ぺルニオーラ.M『無機的なもののセックス・アピール』(14)

 セクシュアリティの理論にいたって概略的なこうした検証結果からわかるのは、無機的なもののセックス・アピールが、統一性を本質とみなす調和的展望にも、男性性と女性性との二元性に決定的な意義を付与する二元論的展望にも収まりきらない、ということである。調和も二分法も、原則的には空腹のモデルのもとでリピドーを捉える自然的有機性を免れることはできない。だが、魂や身体とは異なり、感覚するモノは満足することがない。モノの性的感覚は無限である。この限りなさゆえに、モノの性的感覚は、中性的で非人称的な汎セクシュアリズムにおいて、あらゆる形式の芸術や文化にも拡張するのだ。セクシュアリティの本性が分割することにあるとしても、無機的なセクシュアリティは、どうしてたったふたつの性しか存在せず、逆に性が無数に、すなわち無限的性が存在しないのかを理解することができない。セクシュアリティが無限であるのと同じく、与えられた大きな無限の分割可能性として理解される無限性は、そのあらゆる境界を超え、その現実性において完全に使用可能なものとして自己現前するときに、暗黙のセクシュアリティを提示する。……われわれが空隙を満たすことや突起物に満たされることとしてセクシュアリティの行使を知覚するかぎり、すべては充と空、凹と凸という分割に解消されてしまう。だが、結局のところこれこそが、自分の身体と自分のパートナーの身体のあらゆる部位に行使される分割のプロセスの始まりなのである。性は、無限に分割可能であるがゆえに無限なのだ。性を統一的かつ有機的な実体としてみなすならば、問題となるのは、その有限性であり、その輪郭をなぞる境界線である。かくして形式的な考察に囚われてしまい、自分ばかりかパートナーのなかでモノとしてモノを掴む可能性が奪われてしまう。そうではなく、自分が性を無限に分割可能なものとして考えるときにのみ、その形は瓦解し、性は宝庫として、無限な興奮で詰まった宝箱として姿を現すのだ。(p174-p175)