富岡多惠子『釋迢空ノート』(1)

釋迢空ノート (岩波現代文庫)

釋迢空ノート (岩波現代文庫)

「歌」(短歌)は日本人につきまとっている怨霊――このことを釋迢空は知覚していた。これは、「短歌」を日本の伝統的な詩形式として信じて疑うことなく、それゆえひたすらそれに精進する同時代の「歌人」たちから迢空をひき離す。いわば、カラダで覚えてしまった生活のなかの遊芸としての「歌」と「近代の生活に対しては無能力なものかも知れぬ」との近代芸術の「短歌」への懐疑までの振子の幅が迢空にはあり、長じてから「近代の生活」のなかで趣味や芸術表現や学問として出会ったために、逆に疑うことなく現実の生活時間とは「別もの」として愛していける「素人」短歌愛好家や、「歌人」や「学者」とは怨霊のとりつかれ方も深さも違うのである。とりつかれた「怨霊」に迢空は充分に「未練」をもっている。「未練」をたち切れぬほどのものだからこそ「怨霊」とも「ゴースト」とも呼び、それを疑うことができるのである。釋迢空は「歌人」ということになっている。多くの秀歌をのこしたからそうには違いないが、生涯にわたる「歌」への熱心と耽溺、それを「未練」といいつつ、「歌」が日本人にとりついたゴーストであることを知覚し、同時代の文学としての「短歌」という詩形式への懐疑を自覚していたことは、このひとを過去の「歌人」ではなく、現代の「詩人」として登場させる。(pp60-pp61)