ぺルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(12)

女性性と男性性を一切考慮することなしに、セクシュアリティとそれに隣接する事柄について大著を書くにはどうすればいいか。ひょっとすると中性とは仮面を被った男性であり、そうすることで中立の立場に身を置いて、両性のあいだの闘いから必死で逃れようとしているのではないか。あるいは逆に、感覚はするがオルガスムを欠いたモノについての弁明は、男性の去勢、すなわち男性というセクシュアリティに固有の特性を根本から否定することを含意してはいないか。……これらの妥当な問いすべては、性がふたつであるという、当然のように与えられた前提条件を根拠としている。こうした二元性について省察を加えることで、セクシュアリティをめぐるふたつの基本的な理論が練り上げられてきた。第一の理論は、統一性のしるしのもとにある。つまり、男性性と女性性はふたつの相補的な対立項で、相互に結びつこうとする傾向にある。その結果、存在論的には両者の分割よりも優れている統一性が生み出されることになる。したがって、セクシュアリティは分離として、そして統一への欲望として捉えられる。しかしながら、それらふたつの側面のうち、第二の側面は第一のものよりはるかに重要である。第一の側面ーーここから、sexus(secare 切る・分けるに由来する)という語が語源的に派生してくるーーは、統一性を回復させることで補修されなければならない不幸な状態としてでないかぎり、まったく考慮されていない。この第一の理論のもっとも洗練されたヴァリアントは、女性と男性を、同じひとりの人物の内部に存在しうるふたつの原理、ふたつの原型であると考える。つまり両性具有(アンドロギュノス)という神話的形象は、神的統一性において、もしくは歴史的統一性のなかでもっとも完全な過去あるいは未来の人間的実体において、男性と女性の調和的共存を表象するのである。(p170-p171)