくのごとくせさせんためのことなれば、よくこのこゝろを得て、つとめまなぶべきになん。*25

隆正は、「わが神典をよみとき、うたをよみ、わが古言をしり、異国の書をまじへてよみて、彼我の異同をしる」*26ことが可能な人物であると自ら説いている。このような、隆正がなしていく〈古言〉論の再構成とも言えるような思想的視座は、同時代の幕末国学言語論の位相とも隔たりがあるように思われる。例えば、高橋残夢(1775-1851)は、「此言霊皇国に限る事をなど思ひそ。唐土天竺四海に渡りて、言霊なき国あることなし。霊なくして言語の通ふべきならず」*27と唱えたように、〈声の偏在性〉をめぐる議論に重点が置かれていた。しかしながら隆正は言語における「彼我の異同」を語るのである。このような隆正における思想的相貌を、別の角度ーー蘭学における〈言語〉の問題ーーから説き明かしてみたい。

 

四.蘭学と言語的重層性をめぐって

 これまでの先行研究の中で言及されているように、隆正の思想は〈蘭学習合〉と呼ばれることが多く、この点に関して主に対外認識との関係から検討がなされてきた。隆正もそのことを理解していたようで、同時代の人々による隆正の思想が〈蘭学習合〉だという非難に対して、隆正は『神理一貫書』(成立年不詳)の中で、次のような反論を行っている。

世人窮理の旨を解せず。みだりに隆正が理説をそしりて、蘭学習合の神道といふよし。そは皆わが古伝に精しからず、蘭学をしらずしていふなり。蘭学は幽顕をとかず。隆正は幽顕よりときおこす。蘭学は反対をしらず。隆正は反対を主とす。その理説の本はひとしからねども、その末を借り用いることあり。そはかのあたりの人、紙上の空論をきらひ、測量試験の器をつくり、その慮をつくす故、いひあてたることも多ければなり。今の天地をしれることは、唐土人・天竺人よりこよなくすぐれてありけり。彼此を比較するほどの力もなくて、いふ人こそ可笑しけれ。*28

隆正は同時代における非難に対して、それは〈蘭学〉も知りもせずに、〈彼我〉の相違を理解もしないまま、誹謗中傷しているだけである、と反論する。ここでは、蘭学者が直面していた、〈言語〉をめぐる問題について再考し、隆正における〈自他認識〉の在り方を確認する作業を行いたい。前野良沢(1723-1803)は、『管蠡秘言』(1777年成立)の中で、次のように言う。

管を以て天を窺い、蠡を以て海を測り、心を用いて知らざる其の道を窺う。知者は言わず。言者は知らざる。言うべきことは秘せざるにして、秘すことは言外にあり。*29

一に曰く地。二に曰く水。三に曰く火。四に曰く空。夫れ地は大虚空中の一点の塊なり。その形図は玉の如き故に地球と称して、其の大なることを測りて以て知るべきなり。*30

良沢は、〈蘭学〉的方法とは、細い管から天のことを知り、小さい貝から海の大きさを測る。それが蘭学的な〈実測〉のあり方だと述べる。そのうえで、地球球体説に依拠しながら、万物の根源が、古代ギリシャの四元論に基づいていることを説明している。確かに蘭学がもたらした言説と、コスモロジーの衝撃は、幕末思想における〈自他認識〉の変容と転回を有していたといえる。*31しかしながら、それを単なる〈ウェスタン・インパクト〉として捉えるだけでは、現在の研究水準では限界があるように思われる。蘭学者たちがオランダ語に直面したとき、そこには、いくつかの制約があった。まず、江戸においてオランダ語を学習していた蘭学者たちは、長崎のオランダ通詞とは異なり、直接的にオランダ語の会話に触れることは許されず、専ら書物のみによるオランダ語学習に限られていた。しかしながら、その学習行為は、幾多もの言語的重層性を抱え込みながら、はじめて学習が許されるものであった。*32良沢はその困難性について、『和蘭訳荃』(1785年成立)や『蘭語随筆』(成立年不詳)の中で、次のように回想している。

予嘗テ蘭訳荃ヲ著ス。蘭トハ和蘭ヲ省テ言ナリ。其書和蘭字ノ傍ニ国字ノ翻訳切意ヲ記タリ頃間、偶コレヲ思ニ如何ナレバ、則独者ニ宜ク而読ミ写カラズ。何トナレバ、目国字ヲ看、口国字ヲ念、心国字ヲ解ス。乃心目口全ク国字上ニ在テ和蘭之字徒ノ玩具トナル。*33

凡ソ訳家ノ伝ルノ語訳ノ書多クハ長崎ノ方言以テコレヲ記ス故ニ、再ビコレヲ尋ルニ他ノ方言ヲ詳セザル者ニ至テハ、却テ長崎ノ語訳ニ難渋スルコトアリ。故ニ三四ノ訳ヲ経ザレバ通解シ難キコトアリ。畢竟是俗間ノ語ノミヲ以テ其訳ヲ伝ヘ来ル故ナリ。書中ノ雅言文辞ニ至リテハ、予ガ不才ヲ以テスルガ為ニ、絶テ理会シ難キ者多シ。*34

若シ夫倉卒ノ際ニオイテハ、尤失誤多キ者アリ。予「スヽ」ト云ヲ「煤」ト記シタルニ、今詳ニスルニ、「酢」ナリ。「ヤウヤク」ト云ヲ「漸」ト記シテ、今書ニ由テコレヲ詳ニスルニ、「職掌」ノ義ニテイヘルコト、果シテカクノ如クナレバ、訳者ノフモノ、亦所謂重訳ナルモノアリ。*35

良沢が直面した困難とは、長崎のオランダ通詞の翻訳書でさえ、そこに書かれているのは、会話言語としての〈長崎方言〉であり、しかも日常生活の中で使用される〈俗語〉であった、という事態である。言い換えるならば、江戸の蘭学者たちが欲していたような、前近代の世界において通底していた〈文雅〉を帯びた訳語ではなかった、ということである。江戸の蘭学者たちは、それを〈文雅〉の性格を帯びた訳語として、オランダ語から〈和語〉に翻訳しなければならない、という困難に直面していた。これを整理するならば、オランダ語書物と音声学習ーー長崎オランダ通詞による日常言語としての〈長崎方言〉による翻訳ーー江戸の蘭学者たちによる〈文雅〉を帯びた訳語としての〈和語〉という螺旋的な経由を辿ることで、はじめてオランダ語から〈和語〉への翻訳という営為は成り立つのである。この意味において、従来のように、図式的に単純化されたような、蘭学における〈ウェスタン・インパクト〉論と、当時の蘭学者たちが直面していた言語的事態とは乖離があると指摘することが可能であろう。蘭学者たちがもたらした〈自他認識〉の変容と転回も、そこから読み解く必要性があるように考えられる。隆正における〈彼我の異同〉という認識が立ち上げられる契機には、蘭学思想を抜きにしては語れない。隆正は『天都祝詞太詔考』(成立年不詳)や『古伝通解』において、次のように言う。

わが神理をとくに聞きて、和蘭の窮理によることゝ思ふ人は、和蘭の学のしらぬ人のいふことにて、いたくたがへり。天文測量はその測量にしたがひていへど、人類動物の窮理は、わが神典の窮理なり。さらに混るるものにあらず。世人大かた理をしらず。理をいへば唐または蘭の事とおもふなり。それらにまされる理説のわが国にあることをしらぬ人こそつたなけれ。*36

上古の旧説は、神代巻これなり。西洋の新説をとりて、わが上古の旧説に合せてみれば、おのづからあふことおおかり。そはわが旧説は天地の真をつたへたるものにして、今の天地にかなへるものなれば、今の天地をよく考え得たる説には、よくかなふものになん。之によりて思ふに、わが大日本国は上古の旧説をまもりて弊なく、近古の旧説を捨てゝ弊なきくにといふべし。わが上古の旧説よりみれば、西洋の新説またいまだ尽くさゞるところあり。しかはあれど、支那・印度の旧説にまさること遠く、測算の術をつくして、よく天地の真に達したるものなれば、そのかなへるをば択みてとるべきなり。*37

隆正は、「西洋の新説をとりて、わが上古の旧説に合せてみれば、おのづからあふことおおかり」*38と述べるように、かかる隆正における〈蘭学習合〉的な視座が、同時代における非難や誹謗中傷の的になったことは想像に難くない。しかしながら、隆正と〈蘭学〉との関係を考えた場合、そこに横たわっている〈彼我の異同〉の変容と転回という問題が契機となっていることが理解できよう。この意味において、同時代の国学者たちが形成した〈声〉をめぐる〈始原〉と〈生成〉という問題が、国学宇宙論とが絡み合うように形成されていく言説と、隆正が構成していく〈古言〉論とは隔たりがあるように思われる。なぜならば、隆正は〈声〉をめぐる〈始原〉の世界を捨象しながら、一方で〈文字〉への固執性という新たな思想的相貌を現し始めるのである。次節ではこの問題について考察を加えたいと思う。

 

五.大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出できたるものと知られたり」ー

隆正の〈古言〉論は、『ことばのまさみち』(1836年成立)において、既に〈文字〉をめぐる認識という問題に視線が注がれていたことが分かる。隆正は次のように語る。

隆正としごろかたちなき心をかたちのみえぬことばによせ、かんがへたるそのすぢを、かたちある文字にうつし、ちさとの外までも、よろづよの後までもつたへんとかきしるしたるこのふみに、かたどりいだすことばのすぢは、かたちなき神のかしこくつくりおきたまへることを、さとりうわらはもあるべし。*39

隆正は、「かたちなきこころを、かたどりいだすことばのすぢ」*40。つまり、〈文字〉には「かたちなき神」が宿るのだと語る。この意味で隆正は同時代における〈言霊音義派〉の国学者たちに見られたような、〈声〉の生成という問題よりも、〈文字〉を図式化した、〈五十音図〉そのものの神聖性に関心が注がれている。なぜならば、〈五十音図〉とは、隆正においては、言語秩序における絶対的な基準だったからである。隆正は『神理入門用語訣』(成立年不詳)の中で次のように述べている。

今、世に五十音図といふものは、いにしへ言霊といひしものなり。古歌にことたまのさちはふくに、ことたまのたすくるくに、といへるは、この言霊に天地間の神理、ことごとくそなはりて、わが大日本国の神道をたすくる事のあるよしをいへるものになん。*41

このように、隆正は〈声〉の世界を捨象し、〈文字〉の世界を語ることで、宇宙創成において、既に〈五十音図〉はあったのだ、ということを説く。それは隆正が「言葉は後に出てきたるもの」と述べることからも分かるように、言語秩序の問題を価値転倒させているのである。

人はいかがおもふらん。天地ありて後に人あり。人ありて後に声あり。声ありて後に言葉あり。言葉ありて後に五十音図はつくり出せるものと。だれもみなおもふなるべし。隆正おもふにしからず。わが古言のよく五十音図にかなふをみれば、五十音図は本にして、言葉は後に出てきたるものと知られたり。ただその言葉のみにあらず。天地もまた五十音図より後に出てきたるものと知るべきなり。*42

ある人己がこの説をとがめていはば、人ありてこそものをいへ。人といふものなかりし世に。はやく五十音図のありしものとするはきこえぬことなり。隆正いはく。いかにも人といふもの口といふものなかりし。世に五十音図はあるべきよしなし。しかはあれどそは已発の五十音図にして、己がいふ五十音図を未発の五十音図をさしていへるなり。*43

このような、〈五十音図〉をめぐる絶対性の言説から、「未発の五十音図。天地となりて。已発の五十音図をもて。人にこれをいはしむ。これより己が古言よく天地の大理にかなひてあるなり」*44と隆正は言及し、「天地造化の大機関」として、〈五十音図〉の霊妙性について説くのである。隆正は言う。

さて、雅言を古言に比ぶれば、いささかみだりがはしきこと、うちまじりてあれど、おもふこころをくまなくうつしだすには、古言にまされることあり。また雅言にいひとりがたきことを、古言にておもひのほかにやすくいひとらるることもあり。学、古今にわたり、運用自在にして、しかも例格をたがへぬを妙とす。古言・雅言は、おのづから用法、厳に具りて、みだりにすべからぬものなり。その用法を正し、活語の原にさかのぼりて見れば、そくばかりのものになんある。外国の言語には、皇国の活語にあたるものなし。*45

おもふこころをうつしいだすはものは。ことばなり。隆正よは九つのとしおもひけるは、いろはばかり世に尊きものはあらじ。人の出す声を、ことごとくつくしてあるなり。天地の間の事、しかあらんには、このいろは四十七字のこころをだにたづねしらば、世の中のことわりは、つくしつべしとおもひよりぬ。十一のとし、はじめて五十音図かながへしの法をききて、この図いろはにまされることをしり、それよりこの図に心よせて、廿ばかりのころ、ある〈生〉、ある〈有〉、ある〈発〉、同言に初・中・後の分あることにこころづき、これより活語に心をつくし、自分の対格ありて、世の中の道理そなはれることを見出し、いよいよ心をつくして、皇国の古言に、天地造化と契合せる妙理あることをさとりたる。*46

このように、隆正が〈文字〉への固執性を語り出していく契機について再考するならば、それは明らかに〈言語的境界〉を画定していく作業と繋がっていく。この意味において隆正がもたらした思想的帰結は、もはや〈言霊音義派〉の議論を超越し、〈明治日本〉における言語的ナショナリズムが孕んでいた問題を、一面では先取りしていたとも言えるだろう。隆正は次のように語る。 

妙に満・漢・蒙古・朝鮮の言語文字に通じてありしを、大祖統一して、蒙古字をもて満州の言語に合せ、はじめて満文を製し、国中に用ひたりしたり。大祖没して太宗の時にいたり、朝鮮を降し、蒙古をうち、支那にいたりて、世祖ついに漢地・満州・蒙古の三国を併呑せり。されどもその言語をひとつにすることならねば、今も猶詔を下すに、同じことを漢文・満文・蒙古文と三通にかき分けて、其三国にわかち下すなり。これらのことを考へみて、言語の異なるが、やがて国の界なることをさとるべし。この大八島瑞穂国は、外国にきれはなれてつづかぬ国なれば、そのわかちはやならぬここちすれど猶対馬は朝鮮に近くして、朝鮮のことばを用ひず。松前蝦夷とそのことば通はず。これを見ても言語の異なるが国のさかひめなることを覚るべし。*47

 

六.今後の課題

最後に今後の課題に言及することで、本稿を終えたいと思う。本稿では大国隆正における〈古言〉論を通して、従来の先行研究では、幕末維新期における〈政治〉と〈宗教〉という文脈から位置付けがなされてきた傾向が強いこともあり、その再考を試みた。しかしながら、隆正における思想や言語論は、その人物像が顕彰対象になった例はあるにしても、もはや思想的には無意味な存在として、後世においては葬り去られた。この点についてはいまだに検討の余地が残されており、かつそれは、〈明治日本〉から〈帝国日本〉へと変貌していく、歴史的過程と言語的再編という問題とも深く関わるものだと思われる。その意味において、より深い微細的読解が必要な領域であり、慎重を期する必要があると考えられる。筆者はこの意味において、従来の〈近代知〉論だけでは限界があると考えている。同時代における漢詩・和歌・文体を取り巻く状況も、〈言文一致〉運動・〈新体詩〉運動・〈和歌改良〉運動などと連動しながら、国学的言説も同時に再編が行われていた。明治初年期における国学言語論をめぐる思想的状況と歴史分析を軸にしながら検討を深めていく必要があるが、ひとまず本稿の筆を擱き、本稿の是非の判断は読者諸氏に委ねたいと思う。

 

(図1)

 

 

f:id:n-shikata:20140915143603j:plain

(図2)

f:id:n-shikata:20140915143300j:plain

 (図3)

f:id:n-shikata:20140915142919j:plain

 

 

【付記】本稿をアスペルガー症候群を抱えている筆者に対して、これまで物心両面にわたって支援していただいた、亡き両親の霊前に捧げたい。

(『日本思想史研究会会報』第31号、2015年1月刊。pp121-pp134。)

文責:岩根卓史

*1:大国隆正『学統辨論』(田原嗣郎・関晃・佐伯有清・芳賀登編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』岩波書店、1973年)。p485。

*2:同前、p492

*3:拙稿「言葉の〈始原〉」とコスモロジーーー幕末国学言語論の思想的位相ーー」(『日本思想史研究会会報』30号、日本思想史研究会、2013年)。

*4:桂島宜弘『増補改訂版 幕末民衆思想の研究』(文理閣、2005年)、第一章「幕末国学の転回と大国隆正の思想」、p55。

*5:阪本是丸『明治維新国学者』(大明堂、1993年)。

*6:松浦光修『大国隆正の研究』(大明堂、2001年)

*7:上西亘「大国隆正の言語学研究序説」(『神道宗教』217号、神道宗教学会、2010年)。

*8:大国隆正『音図神解総説』巻二(学習院大学附属図書館所蔵)、14丁ウ-15丁オ。

*9:大国隆正『音図神解』一ノ上(静嘉堂文庫マイクロフィルム資料)、5丁オー5丁ウ。

*10:大国隆正『本学挙要』上(前掲田原嗣郎他編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』、p410-p411。)

*11:井上厚史「大国隆正の言語認識(その1)ー『古伝通解』の注釈についてー」(『島根県立国際短期大学 地域研究調査報告書』三集、島根県立国際短期大学、1996年)

*12:野口武彦『江戸思想史の地形』(ぺりかん社、1993年)、「五十音図と言霊」を参照。

*13:同前。

*14:大国隆正「本学挙要」下(前掲田原嗣郎他編『日本思想大系50 平田篤胤伴信友・大国隆正』、p449-p450。)

*15:同前。

*16:前掲桂島宜弘『増補改訂版 幕末民衆思想の研究』、p66。

*17:大国隆正『活語活理活法抄』巻一(静嘉堂文庫マイクロフィルム資料)、3丁オー3丁ウ。 

*18:前掲大国隆正『学統辨論』、p485。

*19:同前。

*20:前掲大国隆正『活語活理活法抄』巻一、10丁オー10丁ウ。

*21:同前、7丁オー7丁ウ。

*22:大国隆正『三道三欲昇降図説』(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第二巻、国書刊行会、2001年)、p296-p297。

*23:大国隆正『古伝通解』巻一(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第六巻、国書刊行会、2001年)、p35。

*24:前掲大国隆正『学統辨論』、p492。

*25:同前、p480-p481

*26:同前。

*27:高橋残夢『国語本義総論』(静嘉堂文庫所蔵)、2丁ウー3丁オ。

*28:大国隆正『神理一貫書』一(前掲野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第二巻)、p122。

*29:前野良沢『管蠡秘言』(杉本つとむ編『前野蘭化集』早稲田大学出版部、1994年)、p15。原漢文。

*30:同前。

*31:この点は、清水教好「華夷思想と一九世紀ーー「蘭学者」の儒学思想と世界認識の転回ーー」(『日本思想史研会報』別冊(日本思想史研究会、2008年)より多くの示唆を得た。

*32:相原耕作「文字・文法・文明ーー江戸時代の言語をめぐる構想と闘争ーー」(『政治思想研究』13号、政治思想学会、2013年)。

*33:前野良沢和蘭訳荃』(前掲杉本つとむ編『前野蘭化集』)、p303-p304。

*34:前野良沢蘭語随筆』(前掲杉本つとむ編『前野蘭化集』、p387。)

*35:同前、p387-p388。

*36:大国隆正『天都祝詞太詔考』巻四(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第七巻、国書刊行会、2001年)、p319。

*37:前掲大国隆正『古伝通解』巻一、p31-p32。

*38:同前。

*39:大国隆正『ことばのまさみち』序文(野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第四巻、国書刊行会、2001年)、p339。

*40:同前。

*41:大国隆正『神理入門用語訣』上巻(前掲野村伝四郎・松浦光修編『増補大国隆正全集』第四巻)、p267。

*42:前掲大国隆正『活語活理活法抄』巻一、5丁オー5丁ウ。

*43:同前、6丁オ。 

*44:同前、6丁ウー7丁オ。

*45:前掲大国隆正『ことばのまさみち』巻一、p346。

*46:同前、p348。

*47:同前、大旨、p343。

言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相―

言葉の〈始原〉とコスモロジーー幕末国学言語論の思想的位相.pdf - Google ドライブ

一.問題の所在

今の世に古学と称して、哥道立る徒。蟻の如く多かるに。其先生のたちの伝を物するに。契沖。県居。鈴屋をし。三哲などを称して。此大人の事をば。都に称するなきは。其徒みな哥作者にて。道の本義を知らざる故に。哥学の方より然は思ふにぞ有りける。*1

皇国の古伝説は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる。産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐る時に御伝へ坐ると、其五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り伝たるも有が中に、天祝詞なる伝は、古伝説の本にて正しき由よし〔中略〕日本紀古事記なる伝は、世に弘く伝はりたるを集め記されたる故に、自然に訛れる伝へも交れるを、祝詞の伝へにて正し辨ふべき〔後略〕。*2

平田篤胤(1776-1843)は、同時代の学者たちを指して、彼らが歌学ばかりに傾倒し、彼らが本来依拠すべきところの〈古学〉における「道の本義」については何も知らないことを批判している。篤胤は周知のように、祝詞に書かれた言葉に導かれながら、古事記以前にあった〈古伝〉の世界を、自らの力で復元しよう試みていた。この篤胤による復元作業は、神代における天地創造神話と、〈音韻言語の道〉の生成過程を同じ地平から語り出していくことにこそ、その思想的意味があったというべきだろう。 

高光る日の大御神の。御子命の天地日月と共に。弥常磐に。照らし明かし所知看す。これの皇大御国はしも。万の国の本つ祖国にし有れば。万づの物も事も。皆勝れて美きは更なり。古語に。言霊の幸ふ国。言霊の祐くる国と。称へ以来し事の如く。高天原に神留坐す。天皇祖大神たちの。天津天語をし。弥継々に。云ひ継ぎ語り継ひし故に。宇都志世人の。音韻言語の道。また夐に万国に優れて。正しく美たく。足らひ調へる御国にもなも有りける。*3

篤胤が語る〈音韻言語の道〉という言説は、「御国の古の伝は、かしこくも、天地をすらつくりましゝ、神魯企・神魯美命の、大口づから、伝へ賜へる天詔事なること、予たしかに考へ出たり」*4と述べるように、篤胤自身が構想する〈古伝〉の世界から見出されていくべきものであったと言えるだろう。しかし、このような篤胤における国学宇宙論を考えるとき、その傍らには、言葉をめぐる思想的世界も同じく存在していることに注意する必要があると思われる。かかる前提に依拠しながら、本稿における問題認識を確認する作業として、まずは従来の幕末思想史研究を再考してみたい。古い研究に遡れば、村岡典嗣(1884-1946)は、篤胤の思想について、次のような評価を下している。

篤胤の著書を読んで、その学問的精神に於いて、宣長を最もよく継承し、更に幾多補正してゐるものさへあることを、明らかにする吾人は、人格に於いて、宗派的なる彼の如きしてさへ真理の探求者として、よく斯の如くなるを得させた宣長の学問の精神、更に遡っては、契沖、真淵等の古学の精神の偉なるに、感じざるを得ない。篤胤が紀、記、祝詞、古風土記古語拾遺、又、宣長は斥けたのに拘らず、偽書ながらもとるべきものもあるとした旧事記等の古典を綜合し取捨した、古史成文の試み、そを解説し注釈した古史徴、古史伝等は、文献学上、宣長古事記伝とともに、注意すべき大著である。而して、文献学たる古学が、同時に古道であったことも亦、宣長に見たと同じであった。*5

このように村岡は、篤胤の学問を、当時の欧米における〈文献学〉と同一視しながら、それは〈古道〉に依拠した思想的方法として位置付けている。*6しかしながら、かかる村岡による篤胤をめぐる視点は、冒頭で引用した、篤胤が〈歌学び〉の学者たちと対置させたうえで、その思想的方法は〈道学び〉にあると自認した言説を想起させるものだろう。また、「彼は人格に於いて、固より宣長の如き温厚な学者ではなく、かつ、宣長に比して、儒仏両教にも精しく、かつ蘭学や聖書の知識をも多少有し、諸外教に対する敵愾心に燃えること激しく、剰へ、宣長が有した多力的信仰の如き思想的隠れ家を有しなかった」*7という村岡の言葉を敷衍するならば、従来における幕末思想史研究とは、村岡が篤胤に見たような、明治維新に連なる思想的エネルギーの淵源を、〈草莽〉に根差した〈民衆〉の精神から説き明かそうとしていく試みとしてなされてきたと言えよう。

草莽の国学とは、庶民の国学の意味である。庶民の生活に弘まった国学、之である。封建時代の庶民生活は、今日と異なり、文字通り草莽の生活と呼ぶにふさわしいものであった。〔中略〕かような時代には、文化の身分性及び地域性がひときわ立った特徴を帯び、庶民生活は、文化構造の最も下層に押し籠められねばならぬ。したがって庶民生活と国学の関係はどうであったか。国学は草莽深き地方の中に、いかに弘まったか。*8

もし明治維新が流産した政治劇となり、あれほどにも巧妙かつ敏速に国家を主導者とする近代化路線が定着されえなかったとすれば、民衆の精神の固有性はもっと明確なかたちで国家意志と拮抗しあうことになったかもしれない。*9

伊東多三郎や安丸良夫の研究に代表されるように、その思想史的研究は、「一般民衆の反秩序・脱秩序のエネルギー」*10の問題を強く認識したものであった。また同じく、幕末維新期の思想的エネルギーの淵源でもあり、同時にその〈牽引者〉として目されてきた、篤胤を中心とした、従来の幕末国学研究は、篤胤における〈道学び〉の世界に共鳴した思想家たちに焦点を当てながら、多くの記述がなされてきたと言うことができる。しかしながら、篤胤が「蟻の如く」と揶揄した、幕末維新期における〈歌学び〉をめぐる問題は、従来の思想史研究では長らく捨象されてきた課題であるように思われる。本稿は、以上のような問題認識に即しながら、〈言霊音義派〉と呼称されてきた国学者たちの思想的位相について検討を試みる。〈言霊音義派〉と呼ばれる思想家たちが、思想史研究の俎上に置かれなかった背景として、その思想が、「今日の我々としては到底受け入れがたいものが多く、それをたどって理解することも容易ではない」*11と言及されているように、主張の荒唐無稽さと思想的無内容性が同居したものと考えられてきたからに他ならない。しかしながら他方では、〈言霊音義派〉の思想に積極的な意味を見出していく試みもなされていた。例えば、時枝誠記(1900-1967)は、『国語学史』(1940)の中で、〈言霊音義派〉の歴史的意義を高く評価している。時枝は、西洋における言語観の特質として、言語とは事物を伝達道具として捉えるような、〈物としての言語〉が根底にあると考え、かかる西洋の言語観と対置させる意味で、日本における言語観の特質として、言語という存在は事物と一体化したものと考える傾向があり、単に言語を事物の伝達道具として捉えるのではなく、言語とは同時に事物の表出でもあるという、〈事としての言語〉が根底にあると考えている。このような文脈から、時枝は〈言霊音義派〉の国学者たちの思想を、前近代日本において〈事としての言語〉を再発見したものとして高く評価したうで、「それが若し到達すべき極点にまで至ったならば、そこから新しい言語の観点が生まれたであろう」*12と、その思想的可能性について言及を行っている。このような時枝における〈国語学〉が孕んでいた思想的問題は、近年のいわゆる〈近代知〉研究の側面からなされた研究蓄積が明らかにしている通りである。*13確かにこの意味において、〈言霊音義派〉という学術概念は、〈昭和日本〉という時代的状況を反映した、時枝自身の夢想の産物だと言えるだろう。また時枝は続けて、〈言霊音義派〉の思想は、「その暇なくして西洋言語学がこれに取って代ることになる」*14と語っているが、実際には、〈言霊音義派〉と呼称されてきた国学者たちの存在とその言説は、幕末維新期から明治前期にかけて、西洋言語学における語学書が流布していく時期と重なりあいながらも、広く共有されたものであった。本稿では、かかる思想家たちを呼称するものとして、学界では既に膾炙しているものであるため、〈言霊音義派〉という用語で統一するが、それは、これまで検討してきたように、〈言霊音義派〉という学術概念の歴史的経緯を無視するものではないことは強調しておきたい。以上のような前提から、本稿は、〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者として、具体的には、鈴木朖(1764ー1873)・高橋残夢(1775ー1851)・富樫広蔭(1793―1873)の思想に着目し、彼らの言語論とその思想的位相について、再考を試みる。

二.鈴木朖の〈道〉と〈言語〉

鈴木朖は、『離屋学訓』(1811)の中で、次のように述べている。

ソモ/\学ハ道ヲ学ブ也。道ヲ学ンデ心ニ知ルハ文学也。口ニ述レバ言語也。文学ニカキ書ニ著スモ猶言語也。是ヲ以テ身ヲ修レバ徳行也。是ヲ以テ人ヲ修ムレバ政事也。大方学問ト云事世ニ始ルヨリシテ、必此四ツニ分ルヽ事、天地ノ間古今カワリナシ。*15

朖は、学問とは突き詰めれば、〈道〉について学ぶことであると言う。しかしながら、その〈道〉について知るためには、〈文学〉や〈言語〉に関する学問が必要であることも付言している。なぜなら口で語ることも、文字で書物を書くことも、〈言語〉という学問がなければ、その〈道〉も成り立たないからだ、と朖は語るのである。このように朖は、〈文学〉や〈言語〉を学ぶ行為を、〈道〉を学ぶ行為に集約していることが窺えよう。また、〈文学〉や〈言語〉という学問とは、それぞれが〈道〉の内奥とその深意を明らかにするためのものであることを、朖は次のように述べている。

文学ノ名義ハ、上ニイヘルガ如シ。其シワザヲイハヾ、道理ヲ明ムルト、事ニ通ズルト、業ヲ身ニツクルトノ三ツ也。是ヲ二ツニワクルトキハ、道・芸トイヘリ。道ハ和漢古今サマ/\ノ道ナリ。芸ハ文武ノ諸芸也。〔中略〕此ノ如ク分レタルトキハ、二ツニモ三ツニモ分カレタルドモ、総テイヘバタヾ道ナリ。畢竟文学ハ道ノヤドリ也。文学ニ通ジテ、ソレニ明ラメ知ルヲ有道ノ人トイヒ、身ニ行ヒ得ルを有徳トイフ。有徳ハ徳行ノ科ナリ。有道ヲ以テ文学ノ極意トスベシ。*16

古歌古文ノ古語ノ中ニハ、コトニ古ノ道ノ意ノコモレル事ノケレバ、文学ニテハ、コレニ習熟シテ古道ヲアキラメムベク、言語ニテハ、コレヲマネビテ古意ヲ述得ル事ヲ心ガクベキ也。*17

このように朖は、〈文学〉や〈言語〉という学問とは、「ヤドレル道ヲ明ラメ知ル」ことであると語る。その意味において、朖は〈道〉という存在を、かかる知的営為が連関した総体として捉えている。

道ハ一ツ也。是ヲ身ニ行フヲ徳行トシ、是ヲ述ルヲ言語トシ、是ヲ敷キ施シテ人を治ルヲ政事トシ、是ヲ明ラメ知テ人ヲ教ルヲ文学トス。*18

このような、朖が捉えた〈道〉をめぐる言説の意味を、幕末国学の位相から再考するために、本居宣長(1730-1801)が見出した、〈道〉をめぐる言説について検討しておく必要があると思われる。宣長において、〈道〉とは、〈漢意〉を取り除いた、「生まれながらの真心の道」であった。

がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古への意はしりがたく、古へのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける。そも/\道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とはよくも悪しくも、うまれつきのまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしざるにこそあれ。*19

このように、宣長は〈漢意〉を排除しながら、「生まれながらの真心の道」が完備された、〈皇国〉という言説を立ち上げていく。この意味において、〈皇国〉に完備されるべき言葉は、「純粋正雅ノ音」でなければならなかった。有名な言葉だが引用しておこう。

皇大御国ハ、如此尊ク万国ニ上タル御国ナルガ故ニ。方位モ万国ノ初ニ居テ。人身ノ元首ノ如ク。万ノ物モ事モ。皆勝レテ美キ中ニ。殊ニ人ノ聲音言語ノ正シク美キコト。亦夐ニ万国ヨリ優テ。其音清朗トキアザヤカニシテ。譬ヘバイトヨク晴タル天ヲ日中ニ仰ギ瞻ルガ如ク。イサヽカモ曇リナク。又単直ニシテ迂曲レル事無クシテ、眞ニ純粋正雅ノ音ナリ。*20

しかしながら、朖は〈道〉とは、〈差異〉そのものを受容し、その〈差異〉を理解すべきものとして提示している。朖は次のように語る。

道トイフ名ノコヽロハ、俗ニイフ為方也。本ハ行ク道路ヲ以テ、行フ道義ニタトヘタル異国ノ語也。〔中略〕今一ツハ古ノ道、今ノ道、異国ノ道、或ハ君子ノ道、小人ノ道ナンド云フハ、皆ソレノ流儀、シカタノカハリアルニテ、譬ヘバ本街道アリ、小道アリ、近道アリ、廻道アリ、又ハ馬ノ道ヲ蟻ノ道ト云フガシ。此二ツ共ニシカタ云、俗語ノ心ニ違フ事ナシ。凡テ道ハ、ワザモアリ、事モアリ、道理モアリ、甚事繁シク広キ物也。〔中略〕サレバ、上古ノ道アリ、中古ノ道アリ、近古ノ道アリ、今ノ道アリ、異国ノ道アリ。〔中略〕上古ノ道ハ古書ニアリ、中古近古ノ道ハ、各ソノ時代ノ書ニアリ。今ノ道ハ今ノ世中ニアリ、異国ノ道ハ、各異国ノ書ニアリ。以上ノ道々ヲ、各其々ノ心ニナリテ、少モ混雑セザル様ニ、委シク明ラカニナラヒ学ビテ心得ル事、是文学ノ大体ニシテ、学者ノ本業也。*21

ここで、朖と宣長における〈道〉をめぐる言説について確認したかったのは、宣長以降の国学における思想的相貌である。このような、〈言霊音義派〉の国学者たちによる思想的実践を考えるならば、それは宣長が「凡ソ人ノ正音ハ此ニ全備セリ」*22と述べるように、〈皇国〉に介在している絶対的な「天地ノ間ノ純粋正雅ノ音」*23という論理と、彼らが依拠していた思想的前提は、大きく異なっていたことを提示したかったからである。なぜならば、朖は、〈声〉の固有的価値よりも、その普遍的価値の視座から、〈言語〉をめぐる問題を考えていた。朖は次のように言う。

言語ノマコトハ音声ナリ。カクノ如ク言語ノコヽロアル事ハ。天ノ下ノ人オシナベテノ事ナル故ニ。音声ノ上ニテハ。境ヲ隔テタル異国ノ言語ニモ符号スル事アリ。*24

ここまで、幕末国学言語論における思想的地平について確認するため、鈴木朖における〈道〉と〈言語〉をめぐる言説について分析してきた。〈言霊音義派〉の思想は、古代ヤマトコトバに対する信仰を理論化し、狂信性を帯びたものとして記述されることが多い。*25しかしながら、〈言霊音義派〉における思想的実践は、宣長が提起した〈皇国〉の論理を解体=再解釈することにより、かかる〈固有性〉の概念を剥離し、さらにその概念を自己拡張させ、〈言霊〉の世界と宇宙生成論を融合した言説を再構成していく。*26次節以降では、〈言霊音義派〉の思想家たちが織り成していく思想的世界について、高橋残夢の思想を参照にしながら、具体的に読み解いていきたい。

三.高橋残夢の〈言霊〉論―〈声〉と〈匂ひ〉―

本節では、高橋残夢の〈言霊〉論について検討していく。しかしながら、残夢をめぐる先行研究に関しては、これまで伝記的研究がわずかになされているだけであり、その具体的な思想については、十分に解明されていない点が多く残されている。まず、高橋残夢の略記について触れておきたい。

高橋残夢は、1775(安永4)年に、京都室町にて生まれており、残夢の父である平松正春は、富士谷成章に和歌を師事している。天明の大火のために、高橋家は備前国笠岡に移り、高橋美啓の養子となり、1813(文化10)年に香川景樹に入門している。しかし、1822(文政5)年に家産を没収されたことで、大坂に移り住んでいる。大坂では、山片蟠桃で知られる山片家で和歌の師匠を務め、また在坂における香川景樹門下の歌人に対して、指導的な役割を果たした思想家であった。*27残夢における〈言霊〉論は、『国語本義総説』(成立年不詳)の中で、次のように展開されている。

言霊と云事は。神代よりいひ伝え語り継て。藤原朝までは言霊知らざりけり人は。をさ/\世になかりけむを。漢学盛に行なはれ。文字を賞翫事を我人歓事となりて。歌を出にも。義訓などを風流なりとして。山柿の歌聖次々。義訓なる書き方多くし給へり。〔中略〕言霊と云もの忘れ行く世々に連て。訓義は説べき道を失へり故に。詮すべくなく文字によりて訓義を心得るとは成りぬ事なり。嘆くべし悲しむべし。*28

残夢は、古代日本に漢字が流入したことで、本来あるべき〈言霊〉の世界が失われたことを、悲嘆を込めながら批判している。しかしながら、残夢がここで語っている言説は、ほとんど常套句として使われたものであり、その意味において、この言説だけでは残夢の思想を読み解くことはできない。むしろ着目すべきなのは、残夢が続けて述べている一節にあると思われる。

近世古学専らに行はれて、学者次々に出てくるが故に、訓義は文字によりて弁ふべきものにあらずと、口にもいひ、書にもかけといかにせむ。其本を失ひぬれば、猶文字によりて説の外はなかりけり。又近世言霊唱ふる人、ここかしこにもあれど、言語名義の上にはいはずして、太占水茎など怪しき業をつくり出し、世の人を欺くが故に、心ある学者は中々にお嘲り笑ひ、耳にも触す。*29

残夢は、「近世言霊唱ふる人、ここかしこにもあれど、言語名義の上はいはずして、太占水茎など怪しき業をつくり出し、世の人を欺く」と語るように、この意味において、残夢は同時代の〈言霊〉論を唱えた国学者たちを批判しており、自らの思想は、それとは異にしていることを強調していることが読み取れよう。しかしながら残夢は、〈言霊〉という概念を、〈皇国〉の構成原理としてではなく、自己拡張させながら、天地普遍における原理として再構成していく。残夢は次のように語る。

抑言霊は。清濁七十五音の上。一声々々を魂有と云へる也。人は天地の分霊にして万物の長也。声は天地の声なり。暫く人に宿るが故に人声と云ふのみ。声は活物也。など霊なかるべき。鳥獣の上も猶然るべし。鶯の花にうたひ。郭公の月に鳴なるも。時を感ずる声なれば。など霊なからむ。〔中略〕此皇国に限る事と思ひそ。唐土天竺四海に渡りて。言霊なき国あることなし。霊なくして言語の通ふべきならず。*30

残夢は、〈言霊〉という存在は各音にそれぞれ魂が込められており、それは人に限らず、万物に存在していることを述べる。そして続けて残夢は、〈声〉というものは、たまたま人にもそれが宿っているだけであり、たとえば、鶯が花で歌い、郭公が月に鳴くような〈声〉と同じものであり、そしてこの意味において、残夢は「声は天地の声」であると語るのである。残夢において、〈言霊〉という存在が普遍的原理であることは、「声が天地の声」である限り、それは、「此言霊皇国に限る事と思ひそ。唐土天竺四海に渡りて。言霊なき国あることなし」と言及していることからも分かるだろう。このようにみれば、〈言霊音義派〉と呼ばれる国学者たちの思想的作業は、宣長における〈皇国〉の論理を切り崩しながら、「天地の声」としての〈言霊〉という前提を通しながら、その論理は展開されていくと考えることができるだろう。こうして残夢は、「天地の声」という言葉をめぐる〈始原〉の世界を見出していく思想的作業を試みていく。

いつらの声のいづれにすれど。天地開闢のことわりにて。口を開けばまづ「あ」の音ぞ出づ。次に唇を合はすれば、「お」の音出づ。次に歯と合すれば。「う」の音出づ。舌ふるれば「ゑ」とひらき。牙にふるれば「い」とひらく。是ぞ天地自然なる声にて音韻の原也。*31

残夢は、このように言葉の〈始原〉をめぐるコスモロジーについて語り出していく。「真洲鏡之図」は、残夢が「天地の常理」として提示したものである。(図1)

(図1)高橋残夢『霊の宿』(国立国会図書館所蔵)

 

f:id:n-shikata:20150103142804j:plain

「真洲鏡之図」は、一音ずつ各音を配置しながら、縦の音を「高天棚」・「天之棚」・「中ツ棚」・「地之棚」・「根之棚」として配置し、また横の音を、「真洲鏡の頂きに、天之中道内外としるしたるは、中柱今言は自他通言にて中柱に集れり。声は我も人も今為す業今言ふ言」*32と説明しながら、「自言」・「今言」・「他言」・「去言」の各音に配置したものである。この「真洲鏡之図」について、残夢は、「此五音の次第。次第に昇生ゆくは天地の常理なり。西は低く東は高し。西国人は声低く。東国人は調高し。此鏡の面にくわしく学べば。音の強中重状を必ず覚れり」*33と説明しながら、さらに〈音義〉論による視点を絡めて、次のような解釈を施している。

此図をして、「ますかがみ」といふは、「ます」は、「ま」・「さ」・「う」に約まり、「す」となる。「まさ」は正なり。「う」は動き働くなり。正働き発りて。「す」と中に集まりて。渡空し。「かゝ」の「か」は晴也。「か」は陰也。万物の陰陽善悪。正に此中に尚ひが故に。「み」と結びて。「ますかがみ」とはいふ也。古く「ますかがみ」といへるは。「ま」・「さ」・「お」に約して。正外に発るという義也。「お」は外に発る此霊なり。*34

このように残夢の思想は、〈音義〉論を組み込みながら、〈言霊〉の世界と宇宙生成論とが融合した独自の世界を織り成しており、その思想において、いわば繋ぎ目的な役割を果たしているのが、〈音味〉という概念である。残夢は〈音味〉という概念について、次のように解釈している。

「あ」は顕れ出る也。霊顕るゝの義。顕すの調の声の源。喉音末言なり。霊は音味なり。匂ひなり。「あ」の声は顕出の味匂ひあらはれる。〔中略〕夜明ければ万物形にさやかにあらはるにて顕るゝの義となり。あらはすの詞となりて変化せり。〔中略〕すべからく物名に一声名あり。詞に一声言あり。声の霊義よくにしるべし。*35

味という名義を考るに。「あ」は顕れ出之霊。顕れるの義。顕の詞。「ぢ」は満溢るゝ此義なり。天地之間に顕れ出るもの。「ぢ」と満溢れざるものなしといふ義と。皆天地日月水火舌別れ出る。舌気世に満溢るが知味(ママ)なり。天地日月水火各味生れいずる。天に生ずることの。地に産るゝ物。世に産るゝもの。すべからく味なり。〔中略〕音五味もまた百々千に己ふれて一味なかれば。耳にふれ。目にふれ。鼻にふれれ音味を知といへども。口にいひ。書にかくことわりならず。よりてあきらけし。*36

残夢は、「霊は音味なり匂ひなり」と述べるように、〈音味〉という概念に即しながら、〈言霊〉の世界を把握しようとしている。これを筆者なりに解釈すれば、残夢はそれぞれの〈声〉には、その文字を見るだけでは捉えられないような、〈味〉も〈匂い〉も有したものであり、この「声の霊義」の意味は、その〈音味〉が有している意味も同じく考えなければならないと、残夢は述べているように思われる。この〈音味〉という概念は、残夢における歌論的テクストの中にも言及されているものであり、その意味において、〈音味〉という概念は、残夢の思想的世界のなかでも、根幹をなす部分であったと言えよう。残夢は『和歌六体考』(成立年不詳)において、次のように述べている。

只天地の心に従ひて。人声を出すとき。音をたのめり。自然の六体匂ひききて、音はいにしへにあるべきなり。音は日月の山にをいがけるが如く。花実の本末に発るが如く。時に従ひて発り。口に唱ふべきもの也。時に色も匂ひもおのずから出くるが故に。声によりて人感ずべし。*37

このように、残夢の歌論もまた、〈音味〉という概念から和歌解釈が施されており、それは残夢における思想的独創性とも考えられることも出来るだろう。しかしながら、藍弘岳による次のような指摘を参照するならば、残夢における〈音味〉という概念も別の位相から考えられるだろう。藍は次のように述べる。

詩の体格と平仄韻律など「声」の抑揚・軽重などを調和させる句法、字法に現れた「色」「味」、及びそれに含意された「意」に関わる。〔中略〕「気象」という詩学概念があるように、詩がもつ含蓄的な意味と関わっている。「気象」は詩の「声律」と詩に使われた「辞」の「色」と詩全体がもつ「味」によって興って読者にたちに感じ取られる気勢と言外の韻致などと捉えられる。*38

以上のような、藍における指摘に基づくならば、残夢における〈音味〉という概念も、より広がりのある世界から再考できる余地が残されているように思われる。この意味において、藍による指摘は、残夢自身の詩文論の受容という問題だけではなく、幕末国学における詩文論の受容という問題について考えるためにも、示唆に富んだ考察であると言えよう。しかしながら、本稿では紙幅の都合上もあり、これ以上の分析はできないことを、あらかじめお断りしておきたい。次節では、富樫広蔭における〈言霊〉論について、検討を行いたい。

四.言葉の〈始原〉とコスモロジー―富樫広蔭の思想的世界―

本節では、〈言霊音義派〉の国学者たちの議論が、同時代において、思想的波及性を有していたことを提示するために、富樫広蔭の思想について考察を試みたい。しかしながら、高橋残夢と同じく、富樫広蔭における先行研究も少ないため、煩雑な労を厭わず、広蔭についての簡単な略記について、まずは触れておきたい。

富樫広蔭は、1793(寛政5)年に和歌山で木綿商を営んでいた井出由英の三男としてうまれており、1820(文政3)年には本居大平(1756-1833)に入門している。1822(文政5)年には、大平の養子となり、同時に本居春庭(1763-1828)に入門した。広蔭は春庭の『詞八衢』を学び、1850(嘉永3)年には、桑名中臣社の社家である鬼島家を継ぐが、1858(安政5)年に、富樫姓に帰っている。『詞玉橋』や『詞玉襷』を現しており、主にテニヲハ研究に力を注いだ人物である。1873(明治6)年に没している。広蔭の思想は、〈テニヲハ〉の問題から、その〈言霊〉論を構成していくものであった。広蔭は次のように述べる。

世ノ中ニアリトアル人。日毎ニ事業ニ就テ思フ心ヲ見ル。物聞ク託テ歌ニ詠イデ。文章ニ書著ス徒ハ更ナリ。吾ガ神作ノ言語ニテ際限ナキ物事ヲ辨テ。過生涯人タラム者ニハ。何業ヨリ最先言ノ深意詞ノ活用辞ノ例格ヲ教テ。諸藩国トハ殊ナル神国ノ言霊ノ神妙ナルヲシラセ。遠祖神ノ恩頼ノ広大ナル片端ダニ慥ニ信セテ。真ノ道ニ進ム。*39

言詞ニ繁助ケ。語ヲ成テ。幽キ意象ヲ顕尽ス音ニテ動クモ静レルヲアルヲ。〔中略〕然ル故ニ。言ナキニ詞アル事ナク。言・詞無テハ。辞ヲ用ル場所ナシ。マタ詞ヲソベザレバ。言ノ文ナク辞ヲ繁助テ語ヲ成セバ。言詞ノ意象ハ顕尽ベカラズ。*40

このように、広蔭は〈テニヲハ〉の世界に、「言霊ノ神妙」を見出す。このような、広蔭における思想的世界を提示したものとして、『言霊幽顕論』(京都大学附属文学研究科図書館本)がある。(図2)

このテクストにおいて着目すべきなのは、〈声〉の生成と宇宙生成を連関させながら、提示しているところにある。しかし、このテクストは図を示しただけであり、広蔭の注釈も、「ヒラケソムル象」・「ウキアカル象」・「キヨク立チノホル象」という説明がなされているだけであり、その詳細は分からない。この宇宙生成図を注釈したものとして、『古事記正伝抜萃』(東京大学附属文学部図書室所蔵本)・『神霊生成始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)・『神霊生成始原考講説』(神宮文庫所蔵本)などがあり、本節では、かかる未見史料も加味しながら、広蔭における〈言霊〉論の一端について触れてみたい。『古事記正伝抜萃』では、『言霊幽顕論』の中で提示した、宇宙生成図について、広蔭は次のように語っている。

サテ其正シキ「天地」ト言フ広蔭ガ創リテ考得タル音ノ義以テ委クイハヾ。「天」ノ「ア」はクルリト丸ク取廻シ開ケ対ヒテ、地ヲ覆メグリテ神気ヲ下シ恵ミ養フ義。「メ」ハ(ユ韻・ム音)ニテ。「エ」ト押シ。ソノヨセテコナタノ内ニ持タセタル生気ヲ。万物ニ送リ続ル勢ヲ「ム」と引ツメ持テ神気ヲ充満スルヨリ。地ニ生立万物ハ天ノ益人ハ更ナリ。ソノ益人ノ一日モ無クテハ立ウベカラザル。*41

「地」ノ「ツ」ハ丸ク堅マリ締リテ。「島モ締ルト同義也」一ツノ形ヲナシテ。ソノ地ニ生成出ル万物ニ。「チ」ハ(ツ音イ韻)ニテ。気力ヲ充満セ養育テ。「イ」ト地上ニ勢力ヲ持セ立延サセテ。形質ヲ調ル義ナルヿヲ。天地ノ神気ニ生気ノ奇シク万物ヲ産出マスニ。産日ノ夫々ノ暖和温潤ノ栖ヲ得サセテ。豊潤ニ莝生シ幸ヘ坐ス。*42

このような広蔭における「天地」に対する注釈を見れば、広蔭は〈言霊〉の世界を、宇宙論的なあり方を含意したものだと理解していたと考えることができるだろう。広蔭は、宇宙生成と〈声〉の生成が同時に進行していく過程について、次のように言及している。

其天地ノ神気生気ノ恵ヲ受テ生育ス。万物モ自然ニ天地ノ丸キ形象ニテ。大空ノ日月星トイヘドモ。悉皆丸キヲ常トスルヲモ考合スベキ。サテ地上ニ立述ル万物モ。天ノ神気ノ漸々ニ天地ニ帰テ。薄ラクニ従ヒテ自然ニ腰カヾマリ草木モ枝垂下リ。人モ草木モ共ニ暗ガチニナリ。神気ノ帰リ尽レバ地ニ倒レテ。元来地ノ生気ト又土ノ生気ニテナレル食物ノ性気トニ養育ラレタル形質ハ。根本ノ土ニ帰ルヲ見テモ。一身トハ御中主タリシ心。是ノ本源ノ天ノ御中主ノ御許リニ帰ルヿヲモ慥ニ察明ムベシ。*43

ソノ万物ノ生成出ル本源ノ神気ハ。悉皆天之御中主神ノ別魂ヲ賜ハレルニテ。ソノ身体ノ生成出ルハ。高御産日神・神御産日神ノ産栖霊ノ生気神気ニ。宇摩志阿斯訶備比古遅・天之常立ノ。ソノ二産日霊ノ生気神気ノ活機ヲソヘ坐テ。養育マス別天神五柱ノ御徳沢ニ洩ルヿナキヲ。仰ギ尊ミ喜ビ信ジ奉リテ〔中略〕コレラノヿ此神々ノ下ニ釈別タルヲ考合セテ。此ノ別天神ノ他ノ神々モ。知別坐御徳沢ノ麻尓麻尓恵幸賜ムヿヲ祈念申スベシ。コノ道理ヲヨク/\考エ合セテ。吾ガ言挙ノ空言ナラザルヲ了明スベシ。コレ則大和魂ヲカタムル大基本ナリ。*44

このような、広蔭における〈言霊〉をめぐる思想的世界は、『神霊生成始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)では、〈音義〉論の視点から、各音にそれぞれ記紀神話の神々を配置しながら、注釈を施している。広蔭は次のように述べる。

「紆」。天之御中主神。喉ヨリ初テ発ル息。口ノ中ニミチテノビ。ヒロカムルトスル象有テ。至ラヌ所ナキイキオヒフクム。天地ノサマ思合スベシ。紆ハハジメヨリヲハリカヌル音ナレバ。コノ韻凡テ万ノ物事ヲサシテイヒモ断テ止リモスルナリ。*45

「唹」。高御産日神。別名高木神。喉ヒラケテ。発息オノヅカラワカレ降リ。カトガヒニソヒ。スボリマリテナガクツヾキ。ヒロクウクル象有テ。キザシ昇ルイキオヒヲフクム。地ノナリソメノサマ思合スベシ。コノ韻スベテ討(ママ)ノ下ニツキテハタラクコトナシ。*46

広蔭自身の注釈に即して理解するならば、各音には天地創造の時点から神が宿っており、またこれらの各音はその神々の形象として表現していると考えることが出来よう。それは別のテクストである『神霊生成始原考講説』(神宮文庫所蔵本)においても、次のように言及されていることからも明らかだろう。

「紆」。平常ニ言語セザル時ハ。塞居ル口ヲ初テ発ケバ。口ノ中ニテ天地ト称ツベキ。顎願ヒラケテ。喉ノ奥迄ノ一段高キ高天原トモ称ツベキトコロニ。「紆」ノ音自然ニ独音(ママ)ニ成出ルヲ。永クヒケバ音ノ基本ハ。ソノ高天原トモ称ツベキ所ニ留リテ。余韻ハ口ノ中ノ天地ノ間ニ充満テ。五韻十音千言万語ノ根源トナルヲ。天地ノ形象ニ思合テ〔中略〕委シキ事ハ「古事記正伝」ニ云ルヲ見テ。ワガ神国ノ言霊幸マスヿノ寂尊(ママ)ヲ知ベシ。*47

「唹」。次ニ「紆」ト唱ナガラ初メテ発キタル口ヲ。三四分ヒラケバ。例ノ高天原ト称ツベキ所ニ留リテ。ソノ余韻ハ口ノ中ニテ地球ヲ称ツベク。一球ニ成テ長クモ広クモツヾキモ。表ハワカレツラナリモシテ。物ヲウケタモツ形象アリテ。キザシ昇リ万物ヲ地中ヨリ地上ニ産出ヘキ勢ヲ含メルヲ。天地ノ初発ノ形勢ニモ思合スベク。コノ韻ノ音ノ凡テ詞ノ下ニ属テ。アラハニ活ク事ナク。静辞トナリテ幽ヨリ活機ヲナス事。多カルフカキ理ヲモ委シク弁フベキコトナリ。*48

このように未見史料と合わせて検討すれば、広蔭が『言霊幽顕論』において提示した宇宙生成図とは、天地創造と共に神々が作られ、同時に〈声〉もまた生み出されていく過程を示したものとして考えることが出来るだろう。たしかに広蔭の思想は、従来の先行研究でも言及されているように、一見奇異な印象を受けるものかもしれない。しかしながら、広蔭だけでなく、〈言霊音義派〉と呼ばれる国学者たちが織り成した思想的世界は、桑原恵が指摘するように、中盛彬などの在村的知識人層にも見られるものであった。*49この意味においても、幕末国学における〈政治運動〉的な側面だけではなく、その〈言霊〉論が広範な思想的実践を有していた意味を再考する必要があると思われる。本稿で検討したように、鈴木朖や高橋残夢、そして富樫広蔭の思想的世界について考えれば、従来の幕末思想史研究が提示してきた歴史とは、また異なる思想的位相を素描できる可能性を有していると言えよう。

五.今後の課題

最後に今後の課題について触れておくことで、本稿を終えたいと思う。本稿では〈言霊音義派〉の国学者たちの言説をめぐって、言葉の〈始原〉とコスモロジーという視点から、その展開過程について考察を試みたものである。近年の研究では、とりわけ〈国学=音声主義〉として言及されることが多い。しかしそれは、あくまでも宣長の思想的作業から分析したものであり、他の思想的テクストも参照にしながら考えなければならない問題であると思われる。本稿で検討したように、高橋残夢は、〈言霊〉の世界の普遍性を疑わなかったし、鈴木朖もまた、〈道〉や〈言語〉の固有性という言説は存在していない。しかしこのような、〈言霊音義派〉の国学者たちが見出していく、〈言霊〉の世界とそのコスモロジーをめぐる問題は、これまでの思想史研究において等閑視されてきた経緯もあり、未だに検討する課題が数多いと言える。また彼らの思想は、その音図が、明治初期の学制成立期に一時期ながらも採用されていたことを想起すれば、実際には明治前期までは、思想的影響力を持っていたものと考えることができる。*50以上のように考えれば、〈言霊音義派〉の国学者たちの言語論をめぐる問題は、たしかに〈明治日本〉による〈言霊音義派〉に対する思想的解体という側面を孕みながらも、それは〈明治日本〉による言語的ナショナリズムの成立過程と同時進行的になされていくことは見逃してはならないだろう。この意味において、〈明治日本〉における言語的再編という大きな歴史的文脈から考察すれば、〈言霊音義派〉の思想が孕んでいた問題を別の側面から映し出せるものと思われる。今後は、本稿では考察できなかった、大国隆正(1793-1871)や堀秀成(1820-1887)の思想について、具体的に分析する作業を行うことで、より議論を深めていく必要があるだろう。以上のように課題は山積しているが、ひとまず本稿の筆を擱くことにしたい。

(図2)富樫広蔭『言霊幽顕論』(京都大学附属文学研究科図書館所蔵)

f:id:n-shikata:20150103150031j:plain

天地創造

f:id:n-shikata:20150103150134j:plain

第一図

f:id:n-shikata:20150103150156j:plain

第二図

f:id:n-shikata:20150103150229j:plain

第三図

f:id:n-shikata:20150103150251j:plain

第四図

f:id:n-shikata:20150103150314j:plain

第五図

f:id:n-shikata:20150103150333j:plain

第六図

f:id:n-shikata:20150103150356j:plain

第七図

f:id:n-shikata:20150103150416j:plain

第八図

f:id:n-shikata:20150103150509j:plain

第九図

f:id:n-shikata:20150103150528j:plain

第十図

文責:岩根卓史

(『日本思想史研究会会報』第30号。2013年。pp42-pp59。)

【付記】今回の論文転載において、画像引用の協力を国立国会図書館京都大学附属文学研究科図書館からいただいた。末尾ながら謝意を示したい。 

*1:平田篤胤『玉襷』巻九。平田篤胤刊行会編『新修平田篤胤全集』第六巻所収(名著出版、1977年)。p488。

*2:平田篤胤『古史徴開題記』。古伝説の本論。古史徴一之巻。山田孝雄校注(岩波文庫、1936年)。p33

*3:平田篤胤『古史本辞経』巻之一。発言叙言第一。平田篤胤全集刊行会編『新修平田篤胤全集』第十五巻所収(名著出版、1977年)。p416-p417

*4:平田篤胤『霊の真柱』、上つ巻。平田篤胤『霊の真柱』、子安宣邦校注(岩波文庫、1998年)。p15

*5:村岡典嗣復古神道に於ける幽冥観の変遷」(前田勉編『新編日本思想史研究ー村岡典嗣論文選』所収、東洋文庫、2004年。初出1915年。)p128。 

*6:近代日本の〈文献学〉をめぐる問題については、桂島宜弘『自他認識の思想史』(有志舎、2008年)。第四章「国学の眼差しと伝統の『創造』ー『想像の共同体』と国学運動」に詳しい

*7:村岡前掲論文。p129

*8:伊東多三郎『草莽の国学』(名著出版、1982年。初出1945年。)p1。

*9:安丸良夫『日本ナショナリズムの前夜―国家・民衆・宗教』(洋泉社MC新書、2007年。初出1977年)。p1。 

*10:安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波現代文庫、2007年。初出1992年)。p250 

*11:尾崎知光『国語学史の基礎的研究―近世の活語研究を中心として』(笠間書院、1983年)。p423。

*12:時枝誠記国語学史』(岩波書店、1940年。)p192。

*13:近年の代表的な研究としては、安田敏朗『植民地の中の「国語学」―時枝誠記京城帝国大学をめぐってー』(三元社、1998年)。イ・ヨンスク『「国語」という思想―近代日本の言語認識』(岩波現代文庫、2012年。初出1996年)。子安宣邦『日本近代思想批判―一国知の成立』(岩波現代文庫、2003年。初出1996年)などを参照

*14:時枝前掲書『国語学史』。p192

*15:鈴木朖『離屋学訓』。学問ノ主意。芳賀登・松本三之助編『日本思想大系 国学運動の思想』所収(岩波書店、1971年)。p364。

*16:同前、文学ノ大意。p373

*17:同前、言語ノ学ノ大意。p403。

*18:同前、四科ヲ取総タル論。p367。

*19:本居宣長『玉勝間』巻一。学問して道をしる事。大野晋編『本居宣長全集』第一巻(筑摩書房、1968年)。p47。

*20:本居宣長『漢字三音考』。皇国ノ正音。大野晋編『本居宣長全集』第五巻(筑摩書房、1968年)。p381-p382。

*21:鈴木朖前掲。『離屋学訓』。文学ノ大意。p373-p375。

*22:本居宣長前掲。『漢字三音考』。皇国ノ正音。p382。

*23:同前。

*24:鈴木朖『雅語音聲考』。鈴木朖『言語四種論・雅語音聲考・希雅』(勉誠社文庫68、1979年。)p58。

*25:豊田国夫『日本人の言霊信仰』(講談社学術文庫、1980年)などを参照。

*26:この点に関しては、友常勉『始原と反復―本居宣長における言葉という問題』(三元社、2007年)。終章「古道と権道」を参照。

*27:高橋残夢の伝記的研究は、亀田次郎「高橋残夢伝」(『言語学雑誌』第3巻3号、1902年)。木村三太郎『浪華の歌人』(全国書房、1943年)。管宗次『幕末・上方歌壇人物史』(臨川書店、1993年)などを参照。

*28:高橋残夢『国語本義総説』(静嘉堂文庫所蔵本)。一丁ウー二丁オ。本文中の句読点については、読者への読みやすさを考慮して、筆者の判断で付けた。文責は筆者にある。また、他の引用文についても同様に句読点を施した。

*29:同前、二丁オー二丁ウ。

*30:同前、二丁ウー三丁オ。

*31:高橋残夢『霊の宿』(国立国会図書館所蔵本)。一丁オ。

*32:同前、四丁ウ

*33:同前、三丁ウー四丁オ

*34:同前、四丁オ

*35:同前、六丁ウ。

*36:同前、五丁ウー六丁オ。

*37:高橋残夢『和歌六体考』(静嘉堂文庫所蔵本)。十七丁オ。

*38:藍弘岳「徳川前期における明代古文辞派の受容と荻生徂徠の『古文辞学』」(『日本漢文学研究』第3号、2008年)を参照。

*39:富樫広蔭『詞玉橋(改訂本)』。富樫広蔭『詞玉橋・詞玉襷』(勉誠社文庫64、1979年)。p16。

*40:同前、p17-p18。

*41:富樫広蔭『古事記正伝抜萃』(東京大学附属文学部図書室所蔵本)。五丁ウ。

*42:同前、七丁オ。

*43:同前、八丁オ。 

*44:同前、八丁ウー九丁オ。

*45:富樫広蔭『神霊始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)。一丁オ。

*46:同前、一丁ウー二丁オ。

*47:富樫広蔭『神霊始原考講説』(神宮文庫所蔵本)。二丁オ。

*48:同前、二丁オー三丁ウ。

*49:桑原恵『幕末国学の諸相―コスモロジー/政治運動/家意識』(大阪大学出版会、2004年)。特に第一章「中盛彬の思想Ⅰー『産霊』のコスモロジー」・第二章「中盛彬の思想Ⅱー『産霊』と『和歌』」を参照。また、最近の研究として、相原耕作「国学・言語・秩序」、末木文美士・黒住真・佐藤弘夫・田尻祐一郎・苅部直編『日本思想史講座3ー近世』(ぺりかん社、2012年)も参照。

*50:この点は、古田東朔「音義派『五十音図』『かなづかい』の採用と廃止」、古田東朔編『小学読本便覧』第一巻所収(武蔵野書院、1978年)を参照。

皆川淇園における〈開物〉の方法と〈象数〉の思考

 皆川淇園における〈開物〉の方法と〈象数〉の思考.pdf

 1.問題の所在

古今文理の異を知らんと欲せば、則ち須く古今名義の深浅の別を知るべし。某以為らく、此れ開物を以てするに非ざれば得べからざるなり。某、幼より書を読み、今半百に過ぐ。日夜孖々として思を積み、勤を積んで、竊かに周易の開物に其の道を得る所有り。用いて以て万物を開く。道徳名物に於ひて符節を合する若き有り[1]

 皆川淇園1734-1807)は、自らの学問が『易経』をめぐる長年の思索に導かれたものであり、その思想的方法を〈開物〉にあると述べている。皆川淇園は、円山応挙(173395)・池大雅(172376)・伊藤若冲17161800)などの画人や、上田秋成17341809)・六如(17341807)・柴野栗山(17361807)といった文人・学者とも幅広い交流があり、当代一流の文人としての姿が知られている。しかしながらその反面で、淇園の思想が理解されているとは言い難い。皆川淇園の思想を一言で規定するのであれば、〈開物〉という概念に帰着する。しかしその前提として、淇園が『易経』により導かれたと自らが語るように、〈開物〉という概念をひとまず明らかにしておく必要がある。淇園は〈開物〉という方法について、次のように述べている。

 蓋し余少きより、易を学び、年三十近きに及びて、易は開物の道に有ることを悟る。而して其の道は文字聲音に由り要とす。乃ち入ること得べし[2]

 このような淇園の言葉から明らかなように、淇園が構築した〈開物〉と呼ばれる思想的方法は、それぞれの有形・無形の事象が持つ正しい〈名〉の来歴について、〈文字〉と〈音声〉との相関性から明らかにしようとするものだと言える。淇園の有力な支援者であった松浦静山1760-1841)は、淇園について、次のような墓誌銘を書いている。

 先生、私に謂らく、「字義を知らざれば、文固より作るべからず、また解すること能はず、経の不明なるは、職ら是による」と。これより専ら字書に潜む。而るに、字書の訓詁、往々にして仮借し、その真を得ず。すなわち古人の用字の例を類集し、深くその理を思い、疑竇やや通ず。また、これに象形に取り、これを声音に求めて、すなはち始めて口の言ふ能ざるを得。ここにおいて、名・物の義、声・象に本づくことを悟り、曰く「名は声より生じ、声は物より生ず。物は天地・陰陽・四時の常ある者より生じ、道徳を統べ、性情を貫き、声気に発して、民言に著はる」と。故に『易』の「説卦伝」に曰く、「神なるものは、妙にして、万物に言を為す者なり」と。凡そ聖人の道は、弁名を要と為す。名明らかなれば、即ち物察らかに、物察らかなれば、則ち文義は正当なり。『易』の「繋辞伝」に曰く、「それ『易』は何をする者ぞ。開物成務(物を開きて務を成す)なり」と。また曰く、「開而当名、弁物正言(開きて名を当て、物を弁へ言を正すなり)」と[3]

 淇園における〈開物〉という概念は、『易経』の言葉である「開物成務」(「物を開きて務を成す」)という文言から取られている。本稿は、皆川淇園の〈開物〉という方法を思想史的文脈から措定し、その思想的意義について明らかにすることを目的としている。しかしながら、淇園の思想は独自に編み出した難解な用語や概念を伴うものであるためか、その思想には常に否定的な評価が付与されてきた。たとえば、中村幸彦が「論理的に一種の哲学に構成し、一派の学をそこに樹立しようとために、難解に堕り、後継者を得なかった」[4]とし、また中村春作が、「一面独創的であるが、また儒学思想史上きわめて風変わりな説」[5]と述べている。あるいは浜田秀は、「自ら作り出した概念によって、独創的な体系を打ち立てるということは、同時にそれまでの思想史からの切断を意味する」[6]などと言及していることからも伺えよう。このように見れば、淇園自らがテクストの内部において語る言葉とその思想世界は、確かに理解そのものを拒むかのような印象を我々に与えていると言える。しかしながら、皆川淇園の〈開物〉という方法は、「思想史からの切断」を必ずしも意味しないのではないか。というのも、淇園のテクストを一つずつ繙いていけば、当時の韻学の知識や明末清初期における思想的動向が介在しており、さらにその易学的世界も淇園独自のオリジナリティというよりは、〈象数〉論という古典中国世界における易学思想に根ざしたものであった。本稿は、上記のような問題意識から、同時代のテクストの周辺にも光を照らすことで、淇園における〈開物〉という方法を再考してみたい。

 

2.〈物〉を開くということ―皆川淇園における〈開物〉をめぐって

淇園における〈開物〉という思想的方法は、『易経』の言葉の「物を開き務を成す」という文言に由来しているのは、先述した通りである。本節では、〈開物〉という方法について、淇園のテクストを参照にしながら明らかにする。淇園は〈開物〉という方法をどのように規定しているのであろうか。淇園は次のように語る。

聖人は己が私智を舎て、天地日月の道の大規矩に当てて物の真実を得て、それを執る所とせんと求め給ふことなりと見ゆ。是乃ち易の開物の道の由て起こる所なり。……開の字の義は、門内にかくれたる物の、戸を明くるに随ひあらはに見へ来ることをも、見え来さすをも言ふことにて、此に開物といへるは物を見へ来さすことにすることなり。……聖人の易を以て開くことを求め給ふは別に又其の一種の、虚にして目に遮ることなく、唯人心に其の一成したる処の様子のみありて、触れあたりて覚ゆる所の物あり。是れ其の開くことを求め給ふ所の者なり。此の物は文字を其の宅とし、名聲を其の號として、人の言語にたよりて人の意識の間に往来出没する者なり。此の物は天下の神明の片われにて、至極大切なる者なり[7]

其の本と云は、譬へば仁と孝の如きは、其の仁と云ふ名の聲の内に仁の物寓し、孝と称する名の聲の内に孝の物寓せり。此の故は、天下之億兆の民の好悪是非のある處にて、それを言ふに各其の言語あり[8]

淇園は、まず『易経』という書物が、そもそも〈開物〉の道を明らかにしたものであり、その上で、〈開物〉という方法がいかなるものなのかを説明している。淇園における〈開物〉という方法は、そのままでは経験することができない「虚にして目に遮」られている事象を〈開く〉ことである。その事象は「仁と云ふ名の聲の内に仁の物寓し、孝と称する名の聲の内に孝の物寓せり」と述べるように、〈仁〉や〈孝〉という道徳的事象である。かかる経験不可能な事象を〈開く〉ためには、「人の意識の間に往来出没」して生み出された〈名〉、つまり〈仁〉や〈孝〉という文字に刻印されている〈声〉の意味をめぐる思索を深めていくのが、〈開物〉という方法である。淇園が『易経』を単なる「卜筮書」ではなく、「聖人の道」を示した書物であると規定したのは、かかる〈名〉と〈物〉の関係性を暗示したものだからである。淇園は次のように語る。

 周巳後、開物の道湮晦して、漢より以後は絶へて知る人なし。是の故に、八卦は唯卜筮の用の供するより外はなしとのみ思へることになれり。是は以ての外なる伏犠得之以襲気母といへるを視れば、八卦の本体は即ち天地間の気母なることを知れる人の言出せる説と見えたれば、後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見とは格別なることと思はるゝなり。されば伏犠氏の八卦を画せられたるは、天下に王たる入用にて製作し玉へるものなり[9]

夫ノ形気之合ハ、固ヨリ天地ニ法テ、而シテ成ルコト焉。而ルニ民、自リテ其ノ然ル所以ヲ知ラザル也。唯ダ聖人、天地ヲ識リ、之ノ別ヲ知リ、其ノ文理ヲ象リ、八卦ヲ作リ、以テ神明之徳ヲ通シ、以テ万物之情ヲ類シ、用テ以テ名物ヲ開ク。是ニ於テ名物ノ義、大イニ晰ラシメ、民之性情、皆已ニ統ベル。・・・・・・是レ故ニ開物ハ、聖人ノ道ナリ[10]

このように淇園の〈開物〉という方法は、『易経』が「聖人の道」を示した書物であることを提示し、その「聖人の道」の教えが暗示されている〈名物〉の意味を〈開く〉ことにある。言い換えれば、淇園の〈開物〉という方法は、『易経』という書物に導かれながら、一貫として〈名〉と〈物〉をめぐる徹底的な思索に依拠したものであったと言える。

蓋シ夫レ万物ノ名、皆上世ヨリ起レリ。上世ノ民、其ノ淳粋精明ノ智ヲ以テ、物ノ情ヲ観ルニ、理ヲ窮メ、性ヲ尽シテ、之レヲ象ルニ、声気ヲ以テス。夫レ然ル後ニ、万名出ヅ。名出テ而シテ後ニ、文字興ル。文字ナル者、其ノ名ヲ通ズル所以・・・・・・是ノ故ニ、字ハ未ダ尽スコト非ザル也トイエドモ、名物ハ本ヅクナリ[11]

淇園の〈開物〉という方法は、このように〈声〉そのものに暗示された意味を〈開く〉ことを試みるのだが、重要なのは、淇園は〈声〉という存在を〈神気〉という精神的作用が表出したものと捉えていることである。

其の言語の言ふ處は、並に皆其の物の名にて、其の物の名始めて作れるは、其の物の実の己が神気に触れ覚ゆるさまを感じ識りて、其の感じ識れるさまを、其の音聲を以て形容し出して其の名とせるものなり[12]

淇園は、このように内奥に隠された〈神気〉という精神的作用を通して、その「触れ覚ゆるさま」を感知するという心理的プロセスを経て、〈声〉は表出されるのだと説く。だから淇園は、この〈神気〉が天地に一貫して存在するが故に、この世界において〈声〉もまた存在していることを次のように述べている。

人ノ声音ハ、又其観感スルトコロノ、物ノ情態ニ隋ヒテ、ソレヲ形容シテ言フノ用ナル故ニ、此亦千万ノ変化トナレリ。サレバ声音ノ妙用ハ、其神気ノスブルトコロニ属セルモノニテ、其象自然ノ勢ニヨリテ、神気ヨリソレニ応感シ、其分々ニ応ズルノ声ヲ出セリ。是故ニ、心ハ神気ニヨリテ、其動ヲ作スコトヲ得。神気ハ声音ノ万別ニ乗リテ、其情ノ微至ヲ尽スコトヲ得ルコトナルニ、心ト声音トノ相於ケルハ、其中間ニ神気ヲ介シテ、直通ヲ得ベカラザルモノナリ[13]

さらに淇園における〈神気〉という概念は、心理に内在している〈神〉と〈気〉と連関させながら語られるものである。続けて淇園は、〈神気〉について以下のように説く。

本邦ノ人ノ平常日用ノ言語ヲ用ユルニ、思慮擬議ニ渉ラズシテ、大都皆言々節ニ中リ、其宜ニ協ヘルコトヲ得ル故ヲ明ラカニスベシ。凡ソ人ノ心中ニ動ク神気ハ、即チ天地間ノ神気ノ通ヒテ、人ノ心主ノ観感スルトコロノ、万象ノ変動ノ運為ヲ現シ、又因テ其心主ノ思擬ノ象ヲ作スコト為ル物ナル故ニ、其人々ノ心中ニ動クトコロノ、彼-我・屈-伸・出-入・往-来、千態万状、挙数ベカラザルモノナリ[14]

神、気ヲ使ヒ、気、形ニ就ク。気ハ其レ純和ニシテ、形ハ類ヲ以テ相応ズ。蓋シ神ハ気形ヲ統べ、而シテ動キテ以テ、和ニ至ル者ナリ。至和之道ハ、其ノ物必ズ先後有リ。其ノ用ニ必ズ次叙有リ。其ノ義、之レ起ル所ニ、必ズ彼我・主客之情有リ[15]

このように見れば、淇園の〈開物〉という方法は、独自の用語と概念による煩雑な論理から組み立てられているが、重要なのは淇園が「人心の分象」という問いを立てることで、言語における心理的な側面に着目したことであろう。その「人心の分象」を示した書物こそ『易経』である。淇園は自らの理論的テクストである『易原』の中で次のように述べている。

凡そ易の謂ふ所は、聖人天地日月を合す所以を、運行の道を象に相ひ推して、人心を興して、神を感観し、而してこれを思ひ、運動の用なる者を、この名を以て、これを易と曰ふ[16]

凡そ此れ八卦・九籌は、人心の所以を天地に分象する者なり。天地は万物の父母、万物は天地の子にして、故に八卦・九籌は、また万物に於いて分象するを以て用いるべし。唯だ是れは、人心の分象にこれ有らん[17]

このように淇園は、『易経』で示された八卦・九疇を「人心の分象」として捉える。つまり〈開物〉という方法は「人心の分象」の意味を把握するためのものであり、〈神気〉を介在させた「心主ノ思擬」を表出した事物としての〈声〉が有している表象をめぐる問題を解明することにある。

物、必ズ其ノ象有リ。象ナル者ハ、民心ヲ立テ、像スル所ノ者ナリ。之ヲ類スルニ声気ヲ以テスレバ、則チ写像ヲ得。其ノ像写シ得テ、然ル後、其ノ物喩スルコトヲ得。是ノ故ニ、言ハ声気ヲ合シテ以テ成ル者ナリ。其ノ用、万変窮マラズ。能ク万物ヲ象リ類スル者ナリ[18]

蓋シ字ハ、名ヨリ生ジ、名ハ声ヨリ出ヅ。是レ故ニ、字義ハ其実ヲ成ル所ニシテ、是ヲ物ト曰フ。物二民心在ルハ、其ノ象ヲ成スコトヲ、民因リテ之ヲ倣フ。以テ其ノ声物之類ハ、是レ故ニ之ヲ名ハ、声ナル者ニシテ、其ノ物之ヲ象ル所ニ存スル者ナリ[19]

このような淇園の思想を、櫻井進は「淇園は言語の本質を事物の客観的な表象ではなく、主観による事物認識という点に求めた」[20]と指摘しているが、まさしく淇園における思想的実践は、主観的主体に内在する心理の根源性を解くことにより、言語自体の根源性を解明することに繋がると考えたことである。それは、淇園自らが「心」の意味を次のように解釈していることからも分かるだろう。

心ハ神ニ於テ、其中ニ条理スルコト、而シテ以テ、物象ヲ箸シ含ム所ヲ称スルノ名也。其疇象ハ、其レ実ニ神ヲ道スルコト有リテ、条理而シテ以テ、体スル箸含ノ物ノ実ヲ紀スル象ノ類ト為ス也。又、臓ヲ心ト名ヅクルハ、神思条理ノ蔵ル所ヲ以テ、名ト為ス者也[21]

淇園は、「心」について、「神思条理ノ蔵ル所」と解釈しているが、その意味で淇園の〈開物〉とは、「心」の内奥に潜む「神思条理」を徹底的に〈開く〉ことを試みたものであると言えよう。これまで検討してきたように、淇園の思想的全体像を捉えるためには、テクストの内部に向きあいながら、自らテクストに沈潜していくような内在的読解の作業に没入せざるを得ない。しかしながら淇園の思想は、必ずしも全てが淇園独自のものではない。次節では、淇園の思想を強く規定していた、当時の韻学をめぐる思想的状況について考察を行う。それは淇園を取り巻いていた思想的周辺を見据えることにより、淇園が提唱した〈開物〉という思想をめぐる同時代性を再考する作業に繋がっていくと考えられるからである。

3.江戸思想における韻学―韻鏡論の周辺

本節では、淇園のテクストから離れ、淇園が先に見たような思想的方法を展開した歴史的背景を探るために、同時代の韻学をめぐる思想的状況について考察していく。なぜならば、淇園の〈開物〉という方法には、当時とりわけ隆盛していた『韻鏡』と呼ばれる音図集の解釈に基づいていたからである。淇園は次のように述べている。

夫レ開物ノ学、声ヲ尋ネテ意ヲ明ラカニシ、音ニ随テ義ヲ詮カニス。故ニ声音ヨリ之ヲ弁ヘルコト、寔ニ切要ト為ス。而シテ古義ニ通ズルヲ欲セバ、当ニ先ズ古音ニ求メルベシ。蓋シ周漢ノ音、李唐ノ音、尚、典刑ニ存胡ス。僧、七音ヲ鑑ミテ唐代ニ於テ作セバ。而シテ今ノ韻鏡ニシテ、其ノ胚膜ヲ承ケル者ナリ[22]

淇園はこのように、〈開物〉の方法とは、「声ヲ尋ネテ意ヲ明ラカ」にし、「音ニ随テ義ヲ詮カニス」ることだと述べている。その〈声〉をめぐる〈古義〉が示された物こそ、『韻鏡』と呼ばれる書物である。言い換えれば、皆川淇園の思想的方法は、『韻鏡』に依拠しながら、その書物に示された〈音韻〉についての解釈をひとつずつ積み重ねながら成立するものだと言えよう。この『韻鏡』という書物はそもそも何であろうか。以下にその概略を説明しておきたい。

『韻鏡』は、唐末期から五代十国時代にかけて成立した、四十三枚からなる音図集である。日本では中世の頃に輸入されたが、中国では原本が戦乱により消失してしまっている。輸入された当初は、真言宗の教学の内部でのみ行われ、『韻鏡』をめぐる解釈は秘伝とされていた。しかし室町時代になると、公家階層の人々が年号や人名の吉凶を占うために用いられるようになり、この時期を画期として、『韻鏡』は世俗化していく。さらに江戸時代に入ると、『韻鏡』をめぐる注釈が隆盛を極めた。それは主に人名判断などの占いをするための書物として『韻鏡』が扱われたからであった。この『韻鏡』をめぐる歴史を考察した先行研究としては、福永静哉や釘貫亨などによる研究が挙げられるが、かかる研究は、とりわけ〈日本語学史の発展〉という視座から構成されている[23]。本節はかかる研究状況についても念頭に置きながら、『韻鏡』をめぐる問題について論じていきたい。太宰春台(1680-1747)は、『経済録』(1729年刊)や『斥非』(1745年刊)の中で、『韻鏡』の爆発的な流布について、以下のように述べている。

又近世ノ俗ニ、名ニ吉凶有リトイヒテ、韻鏡ニテ反切スルコトヲ貴ブ。是ニ因テ反切シテ吉ナル字ヲ撰ブ故ニ、人ノ名多ク同ジ。……且吉凶ヲ云フニ因テ、一生ノ間ニ、幾度モ名ヲ改ムル者多シ。……願クハ上ヨリ令ヲ出シテ、韻鏡ニテ反切スルコトト、随意ニ名ヲ改ムルコトヲ厳禁セラルベシ。名ヲ反切スルコトハ、異国ハ勿論ナリ、日本ニテモ七八十年来ノコト也。是義理ヲ害シ、人ヲ愚スル大悪俗ナリ[24]

近時韻鏡の書、盛に世に行はる、則ち人名を反切するの事あり。其の法、人の二名なる者に於て、上の字を以て切母と為し、下の字を韻と為し、韻鏡に従ひて帰して一字を為す。因りて其の字の美悪を視る。美なれば則ち已む。悪なれば其の名を改む。……今日に在りては、王公より以下、庶人に至るまで、未だ反切せざるものあらざるなり[25]

春台が、「近時韻鏡の書、盛に世に行はる、則ち人名を反切することあり」と述べるように、江戸時代における『韻鏡』の流布をめぐる状況は、主に辻占い師などを担い手とした人名判断の流行という文脈で受容されていたことを示しているが、春台はそのような行為が起るのは、「韻鏡の韻鏡たる所以」を知らないことにあると嘆いている。春台は続けて言う。

苟も儒となりて、而して聖人の書を読み、中夏の道を聞く者にして、豈に宜く其の非を知らざるべけんや。如し其の非を知らざれば、是れ至愚なり。其の非を知りて、而して之れを為さば、是れ人を誑すなり。至愚は羞づべきなり。人を誑すは悪むべきなり。此に一あれば、以て儒と為すべからざるなり。噫、世の人名反切する者、亦何ぞ韻鏡の韻鏡たる所以を知らんや[26]

このように春台は、「韻鏡の韻鏡たる所以」を知らないまま、『韻鏡』という書物が単なる占いを行うためのツールとしてのみ使用されている現状について批判している。しかしそのことは逆に言えば、春台は「韻鏡の韻鏡たる所以」を知っていたとも言えるだろう。「韻鏡の韻鏡たる所以」とは何か。春台から見れば、『韻鏡』とは〈華音〉を学習するための基本的な書物であった。それこそ、春台が語る「韻鏡の韻鏡たる所以」であろう。春台は言う。

韻鏡ハ先ヅ須ク華音ヲ学ブニハ音ヲ学ブベシ。而シテ之ヲ習ヘバ然ルニ四聲ハ明ラカニテ可也。七音ヲ辧フベキ也。内外開合凡百ノ呼法ヲ悉ク分別スベキ也。夫レ然ル後ニ、以テ韻学ヲ講ズベキ也[27]

このように『韻鏡』は、徂徠学以降における儒者たちのあいだで、〈華音〉を学ぶための書物として受容されていたことを春台の言葉は示していよう。淇園もまた、徂徠学以降の江戸儒学をめぐる思想的文脈を意識せざるを得なかったのであり、その思想的文脈を考えなければ、淇園の思想について見誤ることにもなろう。同時代において『韻鏡』注釈の大成者として知られるのが、文雄(17001763)である。文雄の韻鏡論は、儒者だけで膾炙されることなく、同時代の知識人階層の人々に広く知られたものであった。例えば、本居宣長17301801)は、文雄について次のように評している。

 無相(文雄のこと―筆者注)といひしほうしの、非出定といふ書をあらはして、此出定をやぶりたれど、そはたゞおのが道を、たやすくいへることをにくみて、ひたぶるに大声を出して、のゝしりたるのみにて、一くだりだに、よく破りえたることは見えず、むげにいふかひなき物也、さるは音韻のまなびに、名高き僧なるを、ほとけぶみのすぢは、うとかりしと見えたり[28]

文雄の略記を簡単に述べると、1700(元禄13)年に丹波国に生まれている。14歳に玉泉寺というところで剃髪し得度した後、京都の浄土真宗大谷派にあたる了蓮寺で学んでいる。若くして江戸に遊学し、宗学のかたわらで、太宰春台から華音を学んでおり、江戸で数年間研鑽を重ねたのち西帰し、1744(延享元)年には、『韻鏡』の注釈書である『磨光韻鏡』を刊行している。先述したが、文雄の韻鏡論は広く読まれたものであった。文雄の『韻鏡』解釈が重要なのは、文雄は『韻鏡』を〈音韻ノ符〉として捉え、〈文字〉と〈音声〉の相関性を考えるためには、『韻鏡』しかないと考えていたことである。

韻鏡ハ、音韻ノ譜ナリ。夫レ音韻ノ譜有ルヤ、猶ホ方圓ノ規矩有リ。規矩有リテ、而シテ后ニ方圓ヲ正スニ、譜有リテ而シテ后ニ音韻調フコト、其レ焉ゾ之ニ由ラザレバ、蓋シ韻学ヲ講ゼランヤ[29]

韻トハ按ニ、三才判レテ、三籟備ル。自然ノ音韻、爾シテ其レ人ニ在ルナリ。情ハ内ニ動テ、外ニ形ハル、之ヲ声ト謂フ。声ハ文章ヲ成ス、之ヲ音ト謂フ。音ヲ和調スル、之ヲ韻ト謂フ。……韻ナルハ、之ヲ文字ニ寓ス。然レバ文字ハ、音韻ノ符ナリ[30]

文雄において、『韻鏡』が重要なのは、「情ハ内ニ動テ、外ニ形」れた〈声〉の心的イメージが、〈文字〉によって仮託しているからである。さらに文雄は〈声〉に内在化されている意味が『韻鏡』には隠されていると考えていた。文雄は『韻鏡』に示された音図を見ることで、「音ノ義」を探ることの重要性を次のように説いている。

韻鏡ト題名セルハ、音韻明鏡ノ意ナリ。韻ノ字ハ音ニ从フ。員ノ聲ニテ六書ノ中ニ諧声ノ字ナリ。音ノ類ナレハ、韻モ即チ音ノ義アリ。故ニ韻ノ一字ニ音韻ノ義ヲ具足セルナリ[31]

このような文雄による『韻鏡』に対する考え方は、淇園が捉えていた〈声〉をめぐる問題と同じ視座に依拠していたと考えられる。ここでは考察する余地はないが、江戸後期に出現する〈言霊音義〉派と呼ばれる国学者たちは、『韻鏡』を参照しながら、〈声〉に内在化された意味性という問題を、和文脈に置き換える形で新たに〈声〉の問題を再構成していく。その意味で、文雄の『韻鏡』解釈の問題は、より深く考察しなければならない課題であるが、ここでは指摘だけに留めておきたい。話を戻すと、文雄の『韻鏡』解釈は、先に述べたように、同時代における〈華音〉の習熟という文脈から理解しなければならない。文雄は次のように述べている。

故ニ韻鏡ヲ治メント欲スル者、先ヅ須ク華音ヲ学ブベシ。……今ノ韻鏡ヲ治メル徒ニ、反切ノ法ヲ知リ、反切スル所以ヲ知ラズ。亦安ソ韻鏡ノ韻鏡タル所以ヲ知ランヤ。此レヲ他ニ無クシテ華音ヲ学バザル故也[32]

このように文雄は、『韻鏡』という書物を〈華音〉の習熟において必須の書物として捉えている。なぜなら文雄によれば『韻鏡』とは、正しい漢字の〈音〉を伝えたものだからである。だから、現存する漢字で誤った〈音〉の表記があったとしても、古来からの正しい漢字の〈音〉は、『韻鏡』に全て提示されているとし、そのことを文雄は次のように説いている。

韻鏡ヲ用フルコトハ、一部ノ韻書ト合会シテ、読書ノ間、謬音ヲ正スベシ。……世人億兆謬リ読ムトイエドモ、其ノ非ナリト云フコトヲ知ルハ、唯韻鏡ノミナリ。漢音ヲ用テ儒書ヲ読ム人ナラバ、一々ノ音ヲ韻会ニ考ヘテ、韻鏡ニ移シ、其音ノ是非ヲ正シ……思ノ外ニ今マデ久シク読ミ来レル音ニ謬リアルコトヲ知リ、改メズンバ、学者ノ恥辱ナルコトヲ弁へ、韻鏡ノ用フヘキ、斯書ノ妙要ナル[33]

故に文雄は、『韻鏡』には〈華音〉の正しい「符節」が示されていることを語るのである。さらに、『韻鏡』によって〈華音〉は正しく習熟されることを次のように重ねて語る。

凡ソ字音ト呼ブモノ華夷ノ諸邦ト同ジカラス。古今ノ傳習スルノ音ハ漢呉ノ二音ナリ。漢音ハ儒家ノ用ヒル所トシ、呉音ハ佛家ノ用ヒル所トス。竊ニ按スルニ、二音昔日華人ノ傳フル所ニテ應スト雖モ、而シテ四聲ハ正シク五音ニ分ツル。今ニ於テハ展轉訛ヲ成シ、四聲殽乱シ、七音乗舛ス。清濁交誤リ。軽重分タラズ。之ヲ韻鏡ニ鑑ミレハ、則チ正律ニ協ス訛轉自ラ見ユ。渾然タル國音ナリ。故ニ二音共ニ和音ト称ス。近世中華ノ正音傳習ス。当ニ華音ト称スベキハ俗ニ唐音ト称ス其音ナリ。……之ヲ韻鏡ニ正スニ即チ符節ヲ合スルガ如シ。故ニ音韻ヲ学ブ者、必ズ華音ニ由ラベカラズ[34]

このように見れば、文雄における韻鏡論は、古文辞学における〈華音〉をめぐる思想的関心に呼応しながら形成されたものであると考えることが出来る。しかしながら、文雄の思想的重要性は、古文辞学が見出した〈華音〉の議論を『韻鏡』という書物に組み込むことで、〈音韻〉をめぐる問題を、儒者国学者たちによって新たに認識されるような思想的契機を作ったことにあると考えられる。その意味で江戸思想史研究の中でも、韻学をめぐる問題は再考すべき課題の一つであろう。ここまで韻学を検討してきたが、次は韻学から離れ、淇園のもう一つの思想的核心でもある易学の問題について眼を向けてみたい。従来の研究では淇園の易学思想をめぐる評価については、その〈孤絶性〉が強調されてきたが、淇園が依拠している〈象数〉論と呼ばれる易学の立場は、むしろ前近代の東アジアにおける思想史的文脈の中では、広範になされていた議論であった。次節では淇園の易学的世界に即しながら、〈象数〉論という思想について考察する。

4.皆川淇園と〈象数〉論―その易学的世界

 本節では、皆川淇園の易学思想について考察するが、その前提として、江戸時代における易占をめぐる状況についても触れておく必要があるだろう。江戸時代における易占をめぐる実態については、益子勝による研究が挙げられる[35]。益子によれば、江戸時代には既に寛永年間より、明代の易学書が船舶書目として渡来し、和刻本の刊行も盛んに行われた。しかし、『易経』の難解な注釈書よりも、雑占の実用書の刊行の方が多かったようである。淇園が「後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる浅はかなる見」[36]とし、『易経』という書物をかかる「卜筮の用」とは峻別し、「聖人の道」が記されたものとして理解したことは既に述べたが、このように淇園が語るのは、かかる時代的状況を踏まえた発言であろう。しかしながら、淇園の易学思想が理解されていない理由としては、中国思想史の分野ではすでに膨大な易学思想に関する先行研究の蓄積が行われているのに対し、江戸思想史における易学思想の位置付けは、現在でも未踏の領域であることも関係しているように思われる[37]。とりわけ淇園の思想の中でも易学思想の問題は、最も難解であり、先行研究でも、内部構造をめぐる解釈に留まっているのが現状である。そのような自らの易学思想の視座を、淇園は次のように語っている。

易ニ動有リ、静有リ。変有リ。通有リ。変ナル者ハ開ナリ。通ナル者ハ合ナリ。・・・・・・故ニ合、即チ是レ通ナリ。而シテ、変ノ動ニ依ルト通ノ静ニ依ルトハ、分跨ヲ為ス。常ヲ近数トシ、分跨ヲ遠数ト為ス[38]

このように、淇園の易学思想は、易における八卦の象徴性を〈数〉の法則性から読み解く立場であり、これは〈象数〉論と呼ばれるものである。〈象数〉論に代表されるように、易学において〈数〉をめぐる議論は、中国術数学とも関わる問題でもあった。川原秀城が指摘するように、術数学が天文暦算の問題と深く関わっているのと同じように、易学もまた『易経』で提示されたその宇宙原理を、易占で示される八卦の象徴性から読み解いていく学問である。つまり〈象数〉論とは、天文暦算の世界や、易学の八卦の中に〈数〉の法則性を見出していく思想的視座のことである。この意味において術数学と易学は、相互に二つの思考が緊密に連関しながら、一つの思考として存在していたと考えるべきであろう[39]。このような淇園の〈象数〉論を示したものが、九疇説と呼ばれるものである。

九疇ハ、人ノ天地万物ニ意測スル所ノ定範ナリ。尚書ニ、天、洪範九疇ヲ禹二賜ヒ、禹コレヲ用ヒテ以テ水土ヲ治スルヲ言フト伝フ。・・・・・・当時ノ賢聖、因リテ又其ノ九ヲ以テ範ト為ルノ義ヲ推広メ、洪範ノ書ヲ作リ、殷末ニ至リテ微子以テコレヲ周ノ武王ニ授ク。然レドモ所謂九疇ナル者、其ノ実ハ亦タ八卦二原シテ出ズ。而シテ八卦ノ画ハ、聖人コレヲ人ノ仰ギテ天ヲ観、俯シテ地ヲ察シ情理ヲ取レリ[40]

淇園は、「九疇ハ、人ノ天地万物ニ意測スル定範ナリ」と述べるように、〈九疇〉というものを天地を貫く原理として見出していた。この〈九疇〉は、『書経』の「洪範」篇において言及されているもので、天下を統治するための基本原理を九つの範疇(五行・五時・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極)のことである。この詳細については本論から逸脱するため、詳しく分析することはしない。しかし、このように見れば、淇園は天地の原理とは、〈数〉の原理でもあると考えていたのは明らかであろう。続けて淇園は次のように述べる。

天地ノ中ニ合エバ、則チ上下天地ニ感ズ。天地ニ感ジテ以テ常ト為ルハ、而シテ人心ハ神明ノ宅スル所ナリ。是ヲ以テ、人ノ天地ヲ観察シ、斯ノ徳乃チ其ノ中ニ見ハル。蓋シ、観察シテ感ズレバ、則チ其ノ意ヲコレ二識ル。コレヲ識レバ、則チ象ヲ成ス。象ニ分有リ。故ニ数乃チ生ズ。是レ故ニ、疇九有レバ、則チ以テ天地ヲ尽スニ足ル。而シテ我ト物トハ、亦天地ノ類ナル者ナリ。是ヲ以テ、其ノ数九ヲ以テスレバ、則チ亦コレヲ尽セリ[41]

しかし、『易経』で示された宇宙的原理を〈数〉における法則性と対応させながら考えるという、淇園の〈象数〉論をめぐる議論は、太宰春台にも散見されるものである。春台は晩年において易学に傾倒しており、『経済録』のなかで次のように述べている。

伏儀此数ニ因テ八卦ヲ作リ、八卦ヲ重テ六十四卦トナシテ、天地万物ノ理ヲ尽シタマヘリ。凡天地万物、何ニテモ数ナキ者ハナシ。人ノ上ニテ言ヘバ、生ルヽヨリ死スル迄、禍福升沈皆数アリ、万物ヲ言ヘバ、鳥獣魚鼈ノ生死、草木ノ栄枯皆数アリ。……一物一物ニ皆定数アリ、陶家モ是ヲ知ラザリテ、売ル者モ買フ者モ是ヲ知ラズ。是一物ノ上ニ具ハレル数ニテ、天地万物自然ノ数ナリ。此数ハ神聖ノ力ニテモ、移変スルコト能ハズ[42]

太宰春台における易学への傾倒については、考察する余地はないが、春台のかかる言及が示唆しているのは、江戸時代の儒家における思想的文脈から易学思想を捉え直す必要性であろう。淇園はまた「天地自然の数」の運動性が、同時に〈声〉の運動性でもあるとし、次のように述べている。

開物ノ法ハ、其ノ開キ欲スル所ノ声物ヲ審ラカニシ、而シテ先ヅ其部ヲ用テ之ヲ立テ、以テ其ノ名物ノ大意之レ在ル所ヲ為シ、次ニ其ノ勢ヲ用ヒテ之ニ乗ジ、次ニ四終ヲ用ヒテ之ニ乗ズ。勢ハ名物・彼我往来ノ情ヲ為シ、終ニ其情ノ相会・交際・深浅ノ分ヲ為ス……其ノ名物ノ彼我・動静ノ情状ヲ為シ、以テ上四物ハ是レ其ノ名物全体ノ景象ト為ス。其ノ動静・変通ヲ以テ、其ノ序ニ順ヒ、以テ之ヲ数ト謂フナリ[43]

淇園は、「見るべし、字書の訓詁は率ね真詮にあらざるなり。これをその声の象数に求むるは上なり」[44]と『問学挙要』のなかで述べているが、この意味で〈象数〉論とは、〈声〉と〈数〉の相関性に根ざした思考であった。淇園はまた次のように語る。

文字ハ義ヲ載スルノ器ナリ。文字ノ声音ハ其義ノ以テ人心ニ符スル所ノ根帯ナリ。其根帯タルトコロノ故ハ、初ニモ段々ニ云タルコトク、天地自然ノ数ニテ、人コレヲ其声音ニ発スルモノナリ。……其感スルコトハ、其中天地一定ノ至理其中ニ存スレハナリ[45]

このように見れば、淇園の〈象数〉論とは、〈数〉の普遍性こそが、同時に〈声〉の普遍性でもあると説く立場であると考えられるだろう。さらに重要なのは、淇園における〈象数〉論のあり方は、「この七部の説、また通雅に見ゆ」[46]と言及しているように、淇園も読んでいた方以智(16111671)の『通雅』(1643年成立)にも見られるものである。その意味において、淇園の思想は、明末清初期における〈声〉をめぐる新たな思想的動向とも深く関わっていた。方以智は次のように語る。

一を極めて参を両して、而して律暦は之を呼吸し身に符す。必ず数を以て、而して後に用ひず。然るに天地より人は生まれ、此れ秩序に適ふ。易は豈に天下の物を窮めんとし、数を以て合し、而る後に作らんとするか。自然の理は数より吻合し、而して至大と至微に違ひは無きなり。人と天地は万物より同根にして、而して心声を神明の幾とするは、数を言はんとすれば不可なり。而して数と応節し、即ち其の数にして物を度るべし[47]

平田昌司によれば、明末清初期において、易学における〈象数〉論が、韻学と結節しながら、新たな〈言語〉をめぐるあり方を模索するような動向が活発化したことを指摘している[48]。方以智は、その中でも易学を自らの家学としており、その思想も〈象数〉論的な思考に根差したものであった[49]。方以智における〈象数〉論とは、〈声〉と〈数〉の相関性から、さらに〈声〉をめぐる循環的と通時的な性格を捉えることにある。

世変して遠きなり。字変じて則ち形易し。音変じて転ずる者なるは、変極まりて本に反る。且く以て今日の音は唐宋を微し、両漢を微し、三代を微す。古人に多く方言を引き以て経伝を左証す。方言は、自然の気なり。音を以て古義を通ずは之に原くなり[50]

字は字にして皆な備わり、其の次に先天の韻を惟う。……韻を旋り真青するは、正に春秋二分の候に当る。故に其の声は和平にして、自然に相応じ、此れを以て調唱し、其れ竅に自りて階す[51]

このように見れば、〈象数〉論のあり方は、〈声〉の循環的な性格を捉えることにより、新たに〈言語〉をめぐる問題を構成していくものであったと言えるだろう。方以智の議論に呼応するかのように、淇園もまた、〈声〉をめぐる循環的な性格を語るのである。

今ノ天地万物ハ、即チ古ノ天地万物ナリ。慈二アル天地万物ハ、即チ彼二アル万物ナリ。其運ハ殊ルトイエドモ、其気ハ同ジナルコトヲ知ルベシ。其気同ジ事ナレバ、其声音ノ理モ殊ナルベキコト所謂ナシ。・・・・・・其感ズル所二隋テ其気ヲ知リ、其気二因テ其声音発スル事、古今四方ニ何ゾ差フコトアラン[52]

このような淇園の〈象数〉論は、方以智と同じく、時が変わっても、根源的には循環した性格が存在するものとして捉える。そのように考えるならば、易学と韻学との交差という淇園が持つ思想的な意味も新たに再考できるのではなかろうか。また淇園は、明末清初期において新たに提起された〈古音〉をめぐる問題とも深く関わっていた。最後にこの問題について考察を試みる。

5.皆川淇園の〈古音〉批判―明末清初思想の〈痕跡〉について

三代六経の音。其の伝を失するにや久しきかな。其の文は之に世に存する者、多くは後人に通ずる能わざる所にして。以て其れ通ずこと能はず。而して転以て今世の音に転じ之を改める。是に於いて改経の病有ることは、始めて唐より皇に尚書を改めることにして明らかなり。而しか後人は往往にして之を倣い、然るに旧きを曰ひて、今を改めんとするは、則ち其れ文に本くこと猶在り。……則ち古人の音亡びて、而して文もまた亡ぶ。此れ尤も嘆くべき者なり[53]

宇は猶宙の如きなり。宙は猶宇の如きなり。故に今言を以て古言を眎、古言を以て今言を眎れば、均しくこれ朱離鴃舌なるかな。科斗と貝多と何ぞ択ばん。世は言を載せて以て遷り、言は道を載せて遷る。道の明らかならざるは、職として是にこれ由る[54]

上に挙げたのは、顧炎武(1613-1682)が、『音学五書』において、中国古来における〈古言〉が現在において滅びたことを嘆いたもの。そして、もう一つは、荻生徂徠16661728)が、〈古言〉と〈今言〉が時間的な隔離があるものとして、認識していたことを示すものである。顧炎武によって、いわゆる〈清朝考証学〉は始まったという指摘は、数多くの先行研究の中で既に言及されている[55]。さらに徂徠における〈古言〉をめぐる視座が、その波紋を呼んだことも周知の通りであろう。しかし、淇園が〈声〉を循環的な性格を帯びた存在と捉える限り、顧炎武がなした〈古音〉の発見や、古文辞学における思想的作業は、むしろ批判されるべきものであった。その意味で淇園は、明末清初思想において見出された〈古音〉をめぐる問題について、江戸思想の側から受け止めた思想家であり、〈近世東アジア思想圏〉のあり方を考えるための契機ともなりうると思われる。本節では、本稿の最後として、淇園における明末清初に見出された〈声〉をめぐる問題への捉え方について考察してみたい。淇園は顧炎武を以下のように批判している。

詩は、呉才老が叶韻を論じてより、朱考亭のその説を取りて、以て詩註に入る。明末の顧炎武が韻学五書(ママ)に至りて、乃ち遂に協韻なきの説有り。清の毛奇齢、因りて古今通韻を作りて、以て顧の誤謬を斥く。……しかしてこの七部の説、また通雅に見ゆ。……余また考ふ。周の詩三百篇、韻を用ひる法は、乃ち皆同声相応ずるの法なり。……明の顧氏に至りて、乃ちその本音を併せてこれを易えんと欲す。殊に知らず、声音の道に於ける、その関係すること甚だ大なることを。顧氏が説をして盛んに行はしめば、則ち道息むに幾し。頼りて毛氏有りて弁じてこれを闢き、しかして後、古音の亡びざるを得たり。その後学に庇あり。謂ふべし、その功浅鮮にあらずと[56]

淇園は、このように「殊に知らず、声音の道に於ける、その関係すること甚だ大なることを。顧氏が説をして盛んに行はしめば、則ち道息むに幾し」と、顧炎武が〈古音〉の問題を提起したことで、「声音の道」が乱れたことを批判するが、注目すべきなのは、このような淇園の顧炎武への批判は、古文辞学に対する批判とも通底していることである。

古今、言に殊なる、人皆これを知る。然れども、秦漢以前を以て、概してこれを古へと称し、混同して別なき者に至るは、則ち疎なり。……則ち見るべし。周人已に自ら、その古言を難んずるなり。西漢また文武の世を去ること、更に隔遠を加ふ。……即ち古言の通じ難きこと、必ずまた倍甚だしからん。……西漢の人、その古言に昧き者、亦已に明かなり。然らば即ち秦漢以前、豈に古へを以て概称し、混同して別なかるべけんや[57]

このように見れば、淇園が顧炎武を批判したのも、古文辞学と同様に、その〈作為性〉を看取したからに他ならない。その意味で淇園は、その〈古音〉をめぐる問題を古文辞学と同じ地平で見ていたと言える。これまでの先行研究では、淇園の徂徠学批判については取り上げられることが多かったが、その背後にあったのは、明末清初において新たに見出された〈古音〉の問題が強く刻印されていたのである。淇園は、そもそも〈声〉とは、「自然ニ声ヲ作スモノ」と考えていた。

総シテ生民ノ間ニ我カ意ヲ彼ニ諭シ、又彼カ意ヲ我ニ知ルハ皆声音ノ用ニ非サルコトナシ。……禽獣ニハ人ノ如キ智慮ハ無ケレドモ其声ヲ聞テ其類ハ皆相感通スルコトハ、是其色ニ其物相感ナル自然ノ義ヲ具セル故ニ、教ヘズシテ知リ習ズシテ覚リ、又思慮モ工夫モナク、自然ニ此声ヲ作スモノナリ。サレバ人ノ声音モヤハリ其理ハ同ジコトナリ[58]

このような淇園における〈声〉をめぐる視座は、古文辞学や顧炎武の議論のように、〈古言〉と〈今言〉の隔離という議論とは異なるのは明らかであろう。さらに淇園は顧炎武批判の文脈において、顧炎武が『詩経』には、現在の音と相応する「協韻」がないとした言葉に対して、次のように批判している。

按ズルニ詩ニ協韻アリト云フノ説、皆事理ニ達セサルノ言ナリ。詩ハ古ノ歌ヒモノ孔子ヨリ始メテ刪述アリテ、此ヲ経ニ列シ給ヘル様ニモ見ヘタリ。……夫歌フ者ハ人ヲシテ其声ヲ聞キテ其義ニ相感動セシムル為用ナリ。……今人ノ稍〃詩ヲ作ルコトヲ鮮スル者モ能ク声律ヲ相調シテ、シカモ能其意ヲ言ヒ著ワス。況ヤ古ノ人ノ其歌ヲ制スルニ、若シ其声響ヲヨシトセハ、初ヨリ其字音ヲ相協シテ之ヲ作ルベシ。何歌フ時ニ至リテ其声ヲ変換スルコトヲ待タン[59]

このように見れば、淇園の〈古音〉批判は、〈声〉をめぐる循環性という視座から構成されているのは、明らかであろう。しかしながら重要なのは、その意味において、かかる淇園の思想は、明末清初期に見出された〈古言〉をめぐる問題を、自らの思想的課題として認識していたことであり、淇園のテクストには、その〈痕跡〉が見られることである。山口久和は、明代における〈復古〉という問題を、明代の文学史と思想史との〈相同性〉という視点から理解する必要性を指摘している[60]。本稿ではこれを十分に考察することはできないが、その意味で、淇園における〈古音〉批判も、明代の文学史や思想史的状況とも接点があったと考えるべきだろう。なぜなら淇園は、〈古音〉批判の文脈において、明末清初期に活躍した毛奇齢(16231716)の議論を参照にしているからである[61]

余家ニ清人毛奇齢カ著ワス古今通韻ノ一書アリ。頗ル具眼ノ説多シ。陳第・顧亭林カ古音ヲ言ヘルヲ破リテ論ヲ立ツ[62]

淇園が挙げている毛奇齢の『古今通韻』は、顧炎武の〈古音〉論を批判したものであり、毛奇齢は、次のように顧炎武を批判している。

詩本音の一書に、堅く「東」・「蒸」の通ぜざること、「侵」・「覃」の説を執る。其れ相い通じる字は皆な古音と曰ふ。「某」は後人に「某」の韻を入れて誤りと。……但し、豈に方に音は之れと同じからずことを云ふは、此の如きにては、則ち何を以て訓むべきとし、且つ何を以て詩を註すべきとし、且つ何を以て韻を論ぜんとすべきか[63]

このような毛奇齢による批判は、淇園と同じように、〈言語〉における循環性から構成された視座である。続けて言う。

其れ註せずとも翻切し、通じて以て皆叶ひ、正音無くとも、意に随ひて読むべきなり[64]

このように分析してみると、淇園は明末清初思想のテクストを参照にしながら、自らのテクストも同時に織り成していたことが明らかになろう。従来の研究でなされてきた淇園における古文辞学批判も、むしろ明末清初において見出された〈古音〉をめぐる問題が最初にあったと考えられる。その意味で、江戸思想史という文脈のみで考えると、淇園における思想的視座の意味も見落としてしまうのではなかろうか。そのためには、テクストに表れた〈痕跡〉について考える作業が必要になると思われる。

6.むすびにかえて

吾が性佞媚を喜ばず。……人、我佻にして薄と謗る。人と施報、従来に的的然として必ず効し、拘拘然として必ず従うこと、軍幕の将士、官府の吏隷の号令・約束・発微、期会においてする者を喜ばず。故に人は往々にして、我を簡傲とす。言語応酬の間、吾が心、時に動悸し、自ら斂束、省繹し、状、屡々楽しまざる者に類せり。故にその知らざる者は、見て不遜と為す。詩書を読んで文義を理む。すなわち常に好んで深く捜り、極め討ねて毫末に入り、奥賾を極む。幻眇微忽にして、口言うこと能わざる者に至りて、然る後に止む[65]

淇園は自らの学問的態度を、「詩書を読んで文義を理む。すなわち常に好んで深く捜り、極め討ねて毫末に入り、奥賾を極む」と述べるように、テクストに沈潜しながら、独自の思想的世界を織り成すような性格の思想家であった。確かに淇園の思想を分析するとき、それが織り成す思想を内部構造の側面から明らかにする必要はあると思われる。しかしながら、とりわけ本稿が試みたのは、淇園が織り成した易学と韻学とを交差させていく思想を読み解くとき、そのテクストの周辺に位置する同時代の韻学や易学をめぐる思想的状況にも光を照らすことであった。それは、これまでの淇園の思想をめぐる「思想史からの切断」という言及のあり方を見直し、一歩進めるような形での読解可能性を模索する試みでもある。また、本稿で分析したように、一見難解な淇園の思想を、明末清初思想の問題とも照合させて考えるのであれば、江戸儒学も明末清初思想と同じ思想的地平を共有しており、それも遠くない位置にいたといえる。皆川淇園はもちろん古文辞学への応答という形で、荻生徂徠の古文辞学を反駁したが、むしろそれは明末清初期において見出された〈古音〉を視軸に置いた言語論に対する淇園自らの疑念でもある。その意味において、淇園における〈古音〉への批判的言説が有した意味を考察することは、〈近世東アジア思想圏〉をいかに捉え直すかという問題とも関係したものであろう。このように明末清初期に見出された〈古音〉の問題を捉えるならば、それを和文脈の世界に置き換えていく、本居宣長による〈漢意〉批判が出現する思想史的な意味も再考できるのではなかろうか。そのことについて、江戸思想史における歌論の世界や詩文論の側面から明らかにすることが、今後の課題になると思われる。甚だ拙い本稿ではあるが、このあたりで筆を擱くことにしたい。

【参考文献】

 〈引用史料〉

 顧炎武「音学五書」(1667成立)、王雲五主編『音学五書』、台湾商務印書館、1968年。

 方以智「通雅」(1641自序、1643成立)候外廬主編『方以智全書』、上海古籍出版社、1988年。

 皆川淇園「均繇三十六則」(1761成立)国立国会図書館蔵。

 ―――「問学挙要」(1774)中村幸彦『近世後期儒家集』日本思想大系37巻所収、1972年。

 ―――「淇園文訣」(1787)国立国会図書館蔵。

 ―――「名疇」(1788)国立国会図書館蔵。

 ―――「淇園文集」(1799)、高橋博巳編『淇園詩文集』所収、ぺりかん社1986年。

 ―――「易学開物」(成立年不詳)、国立国会図書館蔵。

 ―――「易学階梯」(成立年不詳)、三枝博音『日本哲学全書』第九巻所収、1936年。

 毛奇齢「古今通韻」(1684刊)、『景印文淵閣四庫全書』、経部242 小学類。

 文雄「磨光韻鏡」(1744刊)、文雄『磨光韻鏡』、勉誠社文庫901981年。

 ―――「韻鏡指要録」(1773)、文雄『韻鏡指要録・翻切伐柯篇』、勉誠社文庫911981年。

 ―――「磨光韻鏡余論」(1807)、文雄『磨光韻鏡余論』、勉誠社文庫931981年。

 太宰春台「経済録」(1729)瀧本誠一編『日本経済大典』第九巻所収、明治文献、1967年。

 ―――「斥非」(1745)、池田四郎次郎編『日本詩話叢書』第三巻所収、文会堂書店、1924年。

 荻生徂徠「学則」(1727刊)、島田虔次編『荻生徂徠全集』第一巻、みすず書房1973年。

〈研究文献〉

 吾妻重二(2009)『宋代思想の研究』、関西大学出版部。

 荒木見悟(2000)『憂国烈火禅―禅僧覚浪道盛のたたかい』、研文出版。

 ―――(2008陽明学と仏教心学』、研文出版。

 井上進1994)『顧炎武』、白帝社。

 小川晴久(1974)「方孔炤、方以智の『通幾』哲学の二重性」、『日本中国学会報』26集。

 小野和子(1994)『明季党社考―東林党と復社』、同朋社出版。

 大島正二(1997)『〈辞書〉の発明』、三省堂。

 川原秀城(1993)「術数学―中国の「計量的」科学」、『中国―社会と文化』8号。

 ―――(1997)「数と象―皇極経世書小史」、『中国―社会と文化』12号。

 片岡龍(2001)「十七世紀の学術思潮と荻生徂徠」、『中国―社会と文化』16号。

 釘貫亨(2007)『近世仮名遣いの研究―五十音図と古代日本語音声の発見』、名古屋大学出版会。

 坂出祥伸(1970)「方以智の思想―質測と通幾をめぐって―」、藪内清・吉田光邦編『明清時代の科学技術史』、京都大学人文科学研究所。

 馮錦栄(1987)「方以智の思想―方氏象数学への思索―」、『中国思想史研究』10号。

 佐々木愛(1997)「毛奇齢の思想遍歴―明末の学風と清初期経学―」、『東洋史研究』562号。

 蔡振豊(2011)陽明学と明代中後期における三教論の展開」、松野敏之訳、馬淵昌也編『東アジアの陽明学―接触・流通・変容―』所収、東方書店

 高橋博巳(1988)『京都藝苑のネットワーク―』、ぺりかん社

 ―――(1991)『江戸のバロック―徂徠学の周辺』、ぺりかん社

 田尻祐一郎・疋田祐助(1995)『太宰春台・服部南郭』、明徳出版社。

 土田健次郎(2002)『道学の形成』、創文社

 中村春作・櫻井進(1986)皆川淇園・大田錦城』明徳出版社。

 櫻井進(1981)「『解釈』の成立―皆川淇園の開物学について」、『日本思想史学』14号。

 ―――(1983)皆川淇園の文学論」、『待兼山論叢』17号。

 清水教好(2006)「尾藤二洲の思想世界―明末清初思想と武家社会の朱子学のはざま―」、『奈良史学』24号。

 中村幸彦(1972)「近世後期儒学界の動向」、『近世後期儒家集』所収。解説。

 野口武彦1993)『江戸思想史の地形』、ぺりかん社

 浜田秀(2000)皆川淇園論(一)」、『山辺道』44号。

 ――― (2002)皆川淇園論(二)」、『山辺道』46号。

 肱岡泰典(1996)皆川淇園の開物学」、『中国研究集刊』寒号。

 福永静哉(1992)『近世韻鏡研究史』、風間書房

 平田昌司(1979)「『審音』と『象数』」、『均社論叢』9号。

 益子勝(2002)「江戸時代に於ける明代卜占書の受容について」、『二松』16集。

 水口拓壽(2010)「四庫全書における術数学の地位―その構成原理と存在意義について」、『東方宗教』115号。

 山口久和(1985)「明代復古派詩説の思想的意義」。『大阪市立大学文学部人文研究』第37巻。

 (大韓民国高麗大学校日本研究センター編『日本研究』第19号。ソウル、2013年。pp177-pp203)

 

[1]皆川淇園「太田玄貞に与ふる書」、高橋博巳編(1988)『淇園詩文集』所収、ぺりかん社p47

[2]皆川淇園「磨光韻鏡序」、前掲『淇園詩文集』、p143

[3]皆川淇園墓誌銘。門人平戸城壱岐守源清撰」。淇園会編(1908)『鴻儒皆川淇園』、淇園会。p62

[4]中村幸彦1972)「近世後期儒学界の動向」、中村幸彦・岡田武彦編『日本思想大系47 近世後期儒家集』所収、岩波書店

[5]中村春作・櫻井進(1986)皆川淇園・太田錦城』、明徳出版社。p40

[6]浜田秀(2000)皆川淇園論(一)」。『山辺道』44号。

[7]皆川淇園「易学階梯」。三枝博音編(1936)『日本哲学全書』第九巻所収。p396-p397

[8]前掲「易学階梯」。p399

[9]  同前。p394

[10]皆川淇園「名疇」。序説。二丁オ-二丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[11]同前。「名疇」。序説。一丁オ。

[12]前掲。「易学階梯」。p399

[13]皆川淇園「助字詳解」。皆川淇園(1978)『助字詳解』、勉誠社文庫78p15

[14]同前。p14-p15

[15]皆川淇園「易学開物」。開物総論。四丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[16]皆川淇園「易原」。二丁オ。国立国会図書館所蔵。

[17]同前。四丁ウ-五丁オ。

[18]前掲。「易学開物」。統述。一丁オ。

[19]同前。「易学開物」。開物総論。四丁ウ。

[20]櫻井進(1981)「「解釈」の成立―皆川淇園の「開物学」について」。『日本思想史学』14号。を参照。

[21]前掲。「名疇」。巻六。心。一丁オ。

[22]前掲。「易学開物」。訂正韻鏡説。十二丁オ。

[23]福永静哉(1992)『近世韻鏡研究史』。風間書房。釘貫亨(2007)『近世仮名遣いの研究―五十音図と古代日本語の発見』。名古屋大学出版会などを参照。

[24]太宰春台「経済録」。巻九。瀧本誠一編(1967)『日本経済大典』第九巻所収。p651

[25]太宰春台「斥非」。池田四郎次郎編(1924)『日本詩話叢書』第三巻所収。文会堂書店。p159

[26]同前。p160

[27]文雄「磨光韻鏡」。太宰春台序。文雄(1981)『磨光韻鏡』。勉誠社文庫90p7

[28]本居宣長「玉勝間」。巻八。「出定後語といふふみ」。大野晋編(1968)『本居宣長全集』第一巻所収。p244

[29]文雄「磨光韻鏡」。下巻。前掲。『磨光韻鏡』。p115

[30]文雄「磨光韻鏡余論」。上巻。文雄(1981)『磨光韻鏡余論』。勉誠社文庫93p36

[31]文雄「韻鏡指要録」。文雄(1981)『韻鏡指要録』。勉誠社文庫91p25

[32]前掲。「磨光韻鏡余論」。p41

[33]前掲。「韻鏡指要録」。p94

[34]前掲。「磨光韻鏡」。下巻。p126

[35]益子勝(2002)「江戸時代に於ける明代卜占書の受容について」。『二松』16集。

[36]前掲。「易学階梯」。p394

[37]中国思想史の分野から、易学思想を検討した最近の研究としては、吾妻重二(2009)『宋代思想の研究』。関西大学出版会。土田健次郎(2002)『道学の形成』。創文社などを参照。

[38]前掲。「易学開物」。遠近動静説。十六丁オ。

[39]川原秀城(1993)「術数学―中国の「計量的」科学」。『中国―社会と文化』8号。―――(1997)「数と象―皇極経世書小史」、『中国―社会と文化』12号などを参照。

[40]前掲。「名疇」。序説。四丁オ-四丁ウ。

[41]同前。「名疇」。序説。七丁オ。

[42]同前。p664-p665

[43]前掲。「易学開物」。開物総論。六丁オ。

[44]皆川淇園「問学挙要」。備資。前掲。『近世後期儒家集』所収。p82

[45]皆川淇園「均繇三十六則」。第八段。九丁ウ。国立国会図書館所蔵。

[46]前掲。「問学挙要」。p87

[47]方以智「通雅」。巻五十。切韻声原。侯外慮主編(1988)『方以智全書』。上海古籍出版社。p1514

[48]平田昌司1979)「「審音」と「象数」」。『均社論叢』9号。

[49]方以智の先行研究としては、馮錦栄(1987)「方以智の思想―方氏象数学への思索」。『中国思想史研究』10号などが挙げられる。また、方以智は、明清交替期に逃禅し、「三教一致」思想を深めた思想家としても言及がされている。詳しくは、荒木見悟(2000)『憂国烈火禅-禅僧覚浪道盛のたたかい』。研文出版などを参照。

[50]前掲。「通雅」。巻一。疑始。p79

[51]同前。「通雅」。巻五十。切韻声原。p1499

[52]前掲。「均繇三十六則」。第六段。八丁オ-八丁ウ。

[53]顧炎武「音学五書」。答李子徳書。王五雲編(1968)『音学五書』。p1

[54]荻生徂徠「学則」。第二則。島田虔次編(1973)『荻生徂徠全集』第一巻所収。みすず書房p74

[55]顧炎武の先行研究は数多いが、井上進1994)『顧炎武』。白帝社のみを挙げておく。

[56]前掲。「問学挙要」。備資。p87-p88

[57]同前。「問学挙要」。慎徴。p103

[58]前掲。「均繇三十六則」。第二段。二丁ウ-三丁オ。

[59]前掲。「均繇三十六則」。第三段。三丁ウ-四丁オ。

[60]山口久和(1985)「明代復古派詩説の思想的意義」。『大阪市立大学文学部人文研究』第37巻。

[61]毛奇齢については、佐々木愛(1997)「毛奇齢の思想遍歴―明末の学風と清初期経学―」、『東洋史研究』562号を参照。

[62]前掲。「均繇三十六則」。第三段。五丁オ。

[63]毛奇齢「古今通韻」。巻一。『景印文淵閣四庫全書』。経部242。小学類。p23

[64]同前。「古今通韻」。巻一。p25

[65]皆川淇園「清君錦越藩に赴くを送る序」。前掲。『淇園詩文集』所収。p18

 

歌における〈今〉の世と〈危機〉の言説ー『国歌八論』という思想空間

 

 

1.        問題への視座―「歌学史」が〈意図〉するもの

 本稿において、次のような問いを立てることは無駄であろうか。すなわち作者が、あるテクストの記述の〈始まり〉には、いかなる特権的な意味が付与されるのか。そして、作者はそれをどのように〈書き始める〉のか。本稿の主題は、言うまでもなく、『国歌八論』と呼ばれる歌学テクストである。しかしながら、『国歌八論』というテクストと、書記行為としての〈始まり〉には、どのように関連しているというのか。エクリチュールにおける〈始まり〉(beginnings)を考察するために、エドワード・サイードの『始まりの現象』を参照してみよう。

 つまり、始まりというのは基本的には、単純な直線的成就であるよりはむしろ、回帰と反復とを究極的に内意している活動であるということ、始まりや始まりの反復は歴史的なものであり、他方始原は神的なものであるということ、ひとつの始まりは、意図をもっているがゆえに、それ自体の方法を創造すると同時に、それ自体の方法でもあるということなどです。・・・・・・かくして、始まりの現象は根源的な厳しさを挫くよりは、それを確認し、また少なくともなんらかの革新が行われたことの、つまり事が〈すでに始まったこと〉の証拠を真なるものとして証明することになるのです*1

サイードが指摘しているのは、エクリチュールにおける〈始まり〉という現象は、「回帰」と「反復」であり、そしてそこには、つねに作者の〈意図〉が介在しているということである。ゆえにエクリチュールにおける〈始まり〉とは、つねに歴史的なものである。では、「歌学史」というエクリチュールの〈始まり〉は、いかなる意味をもつのか。「歌学史」の〈始まり〉。それはただ単に「歌学史」が最初に〈書かれた〉ことを意味しない。そうではなく、それを〈書き始める〉という行為自体が、「歌学史」が内意する〈意図〉と〈方法〉が規定されたということを意味している。佐佐木信綱(18721963)が著した『日本歌学史』(1910)の冒頭は、次のように始まっている。

 一般の用語例に従へば、文学といへば、主として創作上の産物の謂にして、文学史といへば、やがて各時代の作家の創作の変遷発達を記せるものたる観あり。歌学もしくは歌学てふ語は、之に比較し来れば、その語相似て、その意義ひとしからず。文学てふ語が創作上の産物を主とせるとは異なりて、歌学てふ語は、和歌に関する何らかの知識、もしくは学問を指せり。・・・・・・さらば、歌学とは如何なるものぞ。歌学てふ学問の明確なる意義は如何、と考へ来たらむか。そは一般の文学論に根柢を有し、根本的に詩歌とは何ぞやといふ問題に答へ、以て和歌の性質を明らかにせる、統一的組織的知識及び、それに付随せる各種の学問的研究ならざるべからずといへども、かかる意義に於ける歌学は今に於いて猶未だ成立せず。殊に、凡てに於いて学問的研究の幼稚なりし往時に於いては、さる企図だに之を求むべからず。さればかゝる厳密な意味にて歌学史を物せむことは殆ど不可能なりとせざるべからず*2。(傍点筆者)  

 佐佐木信綱における「歌学史」という〈始まり〉。しかしながら、その〈始まり〉において、「歌学史を物せむことは、殆ど不可能とせざるべからず」と、自らがそれを〈書き始める〉にもかかわらず、その言説的編制における困難性を表明しているのは、奇妙ではなかろうか。しかし、友常勉が指摘するように、「〈始まり〉が問題となるのは、それが固有の時間=〈ある時間の始まり〉を創出」し、また「〈始まり〉の言説は、ある歴史や文化が常に始原からの連続であると主張するときに立ち上げ」られる。そして、「〈始まり〉の言説が書かれるのはそれが歴史の危機に直面しているとき」に、記述されるのだ*3

 本稿における問題構成はここから出発する。佐佐木が「歌学は、今に於いて猶未だ成立せず」/「歌学史を物せむことは、殆ど不可能とせざるべからず」と述べるように、「歌学史」の言説的編制の困難性に対する認識は、〈近代〉の到来に際して、「歌学」なるものが存在しないということを示唆している。ゆえに佐佐木は「歌学史」を〈書き始める〉。それは、「ひとつの計画された出発点と結びついた何ものかへ向かって船出すること」*4を意味しているといえるだろう。佐佐木は〈始まり〉の続きとして、次のように語る。

然りといへども、之を歴史的に考ふるに、古来歌学として雑然と論じ来りしものゝうちに、さる歌学の萌芽とも見べく、また殊に近代にいたりては、極めて近き所論を述べられりしものあり、すなわち在来の所謂歌論これなり。・・・・・・殊に近世の自由討究の精神を以て研究せし諸学者にいたりては、深く和歌の根本に論じ入りて、厳密なる意義に於ける歌学に近き所論をも公にせり*5

これによって、「歌学史」は編制されていく。それは佐佐木が思い描く姿に近い「和歌の根本」を論じたテクストだけが、「歌学史」として記述されることを意味している。つまり、書記行為としての〈始まり〉こそが、どのようなテクストを「歴史」として記し、また、テクストを「読む」ことにより、テクストが含意しているものを定義づけ、いかにしてそれを「歴史や文化の連続性」を線条的時間の内部に刻み込むのか、という〈意図〉と〈方法〉を規定するのである。この意味において〈国歌八論論争〉は、〈固有の時間〉の創出との言説的連関性を有しているのである。次節ではそのことを論述したい。

 

2.   「芸術」と「政教」という枠組みを越えて

 

佐佐木における「歌学」というべき言説は、『日本歌学史』というテクストが編まれる時点においては成立しないものであった。佐佐木は「歌学史」という〈始まり〉に規定されながら、その「萌芽」を探し求め、エクリチュール周辺を浮遊する。革新、斬新、新奇、独創、破壊。これらの語は、どれも〈始まり〉との言説的連関

を含意している。〈新しさ〉という語は、テクストにおける画期性が提唱される時、つねに召喚される言葉である。佐佐木の近世歌論をめぐる記述は、その最たるものであろう。
 

近世の歌学は、文運復興の気運に乗じ、中世歌学の師承伝統の余幣に反抗して興り、文運復興の精神たる自由研究をその精神とせり。而して自由研究といふ精神の底には、皮相的なる師承万能主義を打破して、根本的に研究せむとの要求あり*6

 

一見しただけでも、その画期性を主張していることが読み取れるだろう。復興、反抗、自由、打破。散りばめられた〈新しさ〉というエクリチュール。しかしながら、それこそが、ひとつの計画された出発点と結びついた何ものかであることは確かだ。佐佐木は明確に近世歌論を、自分が思い描く「歌学」との親和性を見出していたことがうかがえる。佐佐木は、その中でも荷田在満の『国歌八論』を高く評価し、「翫歌論」について、次のように述べている。

 

在満が斯くの如き学説に主要を為すものは何ぞと云ふに、そは即ち、和歌は詞花言葉の翫びなりと説きて、新古今の歌風を主張せし点にあり。斯くの如きは、古学勃興時代の歌学の大勢より見れば、新奇の観あり。さらば在満が説の由来は如何といふに、吾人がこの章の始にも一言せし如く、彼在満が自得の見解なり。・・・・・・而して彼がこの詞花言葉の説は、わが国の歌学説が、自然説の極端に走らむとせし一般の欠点を補ひて、和歌の芸術としての性質を明瞭にせし点に於いて、歌学史上最も注意すべきものたり*7

在満の〈新しさ〉は、佐佐木によって、「芸術」という枠組みで捉えられている。しかしながら、このような規定は、すぐさま田安宗武と対置され、長年にわたり、「新古今/万葉主義」であるとか、「芸術至上/儒教的政教主義」という構図によって捉えられてきた。本稿で行う作業は、佐佐木による〈始まり〉を前提としないで、〈国歌八論論争〉を「読み直す」ことである。しかしながら、それは単なる再解釈という意味ではない。むしろ18世紀の徳川日本という時空に編まれた〈国歌八論論争〉というテクストを、同時代における〈歌〉への膨大な関心と言説が集約される〈思想空間〉として捉えることで、「読み直し」を行うことである。故に本稿では、単線的叙述や主張の羅列を論じるようなことはしない。

以上の視座を踏まえた上で、在満・宗武・真淵の言説的位相を考察する。

 3.        在満と〈今〉の世 

なぜ一八世紀徳川日本に、夥しい歌論書が生産されていくのだろうか。江戸時代の歌人たちにとって、〈歌〉とは何であったのか。彼らは多くの歌論書を書くことで、一体何を捉えようとしたのか。この問いは、本稿全体に貫かれた根本的な関心であるが、『国歌八論』というテクストは、一八世紀徳川日本において、もっとも読まれた歌論書だと言える*8。それを別の言い方をすれば、このテクストにおける〈歌〉をめぐる理念が、抗争的な性格を持っていたことを示している。

 〈国歌八論論争〉は、荷田在満(170651)と田安宗武171571)との論争に、賀茂真淵16971769)が宗武の主張に呼応する形で三者の間で取り交わされ、応酬されたものである。この論争の経緯を確認すておけば、1742(寛保2)年に、田安宗武の和学御用として仕えていた荷田在満が、宗武の求めに応じて、歌の存立意義に関する意見をわずか三日で書いて献上した。その見解に対して不満であった宗武が、『国歌八論余言』で在満に対して批判を加え、さらに賀茂真淵に『余言』を示して意見を求めた。真淵はそれに答えて『国歌八論余言拾遺』を草稿として提出し、さらに推敲して『国歌論臆説』として整えて再献上した。この真淵の回答に共感した宗武が『臆説剰言』を出し、真淵はさらに『再奉答書』を出して、意見交換がなされた。一方で在満も『国歌八論再論』を草して反駁し、最後に宗武が『歌論』を著した。この一連の論争が、〈国歌八論論争〉である。

 『国歌八論』(1742)で、つねに問題とされてきたのは、在満の「翫歌論」をめぐる解釈についてである。「詞花言葉を翫ぶ」とは、一体何を意味して言表されたものなのか。それを新古今主義的な態度の表れだと表現している学者もいれば、政治とは遊離した〈芸術性〉を表明したものだと解釈する研究者もいる。近年の研究で、子安宣邦は、在満の「翫歌論」の同時代的意義を考察し、「翫歌論」を〈生活から遊離した歌〉を要求するものとして捉えた。子安は次のように述べている。

 〈生活から遊離した歌〉とは、歌が己れの特設の場を、いいかえれば歌がその美を成立させるための特設の場を、すなわち言語的な表現技法への配慮・工夫が支配する場を要求することである。在満はその特設の場を支配する歌人のモチーフを「詞花言葉を翫ぶ」ことにあるといっているのである*9

 しかしながら、子安が主張するように「歌がその美を成立させるための特設の場」を要求した言説として「翫歌論」を捉えることは、いささか早急ではなかろうか。『国歌八論』が有した抗争的性格は、「翫歌論」だけを取り上げて語れるものではない。『国歌八論』の抗争性は、「美の自律」にあるのではなく、〈歌〉の普遍性とその歴史認識に関わる問題だと考えている。本稿では、その言説的位相について、より丁寧に腑分けしていく作業が求められる。在満における〈歌〉をめぐる視座は、次の「歌源論」冒頭の一節から構成されている。

それ歌は、ことばを永うして、心を遣るものなり。然るを、心に感ふことを見るもの聞くものにつけていひ出せるなり、とのみいひては、いまだ尽くさず。古事記日本紀に見えたる、伊邪那岐、伊にや邪那美の命の、「あなにやえをとこを」、「あなにやえをとめを」と唱えたまえるは、心を感ふをいひ出せるなり。されど、これをば「のたまふ」とのみいひて、歌といはざるは、たゞ唱えたまへるのみなればなり*10

 在満は、『古今集』の「仮名序」を批判しながら、歌とは「心に感ふことを見るもの聞くものにつけていひ出せる」ものではなく、「ことばを永うして、心を遣るもの」として規定したうえで、自らの感情表出だけでは、歌とはいえないという姿勢を示す。そうして、在満は歌の本来の姿を追求し、〈古〉の歌のありかたを探ろうとする。

 須佐之男の命の「やくもたつ、いづもやへがき、つまごみに、やへがきつくる、そのやへがきを」とのたまひしも、同じく心を思ふことを言ひ出せれるなれど、これをばまさしく歌といへるは、うたひたまへるなればなるべし。・・・・・・から国の歌を見るに、また同じく然り・・・・・・尚書の益稷にある帝舜、皐陶の歌ぞ六経の中に、始めて見えたる歌にして、乃ちうたひたまへるなることは、益稷の文にて明らかなり。げに、うたはざれば心を遣るべからず。うたふには、ことばを永うすべし*11

 「然れば、わが国も、から国も、歌はうたふものにこそありけれ」*12というように、歌における歌謡性に対して普遍的な価値を認め、それが本来の姿だと説く。そして、このような〈起源〉の認識を根底に置きながら、在満は「うたふもの」としての歌が、いかなる変質を遂げていくのかを見定めていくのである。それが在満における和歌に対する歴史認識のモチーフなのだといえよう。さらに在満は筆を進め、この「うたふもの」としての歌が変質していく契機を、中国からの「詞花言葉を翫ぶ」態度、すななち言語を修飾し、詠歌に込める態度が流入した時点に求めていく。

 然るにから国は、我国より文華の早く開けたる国なれば、毛詩より以後、漸くに詞花言葉を翫び、李唐に至りて、最も詩文の隆盛の時なり。唐の高祖の初めは、わが国推古の御宇に当り、盛唐は元明、元正のころに当る。その間、わが国にて、大津皇子始めて詩賦を作り、それより連綿として、作る所、みな唐詩を模せり。蓋しこのころわが国毛詩の漸く変じて、唐詩となれるを見て、わが国の歌も、これに准じて、始めて詞花言葉を翫び、その言葉の漸くに華に移りたるべし*13

 このように検討を重ねるならば、在満は従来いわれてきたように、ア・プリオリに「詞花言葉を翫ぶ」という姿勢を認めていたわけではないことが、理解できるように思われる。在満はあくまでも歌が本来持つべきものである、「うたふ」ための歌が、「詞花言葉を翫ぶ」歌へと変質してしまった過程について、中国からの影響を射程に入れながら語っている。つまり在満は、詩歌における詩的言語としての「うたふ」ことと「翫ぶ」ことへの〈変化〉を、ただ単に肯定しているわけではなく、その詩的言語における性質が根本的に〈断絶〉したものとなったことを指摘しているのである。いいかえれば、在満における詩歌に対する歴史認識は、中国を基軸にしながら、詩歌における歌謡性=普遍性という視座によって貫かれているのだ。そして在満によれば、「うたふためにする」歌と「詞花言葉を翫ぶ」歌との差異が明確に出現するのは、『古今集』であるとする。すなわち詩歌における詩的言語の性質が変化する分水嶺として、『古今集』は定位されるのである。それはまた、〈今〉における歌の現状をも規定してしまうような決定的な出来事であったと在満は捉える。

 古今集に至りては、大御所の歌、東歌の類を除きて、外はうたふとは見えず。この時に至りては、詞林既に隆盛の時に至り、専ら巧拙を論じて、その優なるのみを撰びたること、序文にて明らかなり。これより後、今の世に至るまで、同じく詞花言葉を翫ぶが故に、あるは風姿の幽艶なる、あるは意味の深長なる、あるは景色の見るが如き、あるは難き題を詠み得たる、あるは連続の機巧なるを喜びて、その優劣を定むるに於いては、異なることなし*14

 在満は『古今集』を分水嶺として捉えることで、「うたふ」ための歌から、「詞花言葉を翫ぶ」歌へと変質していく過程を、「歌源論」のなかから遡及していくのである。このように、在満の言説を分析していけば、『国歌八論』は、有り得べき詩的言語からの離脱として歌の歴史を捉え、「詞花言葉を翫ぶ」ことが本質として受容されてしまった、〈今〉の世の歌はいかにあるべきなのか、という「問い」を含んだテクストだといえる。故に、『国歌八論』の抗争的性格とは、歌における〈今〉の世という歴史認識にこそ求められるべきであろう。かかる問いを抱えながら、在満は有名な「翫歌論」を語りだす。つまり、「歌源論」と「翫歌論」は深い言説的連関性が見出されるのである。在満は次のようにいう。

 歌のものたる、六芸の類にあらざれば、もとより天下の政務に益なく、また日用常用に資する所なし。・・・・・・されば歌は貴ぶべきものにあらず。たゞその風姿幽艶にして、意味深長に、連続機巧して、風景見るが如くなる歌を見ては、われも及ばんことを欲し、一首もかなふばかり詠み出でぬれば、楽しからざるにあらず。譬へば画者の画き得たる、奕者の棋に勝ち得たる心に同じ*15

 在満における「翫歌論」とは、〈芸術性〉を重んずる姿勢として打ち出されたものでもなければ、単に〈社会に遊離した場〉を要求するために語られたものではない。それは和歌の時代的変遷を捉えながら、「今ここに存在している歌とは何か」という問いに対する、一つの回答であった。だから、在満は次のように語るのだ。それは、単なる現状肯定というよりは、在満が見た〈今〉の世における歌をめぐる、同時代的な歴史認識として考えた方が妥当ではないだろうか。

 今、雅楽淫声の、耳を悦ばしむるものが多き中に、自ら作りたる詞なればとて、いかなる節をつけてうたひてか、心を遣るばかり楽しかるべきなれば、姑らく歌の本来を捨てゝ、世と同じく詞花言葉を翫ぶに若かず*16

 このように『国歌八論』を腑分けしていけば、在満を「芸術至上主義者」という表現では片付けられないことは明らかである。『国歌八論』が投げかけた波紋とは、〈今〉の歌を「うたふこと」の喪失として捉え、その詩的言語における普遍性=歌謡性を失った時代がいかなる時代であるのかということを提起したことにある。このような在満にみられる歴史認識は、論争当事者である宗武や真淵にも共有されていた認識であった。しかし、在満は〈今〉という時代の不可逆性を肯定する。〈今〉の時代は、〈今〉における歌の形式によって、詠歌されるべきであるという主張は、歌をめぐる〈危機〉がそこにはないことを逆説的に示している。田安宗武における歌をめぐる言説は、在満が暴露した〈今〉の歌に対する〈危機〉を読み込む。つまり、宗武は〈今〉の世を批判的に捉えることで、〈古〉の世界を召喚するのである。

 4.        田安宗武における『詩経』の復権

田安宗武は従来の研究において、「儒教的政教主義者」として総括されてきたことは否めない*17。だが宗武は「万葉主義者」でもなければ、「政教主義者」でもない。そのように総括した途端に、宗武が〈国歌八論論争〉という思想空間のなかで、何を語り、そこに内意されたものを見落としてしまう。宗武は〈今〉の世における歌という在満が提起した問題に呼応している。宗武においても、やはり〈今〉の世の歌をめぐる現状認識を含意したうえで、〈国歌八論論争〉を構成していくのである。宗武における〈今〉の世の歌は堕落したものであった。それをいかにして回復していくべきなのか。宗武はその回答を、『詩経』に本来あるべき詩歌の姿を希求していく。宗武は在満の「翫歌論」が提示した問いに対して、次のように述べる。

 舜は五すぢの緒の琴を弾き、南風の歌をうたひたまひて、天下を治めしとか、実に人の心を和らぐるは歌の道なり。されば聖の御代、礼楽を重んじたまへり、かの楽といふものゝ中には、歌も、舞も、弾きものも、吹きものも、鼓ちものも、みなこもりてあるべき、さればうるわしき歌は、人のたすけとなり、あしき歌は人をそこなふ。・・・・・・されば雅楽廃れて後も、聖、なほ詩経といふふみを撰ばせたまひて、人を導きたまふなり。これ後世、うたふにもしもあらねども、人の心を和ぐることは、常のことばには、いたく勝りぬわざなるべし*18

 宗武はこのように「礼楽」としての歌を重視し、人の心を和らげる歌が存在していた古代中国の姿、とりわけ『詩経』を理想化するのである。宗武の議論に朱子学的治道論が背景になっていたことは、容易に読み取れるだろう*19。この理想形としての『詩経』を対比したうえで、宗武は〈今〉の歌の有り様を語る。それはまた豊かで美しい歌の世界が衰退していく過程でもあった。

 世の末になりゆくまゝに何の意もあらで、たゞめづらかに、華やかなるをのみ好み詠み出づるほどに、果ては人のため、よしあしき便りとも、なるべきものにもあらず。なほたはれたる媒となるべし*20

 つまり、宗武における〈今〉の世の歌に対する認識は、「たゞめづらかに、華やかなるをのみ好み詠み出づる」ようなものへと堕落し、「礼楽」としての詩歌ではない、ただ形骸化された歌が残されたという認識である。宗武が「翫歌論」に異議を唱えたのは、在満が詩歌の普遍性を歌謡性の喪失として捉えたのに対し、宗武が考える詩歌の普遍性とは、「たゞ歌は、おのが情、喜び、哀しみ、楽しむほどにつけて詠み出づるもの」*21と述べていることからも理解できるように、人間における「情」を表現する詩的言語機能として、詩歌の普遍性を認識しているのである。その十全たる姿が〈古〉には存在していたと説くのである。宗武が在満の「翫歌論」で提起された、「今ここに存在している歌とは何か」という問いから読み出した〈危機〉の言説は、〈古〉を召喚することにより、〈今〉を批判する視座から語られるものである。

 古の人は、かくおのが心のまゝに、詠み出でしなり。さればその中には、同じさまなるもあり、或は巧ならぬもあり、また悪しきもあれど、みなおのが思ひ入りつる所を、そのままに詠み出でたればにや、あはれなるふしぶしあること、今なんが見るが様に、おぼゆるも多かるぞかし*22

 宗武は、詩歌における本質的な姿を回復していく方法を『詩経』の復権に求めていく。つまり、宗武は〈今〉の世で堕落してしまった歌を打開する戦略として、『詩経』に見出された〈古〉を召喚するのである。

 またおのづからも、はた設けても、さる心よまんはわづらはしからざらんかといひしは、則ち詩経の心にこそ侍らめ。詩経とても皆理りをいひたるのみにはあらず、葛箪の編の如きは只事をのべたるなり。されば此の国のよしあし定めんも、詩経の心にたがふべからず*23

 

宗武を「万葉主義者」として看做すことは、もはや不可能である。確かに宗武には『歌体約言』という重要なテクストがあるが、それは〈国歌八論論争〉以後の文脈から捉えるべき問題であり、もう少し別の検討が必要であろう。〈国歌八論論争〉での宗武の位置付けは、『詩経』において見出される豊潤な詩歌の世界を提示することで、〈今〉という時代性を批判可能とする視座の構成を行ったことにある。では、最後の当事者である賀茂真淵に対しては、どのような定位が可能なのだろうか。次節ではそのことについて検討してみたい。

 

5.        賀茂真淵の詩的言語認識

 宗武は「臆説剰言」で、真淵との意見の相違について、「国歌臆説は大むね我言ひし処に同じ。只歌の源の論と歌をもてあそぶの論と少しく異なり、かのたがひも枝葉の事也」*24と語る。しかしながら、果たして宗武の言葉を鵜呑みにしてもよいのであろうか。なぜなら、真淵は、在満と宗武との間では一致していた、二神の唱和と片歌は歌ではない、という問いに対して、次のような見解を示すからである。

 「はしきやし、わきへのかたゆ、くもゐたちくも」という歌に、此者片歌也、とあるを見れば、この三句などある類ひを、片歌といひ、詞もかざらず、感ふ所を直ちに歌ひ出したれば、歌の始めは、言の短くぞありつらん。片歌といふことは、五句の歌あるがうへにての名なるべけれども、名は後にて、事は先なることも知るべからず。されば二神の大御言もなほ歌の起こりといはんかし*25

 真淵は、「感ふ所を直ちにうたひ出す」ことを歌の本質として規定し、その意味で在満と宗武によって否定された、片歌は歌ではないなどと言える根拠はないということを述べる。つまり、真淵は在満のように、「ことばを永うして心を遣る」という詩的言語機能と、「心を感ふこと」を率直に歌に仮託して表出する詩的言語機能に、〈断絶〉ではなく、〈連続〉を認めているのだ。しかしながら、真淵においても〈今〉の世の歌という時代認識は共有されたものであった。真淵による問題構成は、宗武が『詩経』というテクストの内部に回帰することで、〈古〉を召喚するのとは異なり、歌そのものへの根源的回帰こそが〈今〉の世で最も必要だと考えていたことであろう。その位相はやはり重なり合いながらも、認識論的には〈差異〉がある。故に真淵は、「心に感ふことをうたひ出す」歌とは何であるのか、という問いを提起していく。

 それ歌は心に感ふことをうたひ出すなり。或はひとりも、或は人に対ひてもその意の、まめにも、やさしくも、あはれにもあらんに、詞なびやかに、声も事に随ひて、たゞしくも、おもしろくも、かなしくもあらんは、おのが心のゆくのみかは、聴く人の心をも慰むるわざなり*26

 「心に感ふことをうたひ出す」というモチーフで重要なのは、詠歌における経験と心情の同一化である。真淵はそのことを主張しているのだ。つまり、真淵における歌への根源的回帰とは、ア・プリオリに前提されたものであり、「心を感ふことをうたひ出す」歌が共有されるならば、その共同体も全体的な〈古〉への回帰できることを主張している。真淵は次のように述べる。

 歌は用なきに似たれども、心を遣り人をなごし、ひろくは政のたすけとなるべくは、誰か詠まざらん。況や上好めば下はた好む。上、いにしへの意詞を用ひば、下はた古にかへるべし*27

このように真淵は、「言葉を永うして心を遣ること」と「心を感ふことをうたひ出す」という詩的言語をめぐる認識は、〈連続〉という位相において把捉される。そして真淵は歌における根源的本質を蘇生するために、〈古〉を呼び戻す。それは宗武と真淵との大きな認識論的差異である。それが鮮明に表れているのは、真淵による朱子学批判によって示唆されているだろう。真淵は〈国歌八論論争〉において、歌における「理」と「感」との相違を主張し、「感」の優位性を説く。

 さて宋儒に至りて専ら理をもてこれを説き、ひとへに勧善懲悪の為とす。凡そ理は天下の道理ながら、はた理のみ天下の治まるにあらず。詩はまことをのべ出すに、そのおもふごとくの実情みな理あらんや。たゞ理は理にして、それが堪へがたきおもひをいふを、和の語にわりなきねがひといふ。たとへば花を強ひてまち月にいたく惜むがごとく、はかなきことすら時にふれてはさる事侍り。まして身の存亡にかかれんことをや。そのわりなきねがひをたゞにいはば、たれかみな哀れとせん。詞やさしく声あはれにうたひなん理の外にて人情の感ずるものなり*28

 真淵における「感」の優位性を説く主張は、在満が提起した〈今〉の世における歌が、まさしく〈危機〉に曝されているという認識と結びつく。しかしながら、留意しておかなければならないのは、彼らが〈国歌八論論争〉の内部で、常に参照軸にしていたのは、漢詩とそれが含意する普遍性を前提にしていたことである。しかしながら、この論争が確かに孕んでいた予見性も言わなければならないだろう。〈今〉という歴史認識と、それに対する〈危機〉として召喚される〈古〉をめぐる言説がそれである。このような認識は、宣長がさらに評をつけることで流布していくが、それは歌論によって、〈今〉の世の歌をめぐる現状と歴史認識が、一八世紀徳川日本における歌人や知識人に認知されることを意味していた。〈今〉の世の歌やその時代性を考察するというという課題は、〈言語〉をどう把握するのかというラディカルな問題と直結し、その後の歌論を変容させていくのであるが、それはまた別稿に委ねたい。

 

6.        むすびにかえて

こうして〈国歌八論論争〉を概観していくと、この論争は従来の研究で指摘されてきたようなシェーマ的な枠組みでは、その様相を見失うことになるだろう。〈国歌八論論争〉は、三者が〈今〉の世の歌についてどう見るのかという共有された認識に支えられながら、「今ここにある歌とは何か」/「歌はどのようにあるべきか」/「〈古〉にかつて存在していた歌の本来性は、どのように回復すべきなのか」という問題群が、横溢していく思想空間として定位することが可能であろう。もちろん、それは〈芸術〉や〈人間〉を組み込んだ議論ではない*29。むしろ問題とすべきなのは、このように一八世紀徳川日本に生起していく、歌をめぐる膨大な言及や論争こそが、彼らの現実的問題だったということである。その錯綜し重層化された思想的位相を、「歌学史」という〈始まり〉を前提としないで再吟味すること。本稿はそのための序論としてある。

(『季刊日本思想史』69号、2006年。pp23-pp37) 

*1:サイード、E.W.『始まりの現象』山口和美・小林昌夫訳、法政大学出版局1992年。vxii頁。原著1975年。

*2:佐佐木信綱『日本歌学史』博文館、1910年。23頁。

*3:友常勉『始原と反復』三元社、2007年。42頁。

*4:サイード前掲書、xv頁。

*5:佐佐木前掲書、3頁。

*6:佐佐木前掲書、251頁。

*7:佐佐木前掲書、275-76頁。

*8:〈国歌八論論争〉の19年後の1761(宝暦11)年に、本居宣長が『国歌八論』への評を付けて刊行したことにより、『国歌八論』は流布し、宣長の評をめぐり、第二期論争が起きている。この第二期論争は、儒学者の大菅公圭が宣長の評を批判する形で『国歌八論斥非』を著し、宣長は『斥非評』で反論する。さらに藤原惟済がそれに『再評』を付け、そして伴蹊も『国歌或問』を著した。その意味で『国歌八論』をどのように理解すべきテクストなのかということは、当時の知識人社会において、焦眉の課題だったことがうかがえる。

*9:子安宣邦『江戸思想史講義』、岩波現代文庫2010年。299頁。初出1998年。第九章「和歌の俗流化と美の自律」を参照。

*10:荷田在満「国歌八論」、土岐善麿編『国歌八論』、改造文庫、1932年。9頁

*11:同、10頁。

*12:同、11頁。

*13:同、13頁。

*14:同、17頁。

*15:同、18-19

*16:同、20-21頁

*17:例えば大久保正は、宗武の評価について、「和歌の本質をどこまでもその儒教的人生観に立脚した政教的意義において把握しよう」とし、「勧善懲悪的文学観から自由ではなかった」としている。大久保正『江戸時代の国学至文堂、1963年。139頁。しかしながら、このような議論は矮小化しか生み出さない。宗武における漢学の素養を詳細に分析したものとして、宇佐美喜三八の研究が挙げられるが、宇佐美による漢学と和歌との交渉という視点は、今もなお示唆に富む論点が多々ある。詳しくは宇佐美喜三八『近世歌論の研究』、和泉書院1987年。第2章「田安宗武の歌論」を参照。

*18:田安宗武「国歌八論余言」、前掲書、48-49頁。

*19:宇佐美前掲書、第2章「田安宗武の歌論」を参照。

*20:前掲「国歌八論余言」、49頁。

*21:同、62頁。

*22:同、61頁。

*23:田安宗武「臆説剰言」、124-125

*24:同、119頁

*25:賀茂真淵「国歌論臆説」、98頁。

*26:同、100頁。

*27:同、113頁。

*28:賀茂真淵「再奉答書」、152頁。

*29:この点に関しては、桂島宣弘「国学のまなざしと伝統の『創造』」、『歴史評論』659号、2005年に詳しい。また、清水正之『国学の他者像』ぺりかん社2005年は、本稿との問題意識と重なり合う部分もある。しかしながら、国学を「文化的伝統」と規定し、「人倫」を倫理思想史として分析することは、再び「日本という閉域」を構築してはいないだろうか。

〈神代文字〉の構想とその論理―平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考―

〈神代文字〉の構想とその論理.pdf

 

1.はじめに

 近年の国学論、とりわけ国学言語論をめぐる議論の基盤には、《音声中心主義批判》とも言うべき一つの流れが ある。それらの先行研究では、一八世紀徳川日本という思想空間内部において、本居宣長が『古事記伝』によって為した〈始原〉としての「ヤマトコトバ」の語り出しが、〈日本〉という共同体の形成を画定させ、そのイデオロギーが内包する意味づけを示した1。その論点 にはいかに国学言語論が、「漢字」という《書記言語》を排除し、《音声言語》としての「ヤマトコトバ」という理念に依拠したイデオロギー的作業であったのか、という問題に帰着することができる。

だが、これから主題とする一九世紀における徳川日本の国学言語論が見せる相貌は、宣長によって惹起される《音声中心主義》と重なり合いながらも《変奏》を奏でる。そして《外部=他者》が介入し、邂逅した瞬 間、「ヤマトコトバ」という単一言語イデオロギーをめぐる言説が、〈中心〉と〈差異〉のストリームを奪い合う空間を形成しはじめる。本稿では平田篤胤(17761843)が、晩年に著した一連の〈神代文字〉論を分析していく。 だがその理論的前提として必要なのは、これまでの単線的なイデオロギーの生産を論じあう思想史を放棄することである。いま必要なのは数多の言葉たちが混合していく思考を聞き取る思想史である。それは一つの情念の中に多くの情念を含意する思想史でしかないだろう2

本稿の目的は、一九世紀日本の国学言語論が抱え込んだ《コトバ》をめぐる抗争に留意しながら、平田篤胤の〈神代文字〉論が持っていた論理構造とその波及性に 目を向けることである。まず平田篤胤の〈古伝〉の策定作業を検討し、次に『古史本辞経』(1839)で展開された言語認識について考察を行う。そして最後に一九世紀徳川日本における国 学言語論のパースペクティヴとナショナリティの変容について分析していきたい。しかし、〈神代文字〉論をめぐってはある近代日本の学者を乗り越えなければならないだろう。それは山田孝雄(1873~1959)である。

 

2.神代文字〉は妄説か?

 山田孝雄は、「所謂神代文字の論」(1953)という論文において、〈神代文字〉をめぐる議論がいかに 〈毒〉におかされた危険な代物であるのか、ということを怒りと憤りに満ちた口調で語気荒く語っている。その主犯者の一人が、山田が敬愛してやまなかった平田篤胤であった。山田の言葉を引用してみよう。

 

今、その論者の態度を顧みるに、我々が尊敬を措く能はざる平田篤胤といふ人まで、彼の潮音の筆誅にしてその半面に於いて、この「ヒフミ」「ホレケ」の四十七音を以て神字の代表的典型として一言も疑を挟まず、恰も之を既定の真理で動かすべ からざるものゝ如くにしてゐるのは、如何なる事情によるのであるのか、私は不可思議の一とするのであるが、しかもそれは絶大なる不可思議の一である3

 

1676(延宝4)年に潮音という僧が、『先代旧事本紀大成経』という偽書を著した。以来、その存在がまこと しやかにささやかれてきた〈神代文字〉は、1936(昭和11)年には、その存在を声高に提唱した天津教への弾圧事件を引き起こすことになる。その意味で〈神代文字〉自体が持つ《擬似革命》性の問題 は決して小さくはない。しかし山田は〈神代文字〉の存在自体を否定する。研究史的に言えば、〈神代文字〉の存在をめぐる議論は、この論文により決着がついたことになる。だが、山田は自問する。自らが尊崇する篤胤が、なぜ〈神代文字〉などという「妄説」を信じたのかと。山田はそのことを「絶大なる不可思議の一」と述べる。もちろん、そこには山田孝雄の《国語》観と、「国体の護持者」としての篤胤像が交錯していることは見逃してはならないだろう。山田は戦時中に著した『国語の本質』(1943)というテクストの中で、次のように《国語》を既定している。

 

凡そ言語といふものは既に述べた通り社会的歴史的のものであるからして、国語そのものはもとより我が国家我が民族を離れては客観性を失ふものであることは勿論、我が国の歴史、我が民族の生活を離れては理解出来なくなるものである。単に理 解が出来ぬのみならず、我が国の歴史、我が民族の生活を離れてしまったら、どこに国語といふものの本体があるのであるか4

本稿ではこれまで多くの諸氏が山田の《国語》観について指摘しているため、詳細は述べない5。ここで重要なのは、山田が想像=形象化した「国語()」にとって、〈神代文字〉という存在は、明らかに「国語()」の範疇を逸脱したものだったことを確認するだけで十分である。この山田による論文以降、〈神代文字〉論は《国語学者》や《文献学者》たちによって、真面目に捉えられることもなく、一笑に付されてきた。しかしながら、本稿ではそのように「妄 説」として退けることはしない。むしろ、本稿の目的は〈神代文字〉論が、一九世紀前半という時代に膨大な言及が行われた、その思想史的事態を積極的に捉え直ことにある。それでは平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考と〈神代文字〉論を分析していくようにしよう。

 

3.〈真の伝〉の痕跡

 

3.1 宣長と〈皇国〉

なぜ篤胤は〈神代文字〉にこだわったのかという問題は、篤胤にとっての〈古伝〉とは何か、 そして篤胤にとって《コトバ》とは何か、という問いへとつながるように思われる。篤胤における〈古伝〉という策定作業。それは篤胤自身の「狂信」――この 言葉は篤胤という存在を規定し続ける呪詛のようなものだ――から出たものではない。子安宣邦が述べるように、それは「正しい神代」へのイマジネティヴな眼差しを伴う、想像=形象化の作業であったと指摘することが出来る6。この「正しい神代」への想像=形象化こそが、〈神代文字〉への存在を篤胤に確信させた。しかし我々は先を急ぐ前に、本居宣長における「ヤマトコトバ」の読み出しの あり方を確認することから始めよう。宣長は《漢字》を排除しながら、純然たる《正音》が刻印された「ヤマトコトバ」の復原を試みようとする。『漢字三音考』(1785)の有名な箇所だが、引用してみよう。

皇大御国ハ。・・・・・・如此尊ク万国ニ上タル御国 ナルガ故ニ。方位モ万国ノ初ニ居テ。人身ノ元首ノ如ク。萬ノ物モ事モ。皆勝レテ美キ中ニ。殊ニ人ノ声音言語ノ正シク美キコト。亦夐ニ萬国ニ優テ。其音清朗 トキアザヤカニシテ。譬ヘバイトヨク晴タル天ヲ日中ニ仰ギ瞻ルガ如ク。イサヽカモ曇リナク。又単直ニシテ迂曲レル事無クシテ。眞ニ天地間ノ純粋正雅ノ音也7

 宣長によって、〈皇国ノ正音〉と不可分なものとして立ち上げられるこの言説は、良く知られているように、音声中心主義イデオロギーを成立させるものである。〈文字〉に依拠しない言語活動に支えられた共同体としての〈皇国〉。その理想的な共同体の形態が『くず花』(1780)では次のように語られている。 

言を以ていひ傳ふると、文字をもて書傳ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれも勝れり共定め               がたき中に、古より文字を用ひなれたる、今の世の心をもて見る時は、言傳へのみならんには、萬の事おぼつかなかるべければ、文字の方は るかにまされるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言傳へのみなりし代の心に立かへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし・・・・・・殊に 皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸ふ国と古語にもいいひて、実に言語の妙なること、萬国にすぐれたるをや8

 宣長によって、〈文字〉なき共同体への果てしない希求は、「言霊の幸はふ国」としての〈皇国〉という言説を見事に構成している。しかしながら、一九世紀にお ける国学者たちの議論は、宣長があらかじめ排除しようとした問いから《コトバ》と《共同体》への論理と思考を張り巡らせ、それを出発点とする。宣長が執拗に排除しようとし、根源的に欠けていた問い。それは《コトバ》における〈音声〉と〈意味〉との関係であり、《コトバ》の心的イメージに対する問い。そして、〈文字〉に刻印された伝承性への問いである。〈神代文字〉論は〈文字〉の伝承性に関わる問いだが、この意味で、一九世紀の国学者たちは、宣長を絶対化された「頂点」としては考えていないし、その思想運動は直線的でもない。共同体をめぐる表象と理念は、それ自身が〈差異〉として運動するのだ9

 

3.2 「祝詞」の正統性としての〈書体〉

 篤胤における〈神代文字〉論は、宣長によって語り出された「言傳へ」が純粋に成立していた という主張を換骨奪胎することで語り出される。篤胤もまた、「言傳へ」によって継承されていく純粋な口誦言語のあり方を考えるのだが、むしろ篤胤は《コトバ》を神的意志の現れとして捉える。故に篤胤にとっての《コトバ》とは、根源的な神的意志と共同体の〈起源〉を同時に内包しているものでなければならない。篤胤にとって、「言傳へ」が途絶えることなく今の世まで、〈真の伝〉を提示しているテクスト。それは「祝詞」に他ならない。『古史徴開題記』において、篤胤は次のように語る。

 

皇国の古傳説の起源は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる、産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐せる時に御傳へ坐ると、其千五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り傳たるも有が中に、天祝詞なる傳は、古傳説の本にて正しき 由よしの論より、天つ祝詞と称ふこと、また産霊神の祝詞を傳へ坐る故よし、祝詞の傳への、古事記日本紀の傳へとは異なる故よし、また祝詞に、上古の文と後 世の文の別ある由、日本紀古事記なる傳は、世に弘く傳はりたるを集め記されたる故に、自然訛れる傳へも交れるを、祝詞の傳へによりて、正し辮ふべ き・・・・・・10

 この篤胤の言辞は、明らかに〈音声〉に支えられた物言 いではあることは確かだ。というのも、〈古伝〉の起源とは、「産霊大神の御口づから」語り継がれた伝承に求められているからである。しかし同時に篤胤は 〈古伝〉をめぐる議論の根底に懐疑を挟む。すなわち、記紀神話が編纂されているという《事実》を読み出していく。〈古伝〉の策定にとっては、記紀神話に 「自然訛れる傳へ」が混在することが問題なのである。

 

古事記神代紀に載せられたる傳々は、彼の千五百座と 多かる神の、御裔の家々に傳はりたる、或は世に弘く傳たる説等をも、聚め載されたれば、自然に訛り混たる傳の多く交るべき謂なりける11

 

この言辞によって、いま一度〈真の伝〉を復原するには、混在した伝承性を排除しなければならない。篤胤は「祝詞」が有する伝承の正統性に、その優位を見出すことで、〈古伝〉という聖なる伝承の真理を把捉しようしたのである。

 

然も有ば、祝詞なる故事の、古事記神代紀なる傳に勝りて正しき由は、如何にして知ると云に、総て古傳説はしも、古は更なり、今にも通りて、神随なる道の実事に違ふことなく、萬の事物の理に符へるを以て、正しき傳説と知ることなるを、祝詞 なる傳々は、よく実事の旨に符ひて、萬の理に符ざる事なき故に、眞に正しとは知らるゝなり12

 

故是を以て今古傳を撰ぶに、太祝詞なる 傳へを以て、有が中の最上たる傳と定めて、古事記神代紀なる傳をば、是が次に立、二典の謬錯れる傳をも、太祝詞事の有限りは、其に依て正しく辨ふる物ぞ。 此成文を読まむ人、まづ其意を得てよ13

このように、篤胤の〈古伝〉という策定作業は、〈真の伝〉の痕跡を示すテクストとしての 「祝詞」の優位性という視座から構築されるものだが、その正統性を保証するのは、「祝詞」が漢文以前の《書記》性、すなわち〈書体〉を守っていたからに他ならない。篤胤はその意味において、宣長との理論的乖離を深めていくが、それは篤胤の《コトバ》をめぐる論理構造を読み解く際に、重要な分岐点となっていく。篤胤は宣長を批判しながら、「祝詞」の〈書体〉の正統性を次のように語る。

 

殊に漢字を用られざる以前には、世継の 古事を記せる史籍とてはなく、故事を記せる物は、まづ祝詞にて、これ古事古籍の本なるを、漢字わたりて後に、彼にならひて記せるが、皇国にて物記ことの始 めならむには、必ずまづ祝詞をこそ、漢文に書くべき物なるに、書と書く物の悉く、漢文に記し習つゝ、歌を仮字に、祝詞は宣命書に、別に書法を立べき謂なし。・・・・・・実に歌と祝詞は神世より書来つるまにまに其故実を失はず古き書体を守来り餘の事実を記せる書も古は右に同かりしを天武天皇の御心として国史風に記さむことを所思看起して其由を詔ひいで元明天皇の御世に安麻呂の古事記を記されたるが漢の国史風を学ばむと為たる始なること上に次々論へる趣を思ひ通して辨ふべし(傍点筆者)14

 

3.3 篤胤における〈神代文字〉の構想

 ようやくわれわれは、篤胤における〈神代文字〉論の核心に迫ることが出来るように思われる。しかしそれは《書記言語》と《音声言語》との二項対立でもなけれ ば、従来の研究で指摘されたような文字還元主義でもない15。問題 は、篤胤における古代ヤマトにあるべき姿としての《コトバ》をめぐる思考を問うことである。言い換えるならば、〈神代文字〉という思想的主題を通すことで、一八世紀日本に宣長が喚起した純粋な《共同体》への希求が、編制=変成され、その表象をめぐる論理自体を組み換えようとする、その意味を問うことが重要である。篤胤の〈神代文字〉論は、〈真の伝〉が存立する〈書体〉の起源そのものへと向かう。このようにして、篤胤は象形文字に触発されながら、古代日本における〈神代文字〉の存在を確信する。篤胤は古代における人々が自らの《コトバ》の音声と文字を変換したものだと説く。

限なき事物の象形を尽く書かむことは、煩しく労がはしき事なる故に、口より出る音の印を形にうつして、仮字を製り給へりけむ。……此を仮名と云る義は、音の印 を仮に書て、象形の字の真に、其物の形を書たる字に対たる称なるべし。……如此在ば眞字と云も、象形の字をいふ本よりの古言なりけむを、漢字を専に用ふる 世となりて、彼は字ごとに義ありて、音の符と製れる神世の仮字と異なるもの故に、彼をいふ称とはなりにけむ16

篤胤は「口より出る音の印を形にうつし」た文字こそが、〈神代文字〉なのだと説く。この〈神代文字〉へ注がれる情念は、その材料を膨大な古書群の中から、蒐集/渉猟することで、その文字群を《創作》する行為へと結びつく。その情念と作成の過程が、『神字日文伝(1818)に示されている17。篤胤 は次のように述べる。

然れど御国なる千ぢの語は。この五十韻の音に通ふ趣を思へば。一向に。神世には。五十音の次第なせるは。無かりしとも言がたし。この書集つる字等の中には。 たゞヒフミヨといふ四十まり七つの音もて。次第なる字ぞ。其言のさまも。字の形も。他国に比ふべき物あらず。実に千早ぶる神世の物なるべし18

篤胤が〈真の伝〉として疑わなかった、「祝詞」に啓示された神的意志を含意した〈古伝〉と、そこで示された神聖なる《コトバ》をめぐる思考は、「神字日文」 という独特な世界へと変貌を遂げるのである。この篤胤による〈神代文字〉への執拗なまでの情念は、固有言語としての「ヤマトコトバ」をめぐる国学的言説を 変容させる力を持っていた。次章では、篤胤晩年のテクストである『古史本辞経』(1839)に着目してみよう。

 

4.『古史本辞経』とその言語認識

 4.1 『古史本辞経』という 〈名づけ〉の行為

 篤胤が著した『古史本辞経』というテクスト。篤胤はその名前の由来を語り始める。篤胤がこのテクストを『古史本辞経』となぜ〈名づけた〉のか。引用は長くなるが、そこを糸口にして篤胤の《コトバ》をめぐる思考とその論理構造を見てみたい。

 まづ書名を。古史本辞経となむ按ひ出ける。其は古史とは。古事記日本書紀の二典を云ふ。主とは此の二典の古訓に據らむと欲ればなり。・・・・・・其の古語の本辞と称ふべき語を稽ふるに。必ず 二言の語に極りて。其の語凡て二千二十五言ぞ有ける。姑く是に五十聯の音の一言なるを合すれば。二千七十五言。これ本辞にして。此の餘に。二言四言五言六 言なる語。いく千萬づの限り無らむも。(此の本辞の外なるは。)異 国の語を除ては。唯一つだに有こと無く。今集むる言ども。即ち有ゆる言語の経言なるが故に乃ち経とは名くるなり。・・・・・・然るは経とは乃ち機の竪糸に て。緯とは即ち横糸なり。此はしも。畏きや天照大御神の。高天原にして。始めて織りませる御機の事より起れる語なるを。転して西土にも。大倭にも。天地の 経緯など云ふを始め。種々の事に活用かし云ふこと多かる中に。書の名におほく用ふる事は。経は常也と訓て。常典と為べき由の名なるを。今撰べる二千二十言 はも。近き世多く。人の撰れる語書の類に非ず。賀茂の翁の。引きて発たぬ誨へを推して。天の下の経言を錯綜へ尽せるにて。元より経と云ふべき物なればなり19

 篤胤はこの『古史本辞経』というテクストの〈名づけ〉について述べているわけだが、「ヤマトコトバ」の《構造》を明らかにしようとしたものであることが述べられている。篤胤は「ヤマトコトバ」という言語それ自体を〈糸〉のアナロジーとして語る。すなわちそこには、《コトバ》が織り成され、生成していく磁場を把握しようという篤胤自身の〈意図〉が現前化しているように思われる。この『古史本辞経』という固有のテクスト。しかし、この〈名づけ〉という言遂行が持つ意味は大きい。なぜなら、その固有名こそが篤胤における《コトバ》と「世界」との関係性の了解と認識論を示しているからである。ここで市村弘正の〈名づけ〉をめぐる行為についての考察は、大きな示唆を与えてくれるだろう。

 

名づけるとは、物事を創造または生成させる行為であり、そのように誕生した物事の認 識そのものであった。[中略]名づけられることによって「世界」は、人間にとっての世界となった。人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目 を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。このように「名づける」ことに よって物事が生みだされるとすれば、世界はいわば名前の綱目組織として現われることになるだろう。したがって、ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識を獲得の獲得それ自体を意味するのであった20

 篤胤における《コトバ》の思考について考察する際、『古史本辞経』という固有名を持つテクストを、〈名づけ〉という行為から語り出していることは、注意深くあらねばならない。なぜならそれは、篤胤によって《コトバ》をめぐる事象が、どのように区切られ、組織化されたのかという認識論的布置を示すものだから だ。その意味で《コトバ》という「世界」を篤胤はどのように見ていたのだろうか。それをこのテクストを通して考えてみたい。

 

4.2 五十音図」の〈訂正〉作業

篤胤は『古史本辞経』において、従来の「五十音図」を〈訂正〉する作業を試みる。それは、 篤胤自身の「ヤマトコトバ」における認識論と重なり合うわけだが、それはこのテクストを通じてより鮮明になっている。篤胤は賀茂真淵(16971769)を「我が古学びの祖父」と崇めながら、その「五十聯の音」の特権的地位について、次のように語り出している。

 

抑是の五十聯の音はも。上の件語意の説の如く。天地自然の声音なれば。天地を鎔造し 給へる神の大御言            に。素より然る定格ありて。其の言霊幸をし。次々に傳へし故に。最上古には。殊にその図を模して。示し誨ふる迄もなく。天の益人ら皆知ら ず識らず。其の言語に。其の道自然に備はりて。少かも誤まる節無かりける21

 篤胤による《コトバ》への問い。篤胤は「五十聯の音」が図式化された、その「音図」が未だに諸説入り乱れ、画定されていないことであり、そこにある種の苛立ちを隠せない。なぜなら、〈皇国〉という共同体は「音韻言語の道」が完備してこそ成立をみるものであったからである。

 古語に。言霊の幸はふ国。言霊の祐くる国と称へ以来し事の如く。高天原に神留坐す。 天皇祖大神たちの。天津神語をし。禰継々に。云ひ継ぎ語り継ひし故に。宇都志世人の。音韻言語の道。また夐に萬の国に優りて。正しく美たく。足ひ調へる御 国になも有りける22

 篤胤にとって〈皇国〉とは、「音韻言語の道」と不可分な関係を有した共同体であり、またそのような共同体であらねばならない。しかし、篤胤においては〈音声〉はそれ自身では《コトバ》とは言えない。彼における《コトバ》とは音韻と意味性が秩序 化され、組織化されていなければならないものであったことに注意すべきだろう。その《コトバ》の秩序を示し、抽象化された図面が「五十音図」であるはず だ。故に篤胤はそれを自然の摂理として語ることをはばからない。だが、それを取り戻すためには、「異国」を、より正確に言えば、「五十音図」に深く刻印された「悉曇」という存在を消去しなければならない。

然るに。今なほ是の図を。悉曇などに習はずは。作得まじき物のごと云ふ人あるは。なほ異国を揚げて。我が古を陋しむる僻の。止ざるになむ有ける23

 悉曇に習」う人々が、「異国を揚げて。我が古を陋しむる僻」に陥っている限り、神聖なる「五十音図」は復原できない。だから「五十音図」の起源は、まさしく 〈皇国〉にあるのであり、従来の「悉曇」を基礎とした「五十音図」は誤謬に満ちた代物なのだ。それ故、篤胤はその〈訂正〉作業とそれが伏在している〈意図〉を次のように述べる。

古語本辞を釈むと欲るには。其竪横の音韻は元より。位置の訂正また専要の事なり。斯て今の世に弘く用ふる所の竪行。アイウエオ。横行アカサタナハマヤラワの図 は。前後の条に論ふ如く。悉曇章に依れる図にて。梵語の上には随分宜しけれど。皇国本辞の亀鑑と為すには。良行を第九位に置こと尚宜しからず24

 そして篤胤は「五十音図」の〈起源〉について、次のように語る。

さて其の上つ代に。音図こそ未制らね。其音の数に合たる。神字の五十字有りしこと。 日文伝に述る如くなれば、其音を類聚して。図を作れるは。実にも其の古説の如く。応神天皇の御世にて。其は赤縣籍を読しめ給ふ時に。彼の邦の字音を。此方 に正しく傳へむ為に作れるが。其の草創にぞ有けむ25

 五十音図」の成立については、これまでの研究蓄積が明らかにしているように、「悉曇学」の影響を考慮に入れなければならない。しかし篤胤は「悉曇学」の枠組みの痕跡が、「五十音図」には否定すべきもないほど に組み込まれているが故に、その論理を逆手に取り〈皇国〉の論理として再説するのである26。だが、ここで見落としてならないのは、篤胤における言語論は、常に篤胤自らが想像=形象化した〈古史〉という認識から照射されているということである。その 意味で、篤胤国学における《コトバ》への視座と、その〈訂正〉作業は、篤胤が作り上げた世界観そのものなのだと言うことが出来るだろう。次は《コトバ》の 〈生成〉と〈音義〉説をめぐる篤胤の論理について検討してみたい

 

4.3 《コトバ》の生成と〈音義〉説

 篤胤の「五十音図」の〈訂正〉作業は、《コトバ》の〈生成〉をめぐる言説と密接に関係している。篤胤は自ら〈訂正〉したハングルの反切表にも似た「五十音図」を示しながら、次のように《コトバ》の〈生成〉を語る。(1も参照)

抑世の初め。天皇祖神の産霊に資りて。 大虚に侌易混沌たる一の物生出たるが。其の物二つに分れて。其の軽清りし物は上に萌騰りて。高天日の御国と成り。其重濁れる物は。下に凝結びて。此宇都志 国と成れるが。其根にまた別に一の物成りて。此も断離れて。月予美国と成り。然して国土より天に昇る道を。天の八衢と云ひ。国土より予美国に降る道を。泉津平坂とぞ云ける。是天地の初発の大凡なり。・・・・・・然るに奇霊なるかも。五十音の阿行をはじめ。其の余の九行も其の竪は。此道理にいと熟く符ひてぞ有ける27

 篤胤の言説が提示するのは、《コトバ》という世界が『霊の真柱』で構想した宇宙創成神話に包摂され、それが〈生成〉の瞬間から、篤胤が描く宇宙創成神話の中 に組み込まれている構造である。この《コトバ》における〈生成〉の起源は、母の胎内というアナロジーで語られるのだが、それは言語活動が《身体》的な活動 であると同時に、その言語活動に支えられて「生」を営む人間が、極めて《身体》的存在であることを解説している。篤胤は続けて言う。

其は。人の音声の。起り出る原より稽ふるに。我人共に。母の胎内に在る間は。其の気 息を。臍帯より受るまでにて呼吸なく。呼吸なき故に。声なきは素なれど。其は外に聞ゆる音こそ無けれ。竟に初声を揚べき[]は。 身体の中府に根ざして。喉口の間に含み持たり。此は我人の祖先。始めて神の産霊を分賜りしより。今に相続し来れる物にて。神眞の道に。霊根元気と称する是 なり。是乃ちつひに云とも宇とも響き出る声にて。諸声これより分り出れば。声の本には有なれど。人胎内に在りて。その声いまだ出ざる間はかの天地と分るべ き一物の。混沌れて牙を含み在りしと。全同じ趣なり28

 篤胤における《コトバ》をめぐる考察は、いわば言語活動を一つの〈生成〉として認識することによって、《身体》という新たな主題を浮かび上がらせている。す なわち、篤胤が考える《コトバ》とは五感そのものであり、《音声》と《身体》による感覚的活動が内意された理念として立ち上げられていく。その認識論的布 置は、一九世紀の国学者たちが唱えた「言霊音義」説と深く関わっているように思われる。「言霊音義派」と呼ばれる国学者たちは、五感を伴う言語活動から 〈音声〉の意味性と、「音象」と呼ばれる《コトバ》の心的イメージを説いていく。しかし、その問いこそが《コトバ》をめぐる国学的言説の変容を語っているのではなかろうか。篤胤は次のように述べる。 

 さて言語は。声音より起ること素にて。其の五十聯の声音に。各々自然に意あり。象あり形あり。其は人の世に  経る。事わざ繁き物なれば。見る物聞く物につけて。情その中に動きて。其の声種々に発る。然るは物有れば必ず象あり。象有れば必ず 目に映る目に映れば必ず情に思ふ。情に思へば必ず声に出づ。其声や。必ず其の見る物の形象に因りて。其の形象なる声あり。此を音象と謂ふ。・・・・・・抑 音象にかく。自然の定まり有りて。言と成るに。其の言必ず。其の見る物を指象りて。嗟嘆せるに形はる。其やがて其の情の中に動くに因ること上の如し(傍点筆者)29

「言霊音義派」と呼ばれる国学者たちは一九世紀において広範に現れていく。彼らが主唱した〈音声〉に関わる意味性と心的イメージをめぐる問題は、「国語学」と いう学知成立以前には大きな影響力を持ち、新たな思想的事態として知識人社会に現前化したことは改めて強調してもいいだろう。篤胤はその思想空間内部で、《コトバ》をめぐる思考を張り巡らせていたのだ。これまで篤胤の《コトバ》をめぐる思考と論理を中心に考察してきたわけだが、次章ではもう一度〈神代文字〉論に立ち返って、その波及性と応酬を考察し、一九世紀徳川日本における知識人たちの《外部=他者》との邂逅をめぐる議論を垣間見ることで考察を終えたい。

 

 5.自己増殖するナショナリティと《外部=他者》と の邂逅

篤胤を媒介者とすることで、伝播する〈神代文字〉論は、それ自体の存在の有無だけではなく、固有言語としての「ヤマトコトバ」における〈起源〉とその〈来歴〉が問われる問題として浮上し、議論が応酬されていく。平田篤胤の〈神代文字〉の揺る ぎない確信に対して、最も激しい批判を行ったのは、伴信友(17731846)であろう。信友と篤胤の間には、しばしば指摘されるように、個人的感情の対立があった30。しかしながら、そのような矮小化された議論に我々は立ち入る必要を認めない。その対立は、〈神代文字〉論においても行われるわけだが、端的にいえば、信友は神代文字否定論者である。だが問題なのは、その結論ではなく、関心の所在の方ではなかろうか。信友の『仮字本末』(1825)は、その題名が示す通り、仮名文字の〈起源〉と〈来歴〉 について、事細かに考証したテクストである。序文にはこう記されている。

仮字といふ事の皇国の用ひ来れるゆゑよしを始として、いはゆる平仮字片かな男文字女 文字の起源を、くはしく考へ、また今俗にももはら用ひ馴れたる、伊呂波うたあるは、梵讃漢讃和讃、あるは今様歌順礼歌はたヲコト点といふものゝゆゑよし、 及神代字の事さへに転化ひ来し次第をことごとく証し弁へ記されたる・・・・・・31

 信友の関心の所在は、文字のいまここにある姿と、その意味について、関連した史料と関係づけながら渉猟することで、その秘められた〈歴史〉を読み取ることに こそあった。その意味で、篤胤と信友は、そもそも《コトバ》をめぐる認識論自体が異なっていたのだ。いまここにある《文字の歴史》を読み解く信友と、悠久の古の《文字の歴史》を製作しようとする篤胤。その抗争の主題は、その〈差異〉において交錯している。だから信友にとって、〈神代文字〉という存在は、そ の過程から推論する限り、必然的に否定されるべきものであらねばならず、さらには、篤胤が夢想する〈神代文字〉が、朝鮮諺文からの剽窃であることを《発見》するのである。

あるが中に字体もおほかたさだかにて、みだりに作れるものとは見えざるが三体あるは、今朝鮮にて、諺文と   いひて用ふ国字の古体にて、吏道といふものとぞ見えたる、さるをわがともがらうひうひしきが中に、まことの神代なりとおもひまどへ るがあるに、かたはし論ひきかせたりければ、いとゞしくまどはしくなりぬ・・・・・・32

 信友は、このように篤胤の〈神代文字〉が朝鮮諺文からの剽窃であることを述べる。しかしながら注目すべきなのは、一九世紀徳川日本における《コトバ》をめぐ る論理、また〈神代文字〉論というフィールドを通して見えるのは、かかる《外部=他者》との接触と異他混淆によって、そのナショナリティを自己増殖させていくような構造を有していたということである。それを自らの内部として包摂するか、あるいは批判するのかは、思想家たちによって多様性があったとはいえ、 〈神代文字〉論は、その意味で「ヤマトコトバ」という固有言語の理念をめぐって、互いが交錯し、闘争し、あるいは対話しあいながら、共時的に出現していく 思想空間の有り方を示唆しているように思われる。例えば、鶴峯戊申(17881859)は、西洋の数量文字から類推することで、古代日本に存在していた〈神代文字〉を確信する。

 戊申按ニ。今西洋ニ用フル字ノ数量文字。一をトシ。二をトシ。三をトシ。四をトシ。五をトシ。六をトシ。七をトシ。八をトシ。九をトシ。十をトス。田賦集ナル数量文字ト大同小異也。然レドモコレ天地の勢ニテ。タマ /\相似タルモノニテ。敢テ彼ワレニ倣ヘルニ非ズ。我カレニナラヘルニモアラザルベシ。件の諸説ヲ考ヘワタシテ。太古皇華ニ文字有りし¬ヲサトルベシ33

 このように戊申の言辞からも理解できるように、一九世紀徳川日本における知識人たちの《コトバ》をめぐる論理にとって、かかる《外部=他者》との邂逅は、も はや避けられない事態であった。それは〈皇国〉という共同体の表象の言説が、自己増殖的に《外部=他者》を組み込み、連鎖することで、その秩序システムと 「ヤマトコトバ」という象徴を編制していく作業として捉えることが出来るだろう34。多様で異他混淆的な《外部=他者》の領有化という事態こそ、一九世紀徳川日本という思想空間に、共有された国学者たちの認識論的基盤でもあったからだ。篤胤は 次のように語る。

 其は皇国はしも。元より萬国の皇国にし有れば。萬国の事物の用ひるべき限りは。借用 ふるまでも無く。皆取り用ひ給はむに。何でふ事なき道理なれど。まづ歴法また文字などの類ひ。此方に固より有つるを。其はさし措れて。諸越のを取用ひ給へ るなどは。借用ひたりと云ふも然る事なれど。師説にもある如く。人の形を始め山川草木鳥獣などのさま。此方も佗国も大抵同くして。然しも異らざれば。其を 絵に書たるも。互にに相似たるを。五十聯音もその如く。皇国にも佗国にも自然に固有せるが故に。そを図に模せば。大抵同じ様となるなり。また有るを有ると し。無きを無きと為べきは勿論の事ながら。無き物をも有りと誣るは僻めるなれど。其は僻みながらも。国に実なる心より云ふなればなれば憎からぬを。無き物をなしと云ふは更なり35

 

6.むすびにかえて

本稿では、平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考と論理構造を、〈神代文字〉論を通して考察することで、宣長を一つの〈差異〉として捉えた。また篤胤の〈古伝〉の伝承性を保証する「祝詞」の〈書体〉という発想 や、言語論的テクストとしての『古史本辞経』について言及してきた。本稿の目的は〈神代文字〉という主題により、いかに一九世紀の国学者が《コトバ》をめ ぐる思考それ自体を変容させ、あるいは解体し、そして新たな《共同体》としての〈ヤマト〉を変成=編制していく、その現場に立ち会うことであった。さら に、《外部=他者》の邂逅という世界史的事態が生み出すナショナリティの変容を、〈神代文字〉を媒介にして考察してきた。しかし残された課題も多い。本稿 では示唆するだけに止まった「言霊音義派」の国学者たちの動向や、篤胤と同時代人である、香川景樹や富士谷御杖歌論における思想的位相への検討は、残さ れた課題であろう。しかしながら、従来の系譜的研究の線上に位置付けるのは無意味である。求められるのは、一九世紀徳川日本という共時的空間の内部に、矛盾した〈差異〉を含意しながら重なり合っていく言説生成の現場それ自体を問うことではなかろうか。篤胤の〈神代文字〉論は、かかる射程を含意した問いかけとして、いま一度俎上に置かなければならない。

 (韓日次世代学術FORUM編『次世代人文研究』第4号、釜山、2008年。pp147-pp166)

 

市村弘正(1996)『増補「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー.

 

・ イ・ヨンスク(1996)『国語という思想』岩波書店.

 

・長 志珠絵(1998)『近代日本と国語ナショナリズム吉川弘文館.

 

・表 智之(1997)「〈歴史〉の読出し/〈歴史〉の受肉化」『江戸の思想』 第7号、ぺりかん社pp7292.

 

______(1997)19世 紀日本における〈歴史〉の発見」『待兼山論叢』第31号、pp1731.

 

川村湊(2002)『言霊と他界』講談社学術文庫.

 

子安宣邦(1991)本居宣長岩波新書.

 

_______(2000)「〈国 際語・日本語〉批判」『方法としての江戸』所収、ぺりかん社pp263285.

 

_______(2001)『「宣長問題」とは何か』ちくま学芸文庫.

 

_______(2001)平田篤胤の世界』ぺりかん社.

 

酒井直樹(2002)『過去の声』酒井直樹監訳、川田潤他訳、以文社.

 

・田原嗣郎(1963)平田篤胤吉川弘文館.

 

・ジル・ドゥルーズ(1992)『差異と反復』財津理訳、河出書房新社.

 

・ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガ タリ(1994)千のプラトー宇野邦一他訳、河出書房新社.

 

・友常勉(2007)『始原と反復』三元社.

 

長山靖生(2001)偽史冒険世界』ちくま文庫.

 

・馬渕和夫(1993)五十音図の話』大修館書店.

 

・村井紀(1989)『文字の抑圧』青弓社.

 

・森田康之助(1979)伴信友の研究』ぺりかん社.

 

・山下久夫(2000)平田篤胤・「神代文字」論の主題」『金沢学院大学文学部紀要』第5集、pp3952.

 

_______(2003)「原形志向の古代像と生成の古代像」福田晃古稀記念刊行委員会編『伝承文化の展望』所収。pp584597、 三弥井書店.

 

山田孝雄(1943)『国語の本質』白水社.

 

_______(1953)「所謂神代文字の論」『藝林』第4巻3号、pp31-pp51

 

 

1子安宣邦(1991)本居宣長岩波新書。同『「宣長問題」とは何か』(2001)ちくま学芸文庫。 村井紀(1989)『文字の抑圧』、青弓社.酒井直樹(2002)『過去の声』、酒井直樹監訳、川田潤他訳、以文社などを参照。

 

2この方法は、ドゥルーズ=ガタリの言語をめぐる考察に示唆を受けている。ジル・ドゥルーズ=フェ リックス・ガタリ(1994)千のプラトー宇野邦一他訳、河出書房新社98. 原著1980年。

 

3山田孝雄(1953)「所謂神代文字の論」『蓺林』第四巻三号.

 

4山田孝雄(1943)『国語の本質』白水社、4243.

 

5詳しくは、イ・ヨンスク(1996)『国語という思想』岩波書店。長志珠絵(1998)『近代日本と国語ナショナリズ ム』吉川弘文館子安宣邦(2000)「〈国際語・日本語〉批判」『方法としての江戸』、ぺりかん社などを参照。

 

6子安宣邦(2001)平田篤胤の世界』ぺりかん社.

 

7本居宣長全集』第五巻、381384.

 

8本居宣長全集』第八巻、124.

 

9 表象というパースペクティヴへの批判は、 ジル・ドゥルーズ(1992)『差異と反復』財津理訳、河出書房新社98. 原著1968年。

 

10平田篤胤(1936)『古史徴開題記』山田孝雄校注、岩波文庫33.

 

11同、43.

 

12同、40.

 

13同、47.

 

14同、151152.

 

15平田篤胤の〈神代文字〉論については、川村湊(2002)『言霊と他界』講談社学術文庫(初出1990年)。 長山靖生(2001)偽史冒険世界』ちくま文庫、山下久夫(2000)平田篤胤・「神代文字」論の主題」『金沢学院大学文学部紀要』第5. (2003)「原形志向の古代像と生成の古代像」福田晃古稀記念刊行委員会編『伝承文化の展望』三弥井書店.

 

16同、57頁 -58.

 

17神字日文伝』は、屋代弘賢(17581841) との共同作業によって成り立っていた。篤胤の〈神代文字〉論のテクストは、一つの声に多くの声が入り混じった、多声性を帯びたテクストであることが知れる。この点は、表智之(1997)「〈歴史〉の読出し/〈歴史〉の受肉化」(『江戸の思想』第7号、同(1997)19世紀日本における〈歴史〉の発見」(『待兼山論叢』第31号から、多くの示唆を受けた。

 

18『新修平田篤胤全集』第15巻、192.

 

19『新修平田篤胤全集』第7巻、415416.

 

20市村弘正(1996)『増補「名づけ」の精神史』 平凡社ライブラリー134.

 

21『新修平田篤胤全集』第7巻、424.

 

22同、416.

 

23同、436.

 

24同、436.

 

25同、425.

 

26. 五十音図」の歴史的経緯については、馬渕和夫(1993) 『五十音図の話』、大修館書店を参照

 

27前掲、438.

 

28.

 

29同、488.

 

30田原嗣郎(1963)『平田篤胤吉川弘文館、森田康之助(1979)伴信友の研究』(ぺりかん社な どを参照。

 

31伴信友全集』第3巻、385.

 

32同、470.

 

33鶴峯戊申「鍥木文字考」。静嘉堂文庫所蔵。

 

34 の点については、友常勉(2007)『始原と反復』三元社、230231.

 

35前掲、606.