バトラー.J『自分自身を説明すること』(3)

『道徳の系譜学』でニーチェは、私たちがいかにして自分の行為に反省的になれるか、また私たちは自分が行ったことを説明するために自分をいかなる位置におくか、という点をめぐって論争含みの説明を提示している。彼は、私たちは何らかの傷を受けた後に初めて自分に意識的になれる、と述べるのである。結果として、誰かが苦しんでおり、その苦しんでいる人が、あるいはより正確に言えば、司法体系のなかでその人の代弁者として振る舞っている誰かが、その苦しみの原因を見出だそうとして、私たちが原因ではないかと問いかける。問いが提起され、件の主体が自分自身に問いかけるようになるのは、侵害行為に責任を持つ者へと正当な処罰を割り当てるという観点からである。ニーチェは私たちに、「処罰は記憶を作り出すことだ」と言っている。問いは因果的な力として自己を措定し、特定の様態の責任=応答可能性[responsibility]を作り上げる。私たちは、自分がこうした苦しみを引き起こしたのかと問うとき、既存の権威によって問いただされているのだが、それは自分自身の行為とそれに伴う苦しみのあいだの因果的連鎖を認めるだけでなく、自分自身の行為とその効果に対して責任を取るためでもある。そのとき私たちは、自分自身を説明しなければならない立場にあることを見出だすのである。(p21)