ドゥルーズ.G『フーコー』(4)

あたかもマルクス以後ついに新しい何かが出現したかのようだ。国家をめぐる共犯関係が、ついに断ち切られたかのようだ。フーコーは、ある種の概念を再考しなくてはならない、と言うのにとどまってはいない。彼はそれを言うことさえしないで、ただそれを行ない、実践のための新しい座標を提起するのだ。背後では、一つの闘いが不気味な音を轟かせている。これにともなう局地的戦術、総体的戦略は、全体化によってではなく、あくまで中継、接続、集中、延長などによって実現されるのだ。確かに重要なことは、何をなすべきか、という問いである。権力装置としての国家に与えられている理論的特権は、何らかの形で、国家権力の奪取にむかう指導的、中央的集権的な党派の実践的な概念をともなっている。しかし逆に、党派に関するこの組織中心的な概念こそは、このような権力の理論によって正当化されているのだ。これとは別の理論、別の闘争の実践、別の戦略的組織が、フーコーの本の狙いである。(p62)