山田智・黒川みどり編『内藤湖南とアジア認識』

 

内藤湖南とアジア認識-日本近代思想史からみる

内藤湖南とアジア認識-日本近代思想史からみる

 

 とある「ご縁」より、自分の不勉強を補う意味でも拝読させていただきました。

私には、全ての論文をカバーできる能力は毛頭ありませんので、「備忘録」として書く次第です。

本書における編纂の意図は、山田智さんが指摘するように、日本の報道メディアだけでなく、様々な媒体でなされている論調には、現代中国社会における「歪み」を見落としているのではないか、ということを次のように指摘しています。引用は長くなりますが、重要な部分ですので、あえて引用致します。

今回の暴動(2012年夏の反日デモ―引用者注)の背景としてマスメディアが盛んに指摘したのが、中国における社会的格差、特に貧富の差――経済格差の拡大であった。……この前年には、中国国内における社会的格差を象徴する都市戸籍農村戸籍との固定から生ずる差別を解消すべく、農村戸籍者が都市部へ出稼ぎ労働者として働く、いわゆる「農民工」となる際に発行された「暫住証」を、事実上の永住許可証である「居住証」へと切り替える動きが、北京や上海などの大都市を除く地方都市で始まっていた。そしてその結果、農民工の都市住民化が急速に進み、行政サービスや社会権利の平等化を要求する大規模なストライキが頻発するようになっていた。これらの都市部における労働運動・ 住民運動は、単に貧富の差だけを背景とした経済的不満の段階から、新しく生まれつつある「市民」運動へと、質的に転換を成し遂げつつあるといえるのではなかろうか。このような中国社会で進展しつつある変化に目を向けずに、十年一日のごとく貧富の差で反日暴動を理解しようとする日本人が見落としているもの、あるいは意図的に目を背けようとしているのではないかとすら思えるのが、日本と中国との経済関係が単に日中間だけでなく、中国国内の経済格差を利用することで成立しているという事実である。主に農村部から目を背けようとしているのではないかとすら思えるのが、日本と中国との経済関係が単に日中間だけでなく、中国国内の経済格差を利用することで成立しているという事実である。主に農村部から供給される安価で良質な労働力という魅力に「先進国」の中で最も強く魅かれたのは、ほかならぬ日本であった。そしてその日本は、天安門事件後の国際的な経済制裁の解除に乗り出して、「安価な中国人労働者」を活用する一方で、社会的な不均衡を前提として成長する中国社会のなかに富裕層が成立すると、「高価な日本製品」の購入層としてこれを市場化した。このような中国社会・経済の関わり方は日本一国に限ったことではないが、それでも日本が特に中国社会の格差を積極的に「利用」し、また依存している事実は否定できず、そのような状況のなかで日本企業に利用されている貧困層が、富裕層の象徴である日本製品なり日系百貨店・日系工場に対して暴力的行動をとったのが、今回の反日暴動であった。(pp.ⅰーpp.ⅱ)

続けて、山田さんは、内藤湖南を読み直す時には、以下のことに留意すべきであると、言及しています。

ニ国間関係において、相互の利用は必ずしも非難されるべきではないが、その関係があまりにも一方的な利己に基づくものになったとき、両国間の関係は破綻へ向かう可能性を急速に拡大させる。本論集で取り上げる内藤湖南が中国への言説を展開したのは、まさに日中が緊密な経済関係を築き上げる一方で、外交的な破綻に向かいつつある時代であった。(pp.ⅱ)

上記の問題認識を個々の執筆者が共有しながら、私が読む限りでは、本書はだいぶまとまった論文集という印象を持ちました。そのうえで私が気になった論文をいくつか紹介したいと思います。

まず、黒川みどり「文明中心移動説の形成」(pp.3~pp.52)と、田澤晴子「内藤湖南における二つの「近代」と「政治」」(pp.53~pp.96)の両論文は、内藤湖南における思想形成過程を取り上げた論考であり、問題認識も互いにリンクしており、どちらの論文も興味深く拝読させていただきました。

実は内藤湖南が政教社や大阪毎日新聞の記者であった、という基本的な事実は私は知りませんでした。私は「支那学」を提唱していく、アカデミシャンとしての内藤湖南像という先入観を抱きがちでしたが、内藤湖南におけるアカデミシャンとジャーナリストという「二つの側面」を結びつけながら、内藤湖南を再考する手法は、今後も有効だと思われます。

また、山田智「内藤湖南の朝鮮観と「東洋史」」(pp.139~pp.157)と姜海守「朝鮮をぬきにして「支那(学)」は語れるか」(pp.223~pp.274)の両論考も、内藤湖南における朝鮮認識をめぐる問題を取り扱ったもので、「内藤史学」において過剰なほど中国を意識する世界観・歴史観のなかには、内藤湖南において一貫とした朝鮮に対する優位性を説く言説が介在していることを腑分けしており、内藤史学における「日中二元論」というあり方について、今後いかに再考していくべきか、ということも展望に収めた刺激的な論考でした。

主に自分なりの興味関心に即しながら紹介しました。本来なら、他の論考も網羅的に紹介するべきはずでしょうが、単に私自身の「不勉強」と「力量のなさ」に帰されるものなので、 その点はご寛恕下されば幸いです。

この場を借りて、献本していただいた田澤晴子さんに改めて御礼を申し上げる次第です。こちらこそ、色々と勉強になりました。ありがとうございました。