アガンベン.G『アウシュビッツの残りのもの』(2)

 責任の概念も、手のほどこしようがないくらい法律に汚染されている。法律の領域の外でその概念を用いようとしたことがある者は、だれでもそのことを知っている。それでもなお、倫理、政治、宗教は、法的責任から領土を引き離すことによってようやく、みずからの境界を画定することができたのであった。しかしまた、それは別の種類の責任を負うことによってではなく、無-責任(non-responsabilità)の地帯を明らかにするによってであったのだ。もちろん、このことは免責を意味するわけではない。それどころか、それは、少なくとも倫理にかんしては、わたしたちが引き受けることができるよりも途方もなく大きな責任にぶつかることを意味する。せいぜいわたしたちにできることは、その責任に忠実であること、すなわちみずからの引責不能を要求することである。レーヴィがアウシュヴィッツでおこなった前代未聞の発見は、いかなる責任の確証をも受けつけない素材にかかわっている。かれは新しい倫理圏のようなものを取り出すことに成功したのであった。レーヴィはそれを「グレイ・ゾーン(灰色地帯)」と呼ぶ。それは「犠牲者と処刑者を結びつけている長い鎖」がほどける地帯であり、そこでは、被抑圧者が被抑圧者となり、つぎには処刑者が犠牲者となる。それは、善と悪を融点にもたらし、それとともに伝統的倫理のあらゆる金属を融点にもたらす、休みなく働く灰色の錬金術である。(p21-p22