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『表象08』拝読しました(2)

感想の続きです。『表象08』のもう一つの特集は、「特集2:ドゥルーズの時代」です。この特集は、國分功一郎さんの『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店2013年)と、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズの生成変化の哲学』(河出書房新社2013年)を軸とした対談です。まず國分さんの著作は、いままでのドゥルーズ研究が、〈政治的ドゥルーズ〉という思想家として過度に読み込まれていることを批判しながら、ドゥルーズ=ガタリの協働作業と、ドゥルーズ個人における哲学とに峻別することの必要性を提起しています。このような前提に基づきながら、ドゥルーズが練り上げる「哲学原理」をヒューム、カント、フロイトを系譜とした、「超越論的経験論」として読み解き(第2章)、そしてドゥルーズにおける「哲学的実践」の可能性について、とりわけ「思考」と「習得/学び」の理論として収斂させていく、前半部分における筆致の手際良さはとりわけスリリングなものでした(第三章)。もう一つ國分さんの著作において重要な位置付けを占めているのが、「権力」論をめぐる問題です。國分さんはフーコーの「権力」論を射程に置き、ドゥルーズにおける「権力」論とは、「権力に対する欲望の優位」(p223)であることを次のように説明しています。

 

 権力は、高い所だろうと、低い所だろうと、とにかくどこから来て、主体に働きかけ、その主体が「本当にやりたいこと」を抑制して、何かを行為させる。もちろん、「本当はやりたいこと」があるのに、それが抑制される、というのは最終的には維持できない考え方である。「本当はやりたいこと」は、決して自然発生的なものではなく、何らかの原因によって生み出されたものだからだ。しかし、権力の概念、すなわち、人に何かを行為させる力に依拠する限り、この考え方を振り払うことはできない。権力の概念で眺められたとき、人間は何かをしているのではなく、何かをさせられているのだから[1]

 

だから、ドゥルーズは権力ではなく、欲望に注目するのだ。欲望はどこからか何かに作用するのではない。その主体に内在する力である。そして、その内在する力が諸々の要素と組み合わさって、欲望のアレンジメントが構成される。身体刑を見に来る民衆は、処刑場に来ることを強いられているのではない。規律訓練における監視に従う労働者や生徒や兵士は、従うことを強いられているのではない。彼らはそのように行為したい、という欲望を抱いている。欲望のアレンジメントという考え方は、その欲望の発生を明らかにするための視座を提供するものだ。権力の概念は、そうした発生過程の結果――「欲望のアレンジメントの先端」――しか扱えない。だから、権力装置の分析は不可欠ではあるけれども、「二次的」な意味しか持たない。「権力に対する欲望の優位」という視点がなければ、社会の現実には迫れないのだ[2]

 

國分さんのドゥルーズ論が、「ドゥルーズにおける哲学原理」にこだわり抜いて、その思想を把握しようとする試みだとすれば、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』は、ドゥルーズの思想を説明するとき、「リゾーム」という概念を想起すれば分かるように、〈接続〉というイメージがつきまとう思想家として読解されてきた節があり、むしろ、ドゥルーズは、〈切断〉に重きを置いた思想家として読み解かれるべきではないのか、というのが、千葉さんの著作に込められたメッセージであると思います。千葉さんは以下のように言及しています。

 

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性の志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや世界を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆いつくしていき(接続過剰)、同時に異なる信条が多方向に対立している〈切断過剰〉二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。……接続過剰から切断へ、あるいは有限性へ。そして、かつてのポスト構造主義の渦中においては、とりわけドゥルーズこそが、関係主義から部分的に分離するという課題を先駆的に明示していたと評価できるのである[3]

 

討論の内容全体に踏み込めるほどの力量は私にはないにしても、千葉さんが討論のなかで、ドゥルーズ=ガタリの哲学と精神分析をめぐる新たな解釈の可能性として、自閉症スペクトラム障害との関わりから言及している部分は、実は千葉さんの著作で触れられている、〈関係主義批判〉の問題とも関わってくるのではないか、と思いました。

 

ドゥルーズ=ガタリがスキゾという言葉でいっていたもの、そのスキゾが含んでいた肯定性の側面は、ある種の自閉症者がひとつのことにこだわってそれをやり続けてしまう状態、國分さん的に言えば、徹底的に浪費するということ、没入することができる状態に似ている。それは、まさに真理に直面することであり、自閉症的な状態をポジティブに評価することになる。ドゥルーズ=ガタリの哲学は、そういった自閉症の問題を俎上に載せているという気もします。スキゾだけでなく、自閉症あるいはアスペルガーという問題を考慮に入れることで、フランス現代思想における精神分析論に、新しい整理の軸を提供できるのではないかと思います[4]

 

「特集2:ドゥルーズの時代」に関する感想は以上です。

 

掲載論文では、高山花子「「瞬間」に耳を澄ますこと―モーリス・ブランショにおける声楽的概念としての「歌」」(pp173-pp189)と、久保田翠「ケージから離れて―クリスチャン・ウォルフと間隙の作法」(pp190-pp208)の二つの論文に、とりわけ興味が惹かれました。特に、高山花子さんは、京都大学での発表パネルでご一緒した際、僕の報告そのものが「突貫」ということもあり、「かなりご負担をおかけした」のにもかかわらず、色々とサポートしていただいたことを改めて感謝申し上げます。高山さんの論文では、ブランショにおける「声楽」という視点は、ほとんどブランショを好んで読む人でも、盲点の部分だったのではないしょうか。今後の活躍をご祈念しております。

 

書評も充実しており、読み応えがありました。その中でも橋本一径「「同じもの」を見るということ―田中祐理子『科学と表象―「病原菌」の歴史』」は、現在における日本の科学界を揺るがしている問題とも通じるものがあり、本書自体は未読ですが、機会があれば読みたいと思っています。

 

簡単な感想ということもあり、散漫な印象論や、内容を誤読・誤解している部分も多々あると思いますが、『表象08』が、充実した内容であることは間違いありませんので、是非手にとってください。長くなりましたので、このあたりで筆を擱きたいと思います。

 

 

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

 

 

 

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学
 

 

 

科学と表象 -「病原菌」の歴史-

科学と表象 -「病原菌」の歴史-

 

 

 



[1]國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』、岩波書店2013年。p219p220

[2]同前。p220

[3]千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房新社2013年。p230p231

[4]國分功一郎+千葉雅也+堀千晶+佐藤嘉幸「共同討議ドゥルーズの哲学原理』と『動きすぎてはいけない』」、『表象08』所収、2014年。p117p118