キルケゴール.S『死に至る病』(3)

自己は無限性と有限性との意識的な綜合であり、自己自身に関係するところの綜合である。自己の課題は自己自身となるにある、ーーこれは神への関係を通じてのみ実現せられうるのである。ところで自己自身となるというのは具体的になることの謂いである。だが具体的になるというのは「有限的になる」ことでも「無限的になる」ことでもない、ーーなぜなら具体的となるべきものは実に綜合なのであるから。そこで発展は次の点に存しなければならない、ーー自己を無限化することによって自己を無限に自己自身から解放すると同時に、自己を有限化することによって自己を無限に自己自身へと環帰せしめること。自己がそういう仕方で自己自身とならない限り、自己は絶望状態にある、ーー自己がそのことを知っているといなとにかかわらず。ところで自己は、それが現存しているおのおのの瞬間において、生成の途上にある。なぜというに「可能的なるものとしての」kata dunamin自己は現実的にそこにあるのではなく、どこまでも現実化すべきものとしてあるにすぎないのだから。そこで自己がそれ自身にならない限り、自己はそれ自身であるのではない、そして自己がそれ自身でないということが絶望にほかならないのである(p46-p47)