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ぺルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(3)

思惟による感覚の近代的横領の歴史は、まさしくデカルトとともに始まった。彼にとって無媒介的かつ明瞭に感覚するモノとは、身体ではなく知性である。さらにデカルトによると、自分の身体、すなわち自分に所属する延長したモノからは、いかなる鮮明で明晰な認識も自分のもとに届けられることはない。自分の身体は、自分の外にある 身体=物体と比べて少しも確かなものではないのだ。しかしながら、このことは、自分の身体が知性と区別されていることを意味するのではない。ただ知性のみが身体において発するものを感覚できるということを意味するのである。……今日われわれが直面している問題は、認識の源泉に関するものではない。その源泉が、反省にあるのか、感覚にあるのか、あるいは知性にあるのか身体にあるのかは問題ではない。この水準ではデカルトの勝利が決定的である。身体ではなく、知性だけが思惟するものなのだから。想定される身体の自律的感覚を知性の思惟に対置させるとしても、それほど大差はない。感覚することが主観的な何かとして思考されるかぎり、感覚することは、最初から最後まで知性の自意識に還元できるものとなる。デカルト主義の躓きの石は、身体に対する無知でも、知性と身体との関係でもなく、感覚するモノという理念そのものなのである。(p18-p19)