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バシュラール.G『科学的精神の形成』(17)

バシュラール

 しかし、もし哲学的精神から科学的精神への移行を望むなら、決定論の範囲を削減することに同意すべきである。科学的精神形成においてはすべてが可能なわけではないし、科学的人間形成においては、可能なものからひとが可能性を証明したことだけが可能なのだ、ということを認めるべきである。その場合、推測に走って証明することをたえず避け、可能なものを求めてそれを是認する繊細の精神に対抗して、ひとつの勇敢な抵抗、しかもときとして危険な抵抗がおこるのである。(pp373-pp374)

 

バシュラール.G『科学的精神の形成』(17)

バシュラール

研究の容易さ、あるいは困難さという単純なテーマは、思ったよりずっと重要なものである。とくにそれは二次的な性格などではない。逆に、本書でのわれわれの立場たる心理学的見地からいえば、思想のむずかしさはひとつの根本的特質なのである。このむずかしさが、生理的には本物の圧迫となってあらわされ、そしてまた科学的教養に情動性の色合をもたせるのである。このむずかしさがマラに、まだ感受性の動きと礼儀正しさを自負していたころの優雅な時期のマラに、ニュートンを批判させ、ニュートンは妄想を追いかけ、滑稽な虚構の世界で身をへらした人物だ、といわせたのである。逆に、この同じ難解さが、独得の両面価値によって強靭なる精神を魅了する。結局、この相対的な容易さというテーマによるだけでも、前科学的時代から科学的時代への移行にあたって、対象認識が、逆転されることを証明できるであろう。じっさい、十八世紀の物理学は初等幾何学よりも容易に理解できるものとされていた、ということはよくいわれることである。カステル神父はその物理学の前がきで述べている。「物理学はそれ自体、単純で自然で容易なものである。つまり容易に理解できるものである。だれでも物理学の用語を知っているし、その対象も知っている。ごく自然にわれわれは観察し、大部分のものごとを観察し、体験している。光、熱、寒さ、空気、水、火、重さ、バネ、持続など」目で見るたびにひとは自然を観察していることになる。われわれの五官や両手の作用は、そのつどひとつの実験をしているのだ。だれでも多少は物理学者であり、その度合いはそのひとの精神が注意深いかどうかによる。まただれでも自然な推論はできるはずである。それにたいし、幾何学は、その対象、そのやり方、その用語まで、まったく抽象的でしかも神秘的である」。わたしはなんどかこのテクストを、作者名をふせたまま、リセ哲学級(最高学年)の生徒に課題論文の問題として出したことがある。かれらの解釈は大てい讃辞であった。そこに生徒たちはプログマチックな主張のみごとな表現をみていた。この前科学的精神にどっぷり浸った昔のテクストをもとに、哲学級生徒の哲学的精神は、最初の直観に酔い、一切の抽象作用にさからって、さっさと積極的かつ現代的なテーマをつくりあげてしまったのだ。(p385-p386)

 

 

バシュラール.G『科学的精神の形成』(18)

バシュラール

われわれが指摘するたびにかかさず手短に指摘してきたことは、われわれの立場からみると、科学的思考がさまざまな認識論的障害をどのようにして乗り越えるのかということであり、 またいかにして科学的精神が誤謬の全体を修正しつつ自己形成をしていくか、ということであった。しかしこれらの指摘は散発的で、客観的態度の完全な理論を形成することからはほど遠いものであった。また多方面にわたる錯誤を克服して獲得した一山の真実にしても、この真理領域、まったく均質で、過不足なく拡大された領域、となるものではないように思われる。本当のところ、科学者がこの全般的な歓喜を熱烈に希求することがだんだんすくなくなってきた。口が酸っぱくなるほどいわれたように、学問はしだいに専門化してきたのだ。こんどは普遍性を受けもつ専門家として哲学者が綜合にのりだしてきた。しかし、じっさいは、科学者はひとつの専門から綜合を望むのであり、またそれを求めねばならないのである。科学者はみずから個人的に客観化しなかったいかなる思考も、客観化思考だとはみなすことはできない。だからもし哲学ではなくてむしろ心理学をやろうとするひとは、われわれが本書においてとった立場につねに戻らねばならないであろうと思う。心理学的にいえば、錯誤を訂正しなくては、真理はありえないのだ。客観的態度を扱う心理学は、とりもなおさず個人的錯誤の歴史なのである。(pp401-pp402)

 

 

バシュラール.G『科学的精神の形成』(19)

バシュラール

さて、まず指摘すべきことは、客観性の理論はどれもこれも対象の認識をつねに他者に制御の下におくということである。しかし通常は、単独な精神によって実現される対象構成が完成するのを待って、その最終的な様相においてそれは判断されるのである。したがって単独な精神をその仕事にとりかかわされておき、その素材の均質性も、その見積もりの整合性も別に問わねばならないのだ。しかし逆にわれわれは、事象と同時に事象間の関係や、その見積もりの整合性も別に問わないのだ。しかし逆にわれわれは、事象と同時に事象間の関係や実験と論理の双方にかかわる疑問を、前もって出しておきたい。もしわれわれの主張がわざとらしく、また無益だと思う人がいるなら、そのひとは現代科学が実験素材について、長い間社会化された論理的枠組をもって取り組んでいることを、よく理解していないせいなのだ。だがわれわれの意図は対象認識のそもそもの始まりの条件を決定することなので、単独の状態で精神が厖大な自然を前にしたとき、精神がおのずとみずからの対象を指示しようとする、その瞬間において、精神を研究しなければならないのである。(p406)

 

バシュラール.G『科学的精神の形成』(20)

力を合わせて、一般的確実性という思い上がりと訣別し、特殊個別的な確実さを求める貪欲さとも訣別しよう。あらゆる直観を消し、あらゆるプレリュードの進行をおくらせ、知的な予感から身を守るあの知的禁欲主義をもつように、お互いに準備しよう。また今度はわれわれの方も、知的な生について全霊をこめて低い声で歌おう。誤謬よ、汝は悪にあらず、と。(p409)