アガンベン.G『アウシュビッツの残りのもの』(5)

 人間が生起する(ha lougo〔場所をもつ〕)のは、生物学的な生を生きている存在と言葉を話す存在、非-人間と人間とのあいだの断絶においてからである。すなわち、人間は人間の非-場所において、生物学的な生を生きている存在と言葉(ロゴス)のあいだの不在の結合において生起する(ha luogo〔場所をもつ〕)のである。人間とは自己自身に居合わせない存在のことであって、この自己喪失と、それが端緒を開くさまよいのうちに存在している。グレーテ・ザールスが「人間は、耐えられることはすべて耐えなければならないなどということはけっしてないだろうし、このように力のかぎり耐え抜いて人間的なものをすっかり失ってしまうのを見るなどという必要もけっしてないだろうに」と書いたとき、彼女はつぎのことも言いたかったのである。すなわち、人間の本質なるものは存在しないということ、人間とは潜勢力の存在(un essere di potenza)であるということ、人間の無限の破壊可能性をつかみ取って、人間の本質をとらえたとおもうやいなや、そこで目にするものはといえば「人間的なものをすっかり」失ってしまっているということである。(p183-p184