ブランショ.M『文学空間』(2)

「作品と死の空間」より。

大量生産的死、組で作られる出来あいの死、リルケが常に身をそむけて来た近代世界の事物に做い、皆、何の名もない製品として、何のねうちもない品物として、大いそぎで姿を消してゆく。万人向きの、多量に作られる死だ。こういう比較をするだけで、どのようにしてリルケが、死の本質的な中性的性質から、この中性的性質が、或る歴史的な一時的な形、つまり大都会が生み出す不毛の死にほかならぬという観念に移ってゆくかがわかる。時折、恐怖にとらえられた時、彼は時代の欠陥によるのでもなく人々の投げやりによるのでもない、「死ぬこと」の何の名も持たぬざわめきを、はっきりと耳にしなければならないのだ。つまり、われわれは、いつでも、誰でも、秋が部屋の中に投げ込む蝿のように死んでゆく。蝿どもは、身動き出来ぬほど目をまわして、めくらのようにくるくる回り、突然、その愚かしい死で、壁を覆うのだ。だが、恐怖がすぎ去ると、彼は、昔のもっと幸福だった世界を思い起して、元気をとり戻す、すると、彼を戦慄させていたこの何ものでもない死も、せわしさと気ばらしに身を委ねている一時代の貧窮を示しているとしか思われぬ。(p163-p164)