アガンベン.G『アウシュビッツの残りのもの』(3)

現代における死の零落について、ミシェル・フーコーは、政治用語を使ってひとつの説明を提示している。それは死の零落を近代における権力の変容に結びつけるものである。領土の主権という伝統的な姿のもとでは、権力は、その本質において生殺与奪の権利として定義される。しかし、こうした権利は、なによりも死の側で行使され、生には、殺す権利を差し控えることとして、間接的にかかわらないという意味では、本質的に非対称的である。このため、フーコーは、死なせながら生きるがままにしておくという定式によって主権を特徴づける。十七世紀以降、ポリツァイ〔治安統治〕の学の誕生とともに、臣民の生命と健康への配慮が国家のメカニズムと計算においてしだいに重要な位置を占めるようになると、主権的権力は、フーコーが「生権力(bio-pouvoir)」と呼ぶものに変容していく。死なせながらいきたままにしておく古い権利は、それとは逆の姿に席をゆずる。その逆の姿が生政治(biopolitique)を定義するのであって、それは生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる。(p109