テッサ・モーリス・スズキ『過去は死なない』(3)

じつはわたしとしては、歴史のプロセスに"連繫”(インプリケーション)しているという意識にいかに影響を与えるか、と言いたいのである。"連繫"ということばでわたしは、わたしたちの過去との関係は、ふつう"歴史責任”ということばで表されるものとは多少違うのでないか、もっと幅広い関係ではないか、と言っているつもりである。暴力行為あるいは抑圧行為を犯す者が、一般に認められている法的・倫理的意味で、その行為の結果に責任を追うのは当然である。しかし、たとえば、一九四五年よりあとに生まれたドイツ人は、ホロコーストと同じような意味で直接の法的責任を追っているわけではない。あの恐ろしい事件を直接ひきおこしてはいないからだ。同じように、一九四五年以降に生まれた日本人も南京大虐殺に原因責任を負っていない。……しかしその一方で、あとから来た世代も過去の出来事と深く結びついている。理由はいくつかある。まず、あとから来た世代は、歴史上の暴力や弾圧の行為をひきおこした責任こそ免れるかもしれないが、多くの場合そうした行為の結果としての恩恵を受けている。……しかしもっと広い意味での過去への"連繫”がある。今生きているわたしたちをすっぽり包んでいるこの構造、制度、概念の網は、過去における想像力、勇気、寛容、貪欲、残虐行為によってかたちづくられた、歴史の産物である。しかし、わたしたちの生は過去の暴力行為の上に築かれた抑圧的な制度によって今もかたちづくられ、それを変えるためにわたしたちが行動を起こさないかぎり、将来もかたちづくられつづける。過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生き続けており、それを排除するために積極的な行動にでないかぎり、現在の世代のなかにしっかりと居すわり続ける。そうした侵略行為をひきおこしたという意味ではわたしたちに責任はないかもしれないが、そのおかげで今のわたしたちがこうしてあるという意味では”連繫”している。(p33-p36)