三浦秀一『中国心学の稜線―元朝の知識人と儒仏道三教』

中国心学の稜線―元朝の知識人と儒道仏三教

中国心学の稜線―元朝の知識人と儒道仏三教

本書は、「心学」という思想史的文脈を広範に捉える試みとして、主に元朝知識人社会の動向に光を当てた著作である。

「心学」とは、南宋の陸象山(1139−1192)や、明末の王陽明(1472−1528)がなした思想が、心の修養について説いたものであるため、「陸王学」や「心学」として呼称されてきた学術的概念である。また、陸象山の最大の論敵が、朱熹(1130−1200)であり、それを「理学」として捉え、対立項となるものとして、「心学」の思想的展開を考察することが従来の研究史ではなされてきた。

しかし、本書はそれだけに局限できない要素について言及がなされ、また「心学」が儒者だけでなく、道士や禅師のなかでも議論が活発であったことに着目し、その内包する意味を明らかにしている。

本書による分析は多岐にわたるが、主に13・14世紀中国の心学運動の展開について、金・南宋・南宋・元・明の各王朝にかけて活躍した、金末元初の許衡(1209−1281)、宋末元初の呉澄(1249−1333)、元末明初の宋濂(1310−1381)の心学運動について、ひとつの「稜線」として横断的に考察している。

また本書において、影の主役として挙げなければならないのは、元朝と全真教である。元朝は文教政策の一環として、「朱子学」を公認し、宋末に停止した科挙を復活していている。

本書によれば、とりわけ元朝南人の士大夫たちは、宋末に科挙が廃止されたことで士風が乱れた状況を批判し、科挙の復活を求めた。しかし、元王朝が復活させた科挙制度(元王朝科挙制度自体は、1313年に再開され、1333年に再停止し、1342年に再開される経緯を辿っている)は、停止したことでノウハウとして実務を負える担い手すらなく、混乱をきわめていた状況であった。

本書は、そのような元朝における科挙制度の混乱を考察し、士大夫の身分としての存在意義も問われることを意味していることを明らかにしたうえで、さらに元朝士大夫たちによる科挙制度をめぐる議論に分析を加える。

もう一つの影の主役である全真教は、王重陽(1112ー1170)を教祖とし、金末期に現れた道教の教団である。その布教形態を評して、「一相を主とせず、一教に居らざるなり」(劉祖謙「終南山重陽祖師仙述記」)という言葉からも示されるように、全真教は儒・仏・道を交錯させた教説を展開し、また当該期の儒者たちも全真教が既成の概念では捉えることのできない多義性を有していたことから、関心を集めていた。

本書では、そのような全真教との関わりについて、同時代の儒者たちが著した「老子」注釈書と照合しながら、その関係性を捉えている。また全真教における教説が「老子」注釈を通して、儒者たちが修養論として、儒・仏・道を融合させていく過程を考察し、その活発化についての思想史的意義を明らかにしている。

本書で取り上げられた個別の思想家たちの考察については、力量もあるので立ち入ることはできない。しかしながら本書は、このように幅広い議論を幾重にも組み込みつつ、これまで「陸王学=心学」として捕捉されがちであった、中国心学の思想史を、儒・仏・道との関係性から考えており、丁寧な叙述で明らかにしている。

本書は初めは図書館でふと手にとり、息抜きとして読もうとしたつもりであったが、異なる時代を専門として扱っている者としても、大変示唆深い論点がいくつも示されており、様々な刺激を与えてくれた。この場を借りて改めて謝意を申したい。