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ペルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(10)

事実はこうだ。人間からモノへの感覚の転移に由来する共通経験の堅固な核において、プログレッシヴ・ロック、無機的なセクシュアリティ、モノの哲学が邂逅するのである。人間がもはやまったく感覚しないというわけではない。むしろ、この非人称かつ中性的な感覚はひじょうに激しいものの、もはや人間の所有物ではないのである。つまり一種の譲渡ないし転移であり、主体から完全に外在的な何ものかへの感覚の移行が生じるのであり、この移行は、ときに宇宙として、ときに工学装置として、ときに文化として、ときに市場としてわれわれの前に姿を現わしうる。譲渡〔devoluzione〕はしかしながら、退行〔involuzione〕と同じではない。原始への、起源への、自然へのいかなる後方回帰も可能ではない。譲渡によって開かれた地平は、ポスト・ヒューマン的であって、プレ・ヒューマン的ではない。ハードコアはプログレッシヴ・ロックの響きの堅固な核であり、それが存するのは、ヘヴィ・メタルの楽器的な発声に合わせられた性的な叫び、喘ぎや呻きの錯乱したひけらかしのうちではない。そうではなく、人間の声も楽器の音のどちらもが、それらを人工的ーー機械的ではないーーなものにするひずみ、フィルター、モンタージュを通してのみ享受されるものになるという事実のうちに存するのである。人間の声と楽器の音は中性的感受性のもとで重ね合わされ、この感受性はまさに苦痛から逃れるように快楽からも逃れるがゆえに、安らぎもカタルシスも知ることがないのである。人間の声の電子的操作はこのように、口や喉を超えもはや肉ではない深みへと至るような際限なき浸透を喚起する。それはあたかも、生物学的な導管というよりもオルガンのパイプになぞらえられる管から、モノの歌声自体が生まれ出るかのようである。こうして、シンセサイザーを介した楽器の音の混合物は、総体的で連続的な触診と哺乳を称える。それはあたかも接触によって、すなわちただ身体の残部に付着するように思われる膜の無遠慮で放埒な操作によって、現実の響きそのものが浮かび上がるかのようである。技術化と工業化が暴露するのは、モノの本質的に音楽的な性質である。しかしながらその性質は、機械に依存するのではなく、感覚の移転=自己疎外、外部化に依存する。あらゆる種類の音楽や歌は、人間をそれ自身の外部へと導く運動との関連において知覚されるのであれば、ハードコアの響きへと生成しうる。音楽とは結局のところ、モノへと変容した身体のもつ引力の運動から溢れ出す音のことなのである。(p108-p109)