ドゥルーズ.G『フーコー』(1)

フーコー (河出文庫)

フーコー (河出文庫)

「新しい古文書学者」(『知の考古学』)より引用

『言葉と物』においてフーコーは、問題は物でも言葉でもない、と説明している。また、対象も主体もやはり問題ではないのである。さらに、文も命題も、文法的、論理的、あるいは意味論的な分析も問題ではない。言表は、言葉と物との総合ではなく、文や命題の組み合せでもなく、むしろ反対に、言表を暗黙のうちに前提とする文や命題に先行するものであり、言葉と対象を形成するものなのである。フーコーは、二度繰り返して後悔を漏らす。『狂気の歴史』において彼はまだ、素朴な物の状態と命題との間の二元性におさまってしまうような狂気の「経験」にあまりにも依存しすぎた。『臨床医学の誕生』では、彼はまだ、対象的領野に対して、あまりにも固定的とみなされる主体の統一的な形態を前提とする「医学的視線」について語った。けれど、こういう後悔はたぶん偽装されたものである。『狂気の歴史』の美しさを部分的にになっていたロマンティズムが、新しい実証主義のために放棄されたことを残念がるには及ばない。この、それ自身詩的で、稀少化された実証主義は、たぶん結果として、言説的形成と言表を分散させながら、狂気の経験でもある普遍的な経験を活性化し、このような形成における場の多様性によって、たえず医者や、臨床医、診断医、文明の症候学者などの場所である動的な場所を(どんな世界観とも独立に)活性化するのである。そして『考古学』の結論は、革命的な実践と一体とあるべき、様々な生産の一般理論への呼びかけではなくて何だろうか。この理論において、活動する「言説」は、私の生と私の死に無関心な、ある「外」の要素において形成されるのだ。なぜなら言説的形成は真の実践であり、その言語は、普遍的なロゴスではなく、突然変異を推進し、またときにはそれを表現することもある致命的な言語なのだから。(p32-p33)