言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相―

言葉の〈始原〉とコスモロジーー幕末国学言語論の思想的位相.pdf - Google ドライブ

一.問題の所在

今の世に古学と称して、哥道立る徒。蟻の如く多かるに。其先生のたちの伝を物するに。契沖。県居。鈴屋をし。三哲などを称して。此大人の事をば。都に称するなきは。其徒みな哥作者にて。道の本義を知らざる故に。哥学の方より然は思ふにぞ有りける。*1

皇国の古伝説は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる。産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐る時に御伝へ坐ると、其五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り伝たるも有が中に、天祝詞なる伝は、古伝説の本にて正しき由よし〔中略〕日本紀古事記なる伝は、世に弘く伝はりたるを集め記されたる故に、自然に訛れる伝へも交れるを、祝詞の伝へにて正し辨ふべき〔後略〕。*2

平田篤胤(1776-1843)は、同時代の学者たちを指して、彼らが歌学ばかりに傾倒し、彼らが本来依拠すべきところの〈古学〉における「道の本義」については何も知らないことを批判している。篤胤は周知のように、祝詞に書かれた言葉に導かれながら、古事記以前にあった〈古伝〉の世界を、自らの力で復元しよう試みていた。この篤胤による復元作業は、神代における天地創造神話と、〈音韻言語の道〉の生成過程を同じ地平から語り出していくことにこそ、その思想的意味があったというべきだろう。 

高光る日の大御神の。御子命の天地日月と共に。弥常磐に。照らし明かし所知看す。これの皇大御国はしも。万の国の本つ祖国にし有れば。万づの物も事も。皆勝れて美きは更なり。古語に。言霊の幸ふ国。言霊の祐くる国と。称へ以来し事の如く。高天原に神留坐す。天皇祖大神たちの。天津天語をし。弥継々に。云ひ継ぎ語り継ひし故に。宇都志世人の。音韻言語の道。また夐に万国に優れて。正しく美たく。足らひ調へる御国にもなも有りける。*3

篤胤が語る〈音韻言語の道〉という言説は、「御国の古の伝は、かしこくも、天地をすらつくりましゝ、神魯企・神魯美命の、大口づから、伝へ賜へる天詔事なること、予たしかに考へ出たり」*4と述べるように、篤胤自身が構想する〈古伝〉の世界から見出されていくべきものであったと言えるだろう。しかし、このような篤胤における国学宇宙論を考えるとき、その傍らには、言葉をめぐる思想的世界も同じく存在していることに注意する必要があると思われる。かかる前提に依拠しながら、本稿における問題認識を確認する作業として、まずは従来の幕末思想史研究を再考してみたい。古い研究に遡れば、村岡典嗣(1884-1946)は、篤胤の思想について、次のような評価を下している。

篤胤の著書を読んで、その学問的精神に於いて、宣長を最もよく継承し、更に幾多補正してゐるものさへあることを、明らかにする吾人は、人格に於いて、宗派的なる彼の如きしてさへ真理の探求者として、よく斯の如くなるを得させた宣長の学問の精神、更に遡っては、契沖、真淵等の古学の精神の偉なるに、感じざるを得ない。篤胤が紀、記、祝詞、古風土記古語拾遺、又、宣長は斥けたのに拘らず、偽書ながらもとるべきものもあるとした旧事記等の古典を綜合し取捨した、古史成文の試み、そを解説し注釈した古史徴、古史伝等は、文献学上、宣長古事記伝とともに、注意すべき大著である。而して、文献学たる古学が、同時に古道であったことも亦、宣長に見たと同じであった。*5

このように村岡は、篤胤の学問を、当時の欧米における〈文献学〉と同一視しながら、それは〈古道〉に依拠した思想的方法として位置付けている。*6しかしながら、かかる村岡による篤胤をめぐる視点は、冒頭で引用した、篤胤が〈歌学び〉の学者たちと対置させたうえで、その思想的方法は〈道学び〉にあると自認した言説を想起させるものだろう。また、「彼は人格に於いて、固より宣長の如き温厚な学者ではなく、かつ、宣長に比して、儒仏両教にも精しく、かつ蘭学や聖書の知識をも多少有し、諸外教に対する敵愾心に燃えること激しく、剰へ、宣長が有した多力的信仰の如き思想的隠れ家を有しなかった」*7という村岡の言葉を敷衍するならば、従来における幕末思想史研究とは、村岡が篤胤に見たような、明治維新に連なる思想的エネルギーの淵源を、〈草莽〉に根差した〈民衆〉の精神から説き明かそうとしていく試みとしてなされてきたと言えよう。

草莽の国学とは、庶民の国学の意味である。庶民の生活に弘まった国学、之である。封建時代の庶民生活は、今日と異なり、文字通り草莽の生活と呼ぶにふさわしいものであった。〔中略〕かような時代には、文化の身分性及び地域性がひときわ立った特徴を帯び、庶民生活は、文化構造の最も下層に押し籠められねばならぬ。したがって庶民生活と国学の関係はどうであったか。国学は草莽深き地方の中に、いかに弘まったか。*8

もし明治維新が流産した政治劇となり、あれほどにも巧妙かつ敏速に国家を主導者とする近代化路線が定着されえなかったとすれば、民衆の精神の固有性はもっと明確なかたちで国家意志と拮抗しあうことになったかもしれない。*9

伊東多三郎や安丸良夫の研究に代表されるように、その思想史的研究は、「一般民衆の反秩序・脱秩序のエネルギー」*10の問題を強く認識したものであった。また同じく、幕末維新期の思想的エネルギーの淵源でもあり、同時にその〈牽引者〉として目されてきた、篤胤を中心とした、従来の幕末国学研究は、篤胤における〈道学び〉の世界に共鳴した思想家たちに焦点を当てながら、多くの記述がなされてきたと言うことができる。しかしながら、篤胤が「蟻の如く」と揶揄した、幕末維新期における〈歌学び〉をめぐる問題は、従来の思想史研究では長らく捨象されてきた課題であるように思われる。本稿は、以上のような問題認識に即しながら、〈言霊音義派〉と呼称されてきた国学者たちの思想的位相について検討を試みる。〈言霊音義派〉と呼ばれる思想家たちが、思想史研究の俎上に置かれなかった背景として、その思想が、「今日の我々としては到底受け入れがたいものが多く、それをたどって理解することも容易ではない」*11と言及されているように、主張の荒唐無稽さと思想的無内容性が同居したものと考えられてきたからに他ならない。しかしながら他方では、〈言霊音義派〉の思想に積極的な意味を見出していく試みもなされていた。例えば、時枝誠記(1900-1967)は、『国語学史』(1940)の中で、〈言霊音義派〉の歴史的意義を高く評価している。時枝は、西洋における言語観の特質として、言語とは事物を伝達道具として捉えるような、〈物としての言語〉が根底にあると考え、かかる西洋の言語観と対置させる意味で、日本における言語観の特質として、言語という存在は事物と一体化したものと考える傾向があり、単に言語を事物の伝達道具として捉えるのではなく、言語とは同時に事物の表出でもあるという、〈事としての言語〉が根底にあると考えている。このような文脈から、時枝は〈言霊音義派〉の国学者たちの思想を、前近代日本において〈事としての言語〉を再発見したものとして高く評価したうで、「それが若し到達すべき極点にまで至ったならば、そこから新しい言語の観点が生まれたであろう」*12と、その思想的可能性について言及を行っている。このような時枝における〈国語学〉が孕んでいた思想的問題は、近年のいわゆる〈近代知〉研究の側面からなされた研究蓄積が明らかにしている通りである。*13確かにこの意味において、〈言霊音義派〉という学術概念は、〈昭和日本〉という時代的状況を反映した、時枝自身の夢想の産物だと言えるだろう。また時枝は続けて、〈言霊音義派〉の思想は、「その暇なくして西洋言語学がこれに取って代ることになる」*14と語っているが、実際には、〈言霊音義派〉と呼称されてきた国学者たちの存在とその言説は、幕末維新期から明治前期にかけて、西洋言語学における語学書が流布していく時期と重なりあいながらも、広く共有されたものであった。本稿では、かかる思想家たちを呼称するものとして、学界では既に膾炙しているものであるため、〈言霊音義派〉という用語で統一するが、それは、これまで検討してきたように、〈言霊音義派〉という学術概念の歴史的経緯を無視するものではないことは強調しておきたい。以上のような前提から、本稿は、〈言霊音義派〉と呼ばれた国学者として、具体的には、鈴木朖(1764ー1873)・高橋残夢(1775ー1851)・富樫広蔭(1793―1873)の思想に着目し、彼らの言語論とその思想的位相について、再考を試みる。

二.鈴木朖の〈道〉と〈言語〉

鈴木朖は、『離屋学訓』(1811)の中で、次のように述べている。

ソモ/\学ハ道ヲ学ブ也。道ヲ学ンデ心ニ知ルハ文学也。口ニ述レバ言語也。文学ニカキ書ニ著スモ猶言語也。是ヲ以テ身ヲ修レバ徳行也。是ヲ以テ人ヲ修ムレバ政事也。大方学問ト云事世ニ始ルヨリシテ、必此四ツニ分ルヽ事、天地ノ間古今カワリナシ。*15

朖は、学問とは突き詰めれば、〈道〉について学ぶことであると言う。しかしながら、その〈道〉について知るためには、〈文学〉や〈言語〉に関する学問が必要であることも付言している。なぜなら口で語ることも、文字で書物を書くことも、〈言語〉という学問がなければ、その〈道〉も成り立たないからだ、と朖は語るのである。このように朖は、〈文学〉や〈言語〉を学ぶ行為を、〈道〉を学ぶ行為に集約していることが窺えよう。また、〈文学〉や〈言語〉という学問とは、それぞれが〈道〉の内奥とその深意を明らかにするためのものであることを、朖は次のように述べている。

文学ノ名義ハ、上ニイヘルガ如シ。其シワザヲイハヾ、道理ヲ明ムルト、事ニ通ズルト、業ヲ身ニツクルトノ三ツ也。是ヲ二ツニワクルトキハ、道・芸トイヘリ。道ハ和漢古今サマ/\ノ道ナリ。芸ハ文武ノ諸芸也。〔中略〕此ノ如ク分レタルトキハ、二ツニモ三ツニモ分カレタルドモ、総テイヘバタヾ道ナリ。畢竟文学ハ道ノヤドリ也。文学ニ通ジテ、ソレニ明ラメ知ルヲ有道ノ人トイヒ、身ニ行ヒ得ルを有徳トイフ。有徳ハ徳行ノ科ナリ。有道ヲ以テ文学ノ極意トスベシ。*16

古歌古文ノ古語ノ中ニハ、コトニ古ノ道ノ意ノコモレル事ノケレバ、文学ニテハ、コレニ習熟シテ古道ヲアキラメムベク、言語ニテハ、コレヲマネビテ古意ヲ述得ル事ヲ心ガクベキ也。*17

このように朖は、〈文学〉や〈言語〉という学問とは、「ヤドレル道ヲ明ラメ知ル」ことであると語る。その意味において、朖は〈道〉という存在を、かかる知的営為が連関した総体として捉えている。

道ハ一ツ也。是ヲ身ニ行フヲ徳行トシ、是ヲ述ルヲ言語トシ、是ヲ敷キ施シテ人を治ルヲ政事トシ、是ヲ明ラメ知テ人ヲ教ルヲ文学トス。*18

このような、朖が捉えた〈道〉をめぐる言説の意味を、幕末国学の位相から再考するために、本居宣長(1730-1801)が見出した、〈道〉をめぐる言説について検討しておく必要があると思われる。宣長において、〈道〉とは、〈漢意〉を取り除いた、「生まれながらの真心の道」であった。

がくもんして道をしらむとならば、まづ漢意をきよくのぞきさるべし、から意の清くのぞこらぬほどは、いかに古書をよみても考へても、古への意はしりがたく、古へのこゝろをしらでは、道はしりがたきわざになむ有ける。そも/\道は、もと学問をして知ることにはあらず、生まれながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とはよくも悪しくも、うまれつきのまゝの心をいふ、然るに後の世の人は、おしなべてかの漢意にのみうつりて、真心をばうしなひはてたれば、今は学問せざれば、道をえしざるにこそあれ。*19

このように、宣長は〈漢意〉を排除しながら、「生まれながらの真心の道」が完備された、〈皇国〉という言説を立ち上げていく。この意味において、〈皇国〉に完備されるべき言葉は、「純粋正雅ノ音」でなければならなかった。有名な言葉だが引用しておこう。

皇大御国ハ、如此尊ク万国ニ上タル御国ナルガ故ニ。方位モ万国ノ初ニ居テ。人身ノ元首ノ如ク。万ノ物モ事モ。皆勝レテ美キ中ニ。殊ニ人ノ聲音言語ノ正シク美キコト。亦夐ニ万国ヨリ優テ。其音清朗トキアザヤカニシテ。譬ヘバイトヨク晴タル天ヲ日中ニ仰ギ瞻ルガ如ク。イサヽカモ曇リナク。又単直ニシテ迂曲レル事無クシテ、眞ニ純粋正雅ノ音ナリ。*20

しかしながら、朖は〈道〉とは、〈差異〉そのものを受容し、その〈差異〉を理解すべきものとして提示している。朖は次のように語る。

道トイフ名ノコヽロハ、俗ニイフ為方也。本ハ行ク道路ヲ以テ、行フ道義ニタトヘタル異国ノ語也。〔中略〕今一ツハ古ノ道、今ノ道、異国ノ道、或ハ君子ノ道、小人ノ道ナンド云フハ、皆ソレノ流儀、シカタノカハリアルニテ、譬ヘバ本街道アリ、小道アリ、近道アリ、廻道アリ、又ハ馬ノ道ヲ蟻ノ道ト云フガシ。此二ツ共ニシカタ云、俗語ノ心ニ違フ事ナシ。凡テ道ハ、ワザモアリ、事モアリ、道理モアリ、甚事繁シク広キ物也。〔中略〕サレバ、上古ノ道アリ、中古ノ道アリ、近古ノ道アリ、今ノ道アリ、異国ノ道アリ。〔中略〕上古ノ道ハ古書ニアリ、中古近古ノ道ハ、各ソノ時代ノ書ニアリ。今ノ道ハ今ノ世中ニアリ、異国ノ道ハ、各異国ノ書ニアリ。以上ノ道々ヲ、各其々ノ心ニナリテ、少モ混雑セザル様ニ、委シク明ラカニナラヒ学ビテ心得ル事、是文学ノ大体ニシテ、学者ノ本業也。*21

ここで、朖と宣長における〈道〉をめぐる言説について確認したかったのは、宣長以降の国学における思想的相貌である。このような、〈言霊音義派〉の国学者たちによる思想的実践を考えるならば、それは宣長が「凡ソ人ノ正音ハ此ニ全備セリ」*22と述べるように、〈皇国〉に介在している絶対的な「天地ノ間ノ純粋正雅ノ音」*23という論理と、彼らが依拠していた思想的前提は、大きく異なっていたことを提示したかったからである。なぜならば、朖は、〈声〉の固有的価値よりも、その普遍的価値の視座から、〈言語〉をめぐる問題を考えていた。朖は次のように言う。

言語ノマコトハ音声ナリ。カクノ如ク言語ノコヽロアル事ハ。天ノ下ノ人オシナベテノ事ナル故ニ。音声ノ上ニテハ。境ヲ隔テタル異国ノ言語ニモ符号スル事アリ。*24

ここまで、幕末国学言語論における思想的地平について確認するため、鈴木朖における〈道〉と〈言語〉をめぐる言説について分析してきた。〈言霊音義派〉の思想は、古代ヤマトコトバに対する信仰を理論化し、狂信性を帯びたものとして記述されることが多い。*25しかしながら、〈言霊音義派〉における思想的実践は、宣長が提起した〈皇国〉の論理を解体=再解釈することにより、かかる〈固有性〉の概念を剥離し、さらにその概念を自己拡張させ、〈言霊〉の世界と宇宙生成論を融合した言説を再構成していく。*26次節以降では、〈言霊音義派〉の思想家たちが織り成していく思想的世界について、高橋残夢の思想を参照にしながら、具体的に読み解いていきたい。

三.高橋残夢の〈言霊〉論―〈声〉と〈匂ひ〉―

本節では、高橋残夢の〈言霊〉論について検討していく。しかしながら、残夢をめぐる先行研究に関しては、これまで伝記的研究がわずかになされているだけであり、その具体的な思想については、十分に解明されていない点が多く残されている。まず、高橋残夢の略記について触れておきたい。

高橋残夢は、1775(安永4)年に、京都室町にて生まれており、残夢の父である平松正春は、富士谷成章に和歌を師事している。天明の大火のために、高橋家は備前国笠岡に移り、高橋美啓の養子となり、1813(文化10)年に香川景樹に入門している。しかし、1822(文政5)年に家産を没収されたことで、大坂に移り住んでいる。大坂では、山片蟠桃で知られる山片家で和歌の師匠を務め、また在坂における香川景樹門下の歌人に対して、指導的な役割を果たした思想家であった。*27残夢における〈言霊〉論は、『国語本義総説』(成立年不詳)の中で、次のように展開されている。

言霊と云事は。神代よりいひ伝え語り継て。藤原朝までは言霊知らざりけり人は。をさ/\世になかりけむを。漢学盛に行なはれ。文字を賞翫事を我人歓事となりて。歌を出にも。義訓などを風流なりとして。山柿の歌聖次々。義訓なる書き方多くし給へり。〔中略〕言霊と云もの忘れ行く世々に連て。訓義は説べき道を失へり故に。詮すべくなく文字によりて訓義を心得るとは成りぬ事なり。嘆くべし悲しむべし。*28

残夢は、古代日本に漢字が流入したことで、本来あるべき〈言霊〉の世界が失われたことを、悲嘆を込めながら批判している。しかしながら、残夢がここで語っている言説は、ほとんど常套句として使われたものであり、その意味において、この言説だけでは残夢の思想を読み解くことはできない。むしろ着目すべきなのは、残夢が続けて述べている一節にあると思われる。

近世古学専らに行はれて、学者次々に出てくるが故に、訓義は文字によりて弁ふべきものにあらずと、口にもいひ、書にもかけといかにせむ。其本を失ひぬれば、猶文字によりて説の外はなかりけり。又近世言霊唱ふる人、ここかしこにもあれど、言語名義の上にはいはずして、太占水茎など怪しき業をつくり出し、世の人を欺くが故に、心ある学者は中々にお嘲り笑ひ、耳にも触す。*29

残夢は、「近世言霊唱ふる人、ここかしこにもあれど、言語名義の上はいはずして、太占水茎など怪しき業をつくり出し、世の人を欺く」と語るように、この意味において、残夢は同時代の〈言霊〉論を唱えた国学者たちを批判しており、自らの思想は、それとは異にしていることを強調していることが読み取れよう。しかしながら残夢は、〈言霊〉という概念を、〈皇国〉の構成原理としてではなく、自己拡張させながら、天地普遍における原理として再構成していく。残夢は次のように語る。

抑言霊は。清濁七十五音の上。一声々々を魂有と云へる也。人は天地の分霊にして万物の長也。声は天地の声なり。暫く人に宿るが故に人声と云ふのみ。声は活物也。など霊なかるべき。鳥獣の上も猶然るべし。鶯の花にうたひ。郭公の月に鳴なるも。時を感ずる声なれば。など霊なからむ。〔中略〕此皇国に限る事と思ひそ。唐土天竺四海に渡りて。言霊なき国あることなし。霊なくして言語の通ふべきならず。*30

残夢は、〈言霊〉という存在は各音にそれぞれ魂が込められており、それは人に限らず、万物に存在していることを述べる。そして続けて残夢は、〈声〉というものは、たまたま人にもそれが宿っているだけであり、たとえば、鶯が花で歌い、郭公が月に鳴くような〈声〉と同じものであり、そしてこの意味において、残夢は「声は天地の声」であると語るのである。残夢において、〈言霊〉という存在が普遍的原理であることは、「声が天地の声」である限り、それは、「此言霊皇国に限る事と思ひそ。唐土天竺四海に渡りて。言霊なき国あることなし」と言及していることからも分かるだろう。このようにみれば、〈言霊音義派〉と呼ばれる国学者たちの思想的作業は、宣長における〈皇国〉の論理を切り崩しながら、「天地の声」としての〈言霊〉という前提を通しながら、その論理は展開されていくと考えることができるだろう。こうして残夢は、「天地の声」という言葉をめぐる〈始原〉の世界を見出していく思想的作業を試みていく。

いつらの声のいづれにすれど。天地開闢のことわりにて。口を開けばまづ「あ」の音ぞ出づ。次に唇を合はすれば、「お」の音出づ。次に歯と合すれば。「う」の音出づ。舌ふるれば「ゑ」とひらき。牙にふるれば「い」とひらく。是ぞ天地自然なる声にて音韻の原也。*31

残夢は、このように言葉の〈始原〉をめぐるコスモロジーについて語り出していく。「真洲鏡之図」は、残夢が「天地の常理」として提示したものである。(図1)

(図1)高橋残夢『霊の宿』(国立国会図書館所蔵)

 

f:id:n-shikata:20150103142804j:plain

「真洲鏡之図」は、一音ずつ各音を配置しながら、縦の音を「高天棚」・「天之棚」・「中ツ棚」・「地之棚」・「根之棚」として配置し、また横の音を、「真洲鏡の頂きに、天之中道内外としるしたるは、中柱今言は自他通言にて中柱に集れり。声は我も人も今為す業今言ふ言」*32と説明しながら、「自言」・「今言」・「他言」・「去言」の各音に配置したものである。この「真洲鏡之図」について、残夢は、「此五音の次第。次第に昇生ゆくは天地の常理なり。西は低く東は高し。西国人は声低く。東国人は調高し。此鏡の面にくわしく学べば。音の強中重状を必ず覚れり」*33と説明しながら、さらに〈音義〉論による視点を絡めて、次のような解釈を施している。

此図をして、「ますかがみ」といふは、「ます」は、「ま」・「さ」・「う」に約まり、「す」となる。「まさ」は正なり。「う」は動き働くなり。正働き発りて。「す」と中に集まりて。渡空し。「かゝ」の「か」は晴也。「か」は陰也。万物の陰陽善悪。正に此中に尚ひが故に。「み」と結びて。「ますかがみ」とはいふ也。古く「ますかがみ」といへるは。「ま」・「さ」・「お」に約して。正外に発るという義也。「お」は外に発る此霊なり。*34

このように残夢の思想は、〈音義〉論を組み込みながら、〈言霊〉の世界と宇宙生成論とが融合した独自の世界を織り成しており、その思想において、いわば繋ぎ目的な役割を果たしているのが、〈音味〉という概念である。残夢は〈音味〉という概念について、次のように解釈している。

「あ」は顕れ出る也。霊顕るゝの義。顕すの調の声の源。喉音末言なり。霊は音味なり。匂ひなり。「あ」の声は顕出の味匂ひあらはれる。〔中略〕夜明ければ万物形にさやかにあらはるにて顕るゝの義となり。あらはすの詞となりて変化せり。〔中略〕すべからく物名に一声名あり。詞に一声言あり。声の霊義よくにしるべし。*35

味という名義を考るに。「あ」は顕れ出之霊。顕れるの義。顕の詞。「ぢ」は満溢るゝ此義なり。天地之間に顕れ出るもの。「ぢ」と満溢れざるものなしといふ義と。皆天地日月水火舌別れ出る。舌気世に満溢るが知味(ママ)なり。天地日月水火各味生れいずる。天に生ずることの。地に産るゝ物。世に産るゝもの。すべからく味なり。〔中略〕音五味もまた百々千に己ふれて一味なかれば。耳にふれ。目にふれ。鼻にふれれ音味を知といへども。口にいひ。書にかくことわりならず。よりてあきらけし。*36

残夢は、「霊は音味なり匂ひなり」と述べるように、〈音味〉という概念に即しながら、〈言霊〉の世界を把握しようとしている。これを筆者なりに解釈すれば、残夢はそれぞれの〈声〉には、その文字を見るだけでは捉えられないような、〈味〉も〈匂い〉も有したものであり、この「声の霊義」の意味は、その〈音味〉が有している意味も同じく考えなければならないと、残夢は述べているように思われる。この〈音味〉という概念は、残夢における歌論的テクストの中にも言及されているものであり、その意味において、〈音味〉という概念は、残夢の思想的世界のなかでも、根幹をなす部分であったと言えよう。残夢は『和歌六体考』(成立年不詳)において、次のように述べている。

只天地の心に従ひて。人声を出すとき。音をたのめり。自然の六体匂ひききて、音はいにしへにあるべきなり。音は日月の山にをいがけるが如く。花実の本末に発るが如く。時に従ひて発り。口に唱ふべきもの也。時に色も匂ひもおのずから出くるが故に。声によりて人感ずべし。*37

このように、残夢の歌論もまた、〈音味〉という概念から和歌解釈が施されており、それは残夢における思想的独創性とも考えられることも出来るだろう。しかしながら、藍弘岳による次のような指摘を参照するならば、残夢における〈音味〉という概念も別の位相から考えられるだろう。藍は次のように述べる。

詩の体格と平仄韻律など「声」の抑揚・軽重などを調和させる句法、字法に現れた「色」「味」、及びそれに含意された「意」に関わる。〔中略〕「気象」という詩学概念があるように、詩がもつ含蓄的な意味と関わっている。「気象」は詩の「声律」と詩に使われた「辞」の「色」と詩全体がもつ「味」によって興って読者にたちに感じ取られる気勢と言外の韻致などと捉えられる。*38

以上のような、藍における指摘に基づくならば、残夢における〈音味〉という概念も、より広がりのある世界から再考できる余地が残されているように思われる。この意味において、藍による指摘は、残夢自身の詩文論の受容という問題だけではなく、幕末国学における詩文論の受容という問題について考えるためにも、示唆に富んだ考察であると言えよう。しかしながら、本稿では紙幅の都合上もあり、これ以上の分析はできないことを、あらかじめお断りしておきたい。次節では、富樫広蔭における〈言霊〉論について、検討を行いたい。

四.言葉の〈始原〉とコスモロジー―富樫広蔭の思想的世界―

本節では、〈言霊音義派〉の国学者たちの議論が、同時代において、思想的波及性を有していたことを提示するために、富樫広蔭の思想について考察を試みたい。しかしながら、高橋残夢と同じく、富樫広蔭における先行研究も少ないため、煩雑な労を厭わず、広蔭についての簡単な略記について、まずは触れておきたい。

富樫広蔭は、1793(寛政5)年に和歌山で木綿商を営んでいた井出由英の三男としてうまれており、1820(文政3)年には本居大平(1756-1833)に入門している。1822(文政5)年には、大平の養子となり、同時に本居春庭(1763-1828)に入門した。広蔭は春庭の『詞八衢』を学び、1850(嘉永3)年には、桑名中臣社の社家である鬼島家を継ぐが、1858(安政5)年に、富樫姓に帰っている。『詞玉橋』や『詞玉襷』を現しており、主にテニヲハ研究に力を注いだ人物である。1873(明治6)年に没している。広蔭の思想は、〈テニヲハ〉の問題から、その〈言霊〉論を構成していくものであった。広蔭は次のように述べる。

世ノ中ニアリトアル人。日毎ニ事業ニ就テ思フ心ヲ見ル。物聞ク託テ歌ニ詠イデ。文章ニ書著ス徒ハ更ナリ。吾ガ神作ノ言語ニテ際限ナキ物事ヲ辨テ。過生涯人タラム者ニハ。何業ヨリ最先言ノ深意詞ノ活用辞ノ例格ヲ教テ。諸藩国トハ殊ナル神国ノ言霊ノ神妙ナルヲシラセ。遠祖神ノ恩頼ノ広大ナル片端ダニ慥ニ信セテ。真ノ道ニ進ム。*39

言詞ニ繁助ケ。語ヲ成テ。幽キ意象ヲ顕尽ス音ニテ動クモ静レルヲアルヲ。〔中略〕然ル故ニ。言ナキニ詞アル事ナク。言・詞無テハ。辞ヲ用ル場所ナシ。マタ詞ヲソベザレバ。言ノ文ナク辞ヲ繁助テ語ヲ成セバ。言詞ノ意象ハ顕尽ベカラズ。*40

このように、広蔭は〈テニヲハ〉の世界に、「言霊ノ神妙」を見出す。このような、広蔭における思想的世界を提示したものとして、『言霊幽顕論』(京都大学附属文学研究科図書館本)がある。(図2)

このテクストにおいて着目すべきなのは、〈声〉の生成と宇宙生成を連関させながら、提示しているところにある。しかし、このテクストは図を示しただけであり、広蔭の注釈も、「ヒラケソムル象」・「ウキアカル象」・「キヨク立チノホル象」という説明がなされているだけであり、その詳細は分からない。この宇宙生成図を注釈したものとして、『古事記正伝抜萃』(東京大学附属文学部図書室所蔵本)・『神霊生成始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)・『神霊生成始原考講説』(神宮文庫所蔵本)などがあり、本節では、かかる未見史料も加味しながら、広蔭における〈言霊〉論の一端について触れてみたい。『古事記正伝抜萃』では、『言霊幽顕論』の中で提示した、宇宙生成図について、広蔭は次のように語っている。

サテ其正シキ「天地」ト言フ広蔭ガ創リテ考得タル音ノ義以テ委クイハヾ。「天」ノ「ア」はクルリト丸ク取廻シ開ケ対ヒテ、地ヲ覆メグリテ神気ヲ下シ恵ミ養フ義。「メ」ハ(ユ韻・ム音)ニテ。「エ」ト押シ。ソノヨセテコナタノ内ニ持タセタル生気ヲ。万物ニ送リ続ル勢ヲ「ム」と引ツメ持テ神気ヲ充満スルヨリ。地ニ生立万物ハ天ノ益人ハ更ナリ。ソノ益人ノ一日モ無クテハ立ウベカラザル。*41

「地」ノ「ツ」ハ丸ク堅マリ締リテ。「島モ締ルト同義也」一ツノ形ヲナシテ。ソノ地ニ生成出ル万物ニ。「チ」ハ(ツ音イ韻)ニテ。気力ヲ充満セ養育テ。「イ」ト地上ニ勢力ヲ持セ立延サセテ。形質ヲ調ル義ナルヿヲ。天地ノ神気ニ生気ノ奇シク万物ヲ産出マスニ。産日ノ夫々ノ暖和温潤ノ栖ヲ得サセテ。豊潤ニ莝生シ幸ヘ坐ス。*42

このような広蔭における「天地」に対する注釈を見れば、広蔭は〈言霊〉の世界を、宇宙論的なあり方を含意したものだと理解していたと考えることができるだろう。広蔭は、宇宙生成と〈声〉の生成が同時に進行していく過程について、次のように言及している。

其天地ノ神気生気ノ恵ヲ受テ生育ス。万物モ自然ニ天地ノ丸キ形象ニテ。大空ノ日月星トイヘドモ。悉皆丸キヲ常トスルヲモ考合スベキ。サテ地上ニ立述ル万物モ。天ノ神気ノ漸々ニ天地ニ帰テ。薄ラクニ従ヒテ自然ニ腰カヾマリ草木モ枝垂下リ。人モ草木モ共ニ暗ガチニナリ。神気ノ帰リ尽レバ地ニ倒レテ。元来地ノ生気ト又土ノ生気ニテナレル食物ノ性気トニ養育ラレタル形質ハ。根本ノ土ニ帰ルヲ見テモ。一身トハ御中主タリシ心。是ノ本源ノ天ノ御中主ノ御許リニ帰ルヿヲモ慥ニ察明ムベシ。*43

ソノ万物ノ生成出ル本源ノ神気ハ。悉皆天之御中主神ノ別魂ヲ賜ハレルニテ。ソノ身体ノ生成出ルハ。高御産日神・神御産日神ノ産栖霊ノ生気神気ニ。宇摩志阿斯訶備比古遅・天之常立ノ。ソノ二産日霊ノ生気神気ノ活機ヲソヘ坐テ。養育マス別天神五柱ノ御徳沢ニ洩ルヿナキヲ。仰ギ尊ミ喜ビ信ジ奉リテ〔中略〕コレラノヿ此神々ノ下ニ釈別タルヲ考合セテ。此ノ別天神ノ他ノ神々モ。知別坐御徳沢ノ麻尓麻尓恵幸賜ムヿヲ祈念申スベシ。コノ道理ヲヨク/\考エ合セテ。吾ガ言挙ノ空言ナラザルヲ了明スベシ。コレ則大和魂ヲカタムル大基本ナリ。*44

このような、広蔭における〈言霊〉をめぐる思想的世界は、『神霊生成始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)では、〈音義〉論の視点から、各音にそれぞれ記紀神話の神々を配置しながら、注釈を施している。広蔭は次のように述べる。

「紆」。天之御中主神。喉ヨリ初テ発ル息。口ノ中ニミチテノビ。ヒロカムルトスル象有テ。至ラヌ所ナキイキオヒフクム。天地ノサマ思合スベシ。紆ハハジメヨリヲハリカヌル音ナレバ。コノ韻凡テ万ノ物事ヲサシテイヒモ断テ止リモスルナリ。*45

「唹」。高御産日神。別名高木神。喉ヒラケテ。発息オノヅカラワカレ降リ。カトガヒニソヒ。スボリマリテナガクツヾキ。ヒロクウクル象有テ。キザシ昇ルイキオヒヲフクム。地ノナリソメノサマ思合スベシ。コノ韻スベテ討(ママ)ノ下ニツキテハタラクコトナシ。*46

広蔭自身の注釈に即して理解するならば、各音には天地創造の時点から神が宿っており、またこれらの各音はその神々の形象として表現していると考えることが出来よう。それは別のテクストである『神霊生成始原考講説』(神宮文庫所蔵本)においても、次のように言及されていることからも明らかだろう。

「紆」。平常ニ言語セザル時ハ。塞居ル口ヲ初テ発ケバ。口ノ中ニテ天地ト称ツベキ。顎願ヒラケテ。喉ノ奥迄ノ一段高キ高天原トモ称ツベキトコロニ。「紆」ノ音自然ニ独音(ママ)ニ成出ルヲ。永クヒケバ音ノ基本ハ。ソノ高天原トモ称ツベキ所ニ留リテ。余韻ハ口ノ中ノ天地ノ間ニ充満テ。五韻十音千言万語ノ根源トナルヲ。天地ノ形象ニ思合テ〔中略〕委シキ事ハ「古事記正伝」ニ云ルヲ見テ。ワガ神国ノ言霊幸マスヿノ寂尊(ママ)ヲ知ベシ。*47

「唹」。次ニ「紆」ト唱ナガラ初メテ発キタル口ヲ。三四分ヒラケバ。例ノ高天原ト称ツベキ所ニ留リテ。ソノ余韻ハ口ノ中ニテ地球ヲ称ツベク。一球ニ成テ長クモ広クモツヾキモ。表ハワカレツラナリモシテ。物ヲウケタモツ形象アリテ。キザシ昇リ万物ヲ地中ヨリ地上ニ産出ヘキ勢ヲ含メルヲ。天地ノ初発ノ形勢ニモ思合スベク。コノ韻ノ音ノ凡テ詞ノ下ニ属テ。アラハニ活ク事ナク。静辞トナリテ幽ヨリ活機ヲナス事。多カルフカキ理ヲモ委シク弁フベキコトナリ。*48

このように未見史料と合わせて検討すれば、広蔭が『言霊幽顕論』において提示した宇宙生成図とは、天地創造と共に神々が作られ、同時に〈声〉もまた生み出されていく過程を示したものとして考えることが出来るだろう。たしかに広蔭の思想は、従来の先行研究でも言及されているように、一見奇異な印象を受けるものかもしれない。しかしながら、広蔭だけでなく、〈言霊音義派〉と呼ばれる国学者たちが織り成した思想的世界は、桑原恵が指摘するように、中盛彬などの在村的知識人層にも見られるものであった。*49この意味においても、幕末国学における〈政治運動〉的な側面だけではなく、その〈言霊〉論が広範な思想的実践を有していた意味を再考する必要があると思われる。本稿で検討したように、鈴木朖や高橋残夢、そして富樫広蔭の思想的世界について考えれば、従来の幕末思想史研究が提示してきた歴史とは、また異なる思想的位相を素描できる可能性を有していると言えよう。

五.今後の課題

最後に今後の課題について触れておくことで、本稿を終えたいと思う。本稿では〈言霊音義派〉の国学者たちの言説をめぐって、言葉の〈始原〉とコスモロジーという視点から、その展開過程について考察を試みたものである。近年の研究では、とりわけ〈国学=音声主義〉として言及されることが多い。しかしそれは、あくまでも宣長の思想的作業から分析したものであり、他の思想的テクストも参照にしながら考えなければならない問題であると思われる。本稿で検討したように、高橋残夢は、〈言霊〉の世界の普遍性を疑わなかったし、鈴木朖もまた、〈道〉や〈言語〉の固有性という言説は存在していない。しかしこのような、〈言霊音義派〉の国学者たちが見出していく、〈言霊〉の世界とそのコスモロジーをめぐる問題は、これまでの思想史研究において等閑視されてきた経緯もあり、未だに検討する課題が数多いと言える。また彼らの思想は、その音図が、明治初期の学制成立期に一時期ながらも採用されていたことを想起すれば、実際には明治前期までは、思想的影響力を持っていたものと考えることができる。*50以上のように考えれば、〈言霊音義派〉の国学者たちの言語論をめぐる問題は、たしかに〈明治日本〉による〈言霊音義派〉に対する思想的解体という側面を孕みながらも、それは〈明治日本〉による言語的ナショナリズムの成立過程と同時進行的になされていくことは見逃してはならないだろう。この意味において、〈明治日本〉における言語的再編という大きな歴史的文脈から考察すれば、〈言霊音義派〉の思想が孕んでいた問題を別の側面から映し出せるものと思われる。今後は、本稿では考察できなかった、大国隆正(1793-1871)や堀秀成(1820-1887)の思想について、具体的に分析する作業を行うことで、より議論を深めていく必要があるだろう。以上のように課題は山積しているが、ひとまず本稿の筆を擱くことにしたい。

(図2)富樫広蔭『言霊幽顕論』(京都大学附属文学研究科図書館所蔵)

f:id:n-shikata:20150103150031j:plain

天地創造

f:id:n-shikata:20150103150134j:plain

第一図

f:id:n-shikata:20150103150156j:plain

第二図

f:id:n-shikata:20150103150229j:plain

第三図

f:id:n-shikata:20150103150251j:plain

第四図

f:id:n-shikata:20150103150314j:plain

第五図

f:id:n-shikata:20150103150333j:plain

第六図

f:id:n-shikata:20150103150356j:plain

第七図

f:id:n-shikata:20150103150416j:plain

第八図

f:id:n-shikata:20150103150509j:plain

第九図

f:id:n-shikata:20150103150528j:plain

第十図

文責:岩根卓史

(『日本思想史研究会会報』第30号。2013年。pp42-pp59。)

【付記】今回の論文転載において、画像引用の協力を国立国会図書館京都大学附属文学研究科図書館からいただいた。末尾ながら謝意を示したい。 

*1:平田篤胤『玉襷』巻九。平田篤胤刊行会編『新修平田篤胤全集』第六巻所収(名著出版、1977年)。p488。

*2:平田篤胤『古史徴開題記』。古伝説の本論。古史徴一之巻。山田孝雄校注(岩波文庫、1936年)。p33

*3:平田篤胤『古史本辞経』巻之一。発言叙言第一。平田篤胤全集刊行会編『新修平田篤胤全集』第十五巻所収(名著出版、1977年)。p416-p417

*4:平田篤胤『霊の真柱』、上つ巻。平田篤胤『霊の真柱』、子安宣邦校注(岩波文庫、1998年)。p15

*5:村岡典嗣復古神道に於ける幽冥観の変遷」(前田勉編『新編日本思想史研究ー村岡典嗣論文選』所収、東洋文庫、2004年。初出1915年。)p128。 

*6:近代日本の〈文献学〉をめぐる問題については、桂島宜弘『自他認識の思想史』(有志舎、2008年)。第四章「国学の眼差しと伝統の『創造』ー『想像の共同体』と国学運動」に詳しい

*7:村岡前掲論文。p129

*8:伊東多三郎『草莽の国学』(名著出版、1982年。初出1945年。)p1。

*9:安丸良夫『日本ナショナリズムの前夜―国家・民衆・宗教』(洋泉社MC新書、2007年。初出1977年)。p1。 

*10:安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波現代文庫、2007年。初出1992年)。p250 

*11:尾崎知光『国語学史の基礎的研究―近世の活語研究を中心として』(笠間書院、1983年)。p423。

*12:時枝誠記国語学史』(岩波書店、1940年。)p192。

*13:近年の代表的な研究としては、安田敏朗『植民地の中の「国語学」―時枝誠記京城帝国大学をめぐってー』(三元社、1998年)。イ・ヨンスク『「国語」という思想―近代日本の言語認識』(岩波現代文庫、2012年。初出1996年)。子安宣邦『日本近代思想批判―一国知の成立』(岩波現代文庫、2003年。初出1996年)などを参照

*14:時枝前掲書『国語学史』。p192

*15:鈴木朖『離屋学訓』。学問ノ主意。芳賀登・松本三之助編『日本思想大系 国学運動の思想』所収(岩波書店、1971年)。p364。

*16:同前、文学ノ大意。p373

*17:同前、言語ノ学ノ大意。p403。

*18:同前、四科ヲ取総タル論。p367。

*19:本居宣長『玉勝間』巻一。学問して道をしる事。大野晋編『本居宣長全集』第一巻(筑摩書房、1968年)。p47。

*20:本居宣長『漢字三音考』。皇国ノ正音。大野晋編『本居宣長全集』第五巻(筑摩書房、1968年)。p381-p382。

*21:鈴木朖前掲。『離屋学訓』。文学ノ大意。p373-p375。

*22:本居宣長前掲。『漢字三音考』。皇国ノ正音。p382。

*23:同前。

*24:鈴木朖『雅語音聲考』。鈴木朖『言語四種論・雅語音聲考・希雅』(勉誠社文庫68、1979年。)p58。

*25:豊田国夫『日本人の言霊信仰』(講談社学術文庫、1980年)などを参照。

*26:この点に関しては、友常勉『始原と反復―本居宣長における言葉という問題』(三元社、2007年)。終章「古道と権道」を参照。

*27:高橋残夢の伝記的研究は、亀田次郎「高橋残夢伝」(『言語学雑誌』第3巻3号、1902年)。木村三太郎『浪華の歌人』(全国書房、1943年)。管宗次『幕末・上方歌壇人物史』(臨川書店、1993年)などを参照。

*28:高橋残夢『国語本義総説』(静嘉堂文庫所蔵本)。一丁ウー二丁オ。本文中の句読点については、読者への読みやすさを考慮して、筆者の判断で付けた。文責は筆者にある。また、他の引用文についても同様に句読点を施した。

*29:同前、二丁オー二丁ウ。

*30:同前、二丁ウー三丁オ。

*31:高橋残夢『霊の宿』(国立国会図書館所蔵本)。一丁オ。

*32:同前、四丁ウ

*33:同前、三丁ウー四丁オ

*34:同前、四丁オ

*35:同前、六丁ウ。

*36:同前、五丁ウー六丁オ。

*37:高橋残夢『和歌六体考』(静嘉堂文庫所蔵本)。十七丁オ。

*38:藍弘岳「徳川前期における明代古文辞派の受容と荻生徂徠の『古文辞学』」(『日本漢文学研究』第3号、2008年)を参照。

*39:富樫広蔭『詞玉橋(改訂本)』。富樫広蔭『詞玉橋・詞玉襷』(勉誠社文庫64、1979年)。p16。

*40:同前、p17-p18。

*41:富樫広蔭『古事記正伝抜萃』(東京大学附属文学部図書室所蔵本)。五丁ウ。

*42:同前、七丁オ。

*43:同前、八丁オ。 

*44:同前、八丁ウー九丁オ。

*45:富樫広蔭『神霊始原考図』(宮内庁書陵部所蔵本)。一丁オ。

*46:同前、一丁ウー二丁オ。

*47:富樫広蔭『神霊始原考講説』(神宮文庫所蔵本)。二丁オ。

*48:同前、二丁オー三丁ウ。

*49:桑原恵『幕末国学の諸相―コスモロジー/政治運動/家意識』(大阪大学出版会、2004年)。特に第一章「中盛彬の思想Ⅰー『産霊』のコスモロジー」・第二章「中盛彬の思想Ⅱー『産霊』と『和歌』」を参照。また、最近の研究として、相原耕作「国学・言語・秩序」、末木文美士・黒住真・佐藤弘夫・田尻祐一郎・苅部直編『日本思想史講座3ー近世』(ぺりかん社、2012年)も参照。

*50:この点は、古田東朔「音義派『五十音図』『かなづかい』の採用と廃止」、古田東朔編『小学読本便覧』第一巻所収(武蔵野書院、1978年)を参照。