ペルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(6)

 

 モノ自体をあくまでも認識論の観点から考えるかぎり、それは定義上、人間の経験とは無縁のままにとどまる限界ー概念である。一方、達しえないほどの距離においてモノがあり、他方で、主体、自意識、統合的かつ関係的行為としての人間がある。……すなわちカントは、人間を存在自体、モノ自体、本体としてみなし、それにもとづいてみずからの道徳理論を打ち立てるという一手に出るのである。その大胆さは現代においてはじめて十分に理解できるものである。……モノ自体はしたがって、客体、道具、手段とは何ら関係がない。むしろそれらとは相反するものである。現象的ではなくて本体論的な道徳的生の性質は、自己においても他者においても、人間性をたんなる手段としてではなくて、つねに目的として扱うことを命じる。したがって、モノ自体であることは、人間性を卑しめ失墜させることではなくて、経験主義的世界の狭苦しさからも、必要と欲望という鎖からも人間性を解放させるのである。道徳的感覚はそれゆえ、カントが述べたとおり、器官なきセクシュアリティという匿名の中性的感覚との緊密な類似を呈することになる。……この中性的実体は、哲学的な局面には義務として現れ、身体的な局面においては無機的なもののセックス・アピールとして顕在化するのである。(p62-p64)