中井久夫『精神科医がものを書くとき』

精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)

精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)

文献はさておき、徴候というのはこういうものです。たとえば、ここに足跡がある。ああ、足跡だなといえば、それきりのことです。しかし、狩猟民族には、この同じ足跡から、どういう動物が何日前にここを通ったか、その動物の性別や大きさ、妊娠していたか、空腹だったか思えていたか、何しにどこへ行って今は多分どこにいるかまでを言い当てるような人がいます。この場合、足跡は、それらの徴候です。現代人でも、相手の表情はほとんど徴候の塊ですね。それから、山で路に迷った時には、些細な差異が徴候に見えてきますよ。・・・・・・些細な手がかりから重大な結論を下すということ。一般に未来、未知、不確定なものを推量し先取りしようとすること――。人生にはデータが十分与えられて、過去のデータに照らし合わせて悠々と結論を下せる場合ばかりではありませんね。あるいは、習慣的に、昨日どおりに処理して行けばよいというばかりでは――。徴候という言葉が医学の用語であるように、医者の営みは主に徴候を読むという仕事です。(p128-p129)