ぺルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(2)

つまり人間はみずからを、もはや神としてでも動物としてでもなく、感覚するモノとして感覚するのである。……こうした感覚還元論においてわれわえれが理解するのは、モノの即自的存在でも、その本質でもなく、さらには、人間の存在なしにモノが存在するということでもない。むしろ最小の要素にまで還元された人間の感覚なのである。しかしながら、この感覚が最小である以上、それはもはや何も失うことがないと思われる。超-人間と下-人間――われわれはそのどちらにもなることができる――が、あらゆる希望と失意が、知的な世界と実践的な世界の全体が、ほんのわずかな接触のうちに内包されているのである。この新しい感覚は、縛られ、制限され、圧縮されたところからただちに飛び出し、あらゆる活動域にわたって強い効力を発揮する。そうすることで、きわめて豊かな現象のなかでみずからの襞を開こうとする。したがって、わたしが人間が感覚するモノであるというとき、一見すると、感覚することをかき消し、鈍化させ、抹消させているようにみえるかもしれないし、あるいは少なくとも、感覚することから生気や活発さ、明晰さを奪っているのかもしれないが、そうではなくて反対にわたしは、感覚をこのうえなく研ぎ澄まし、それを針や剣の尖端にも似たようなものにしようとしているのである。(p14-p15)